11日目、12日目
しかし、人間として扱われないことがそんなにも辛いことなのだろうか?
なるほど他人から〈人間どころか生き物ですらない〉扱い、もはや人間が人間として見られず、もの言わぬ人形、動物、奴隷、物にまで引きずりおろされた状況に出会ったとしても、それは時と共に忘れてしまい、妥協できるのではないか?なぜ『バナナフィッシュ』の主人公はいつまでも幼年期に強姦されたことを覚えていて、そして海藤も精神病院の一ヶ月間を忘れることができないのか?
忘れることはできないが、しかしこれに目を瞑り見なかったことにすることはできる。
一ヶ月後の海藤を、あるいは一年後の海藤を描くとすれば、彼は高校に戻り精神病院のことなど頭から抹消し、友人と楽しそうに話しているが、しかし温泉などの共同風呂に入ることでもあれば、彼は湯船に浮かぶ垢やフケといったものに黒い腐ったような嫌悪を感じ、耐えきれず湯船から出ていってしまう。
彼は他人よりもいっそうひどい潔癖症ということになり、彼含め誰もその原因が精神病院にあるなどとは思ってもみない。
けれど社会人は誰もがその状況に妥協して生きていると言い返すこともできる。
奴隷だ社畜だと扱われようと、物乞いにまで落ちようと、人間の尊厳がまるでなくなるような状況に出会おうと、あの看護師たちのようにそれを否定し見ないことにすることはできる。
「受験落ちたくらいで情けないわ、社会に出たらもっと辛いこといくらでもあんのに」と自分に言い聞かせ社会や人間を見ないようにすること。同じくどんな出来事をも「でもあれは障害者(社会)だから」と一括りにし見ない態度。妥協と否定。諦念と希望の取り引き。
わたしはそういったことよりも、諸状況に出会いどこか欠けてしまった人物がなにを補うことでバランスをとっているのかが気になる。
ところで、さっきから長々と語っている“人間として扱われない状況”とはどんな状況下を指すのか?
人間として扱われないことがそんなにも苦痛なのだろうか?という問いを発することはできる。というのも、普通わたしたちは人間として扱われない状況などに出会わないから、想像すらできないのだ。
例えば、それは先程述べた社畜と呼ばれる会社員や売春婦や物乞いや患者として扱われるのとどう違うのか?
「ありのままの自分を見てほしい」と言ったって、それが無理だということは承知の通りだ。高校生は高校生として、会社員は会社員として、物乞いは物乞いとして、売春婦は売春婦として見られるほか無い。ならば彼も患者として振る舞えばいいのではないか?
違うのだ。高校生から売春婦までありのままの自分では無いにしろ、大前提として人間という上に成り立っている。ガキなんかに分かるかと子供扱いされようがそれは人間の高校生であり、同じく会社員を社畜と呼ぼうがそれは人間の社畜である。物乞いも売春婦も同じく人間のそれらだ。患者も、精神病院でもない限り“人間の患者”として扱われるだろう。
ところがここでは、精神科医や看護師と患者との間に根本的な否定が、壁があるため、彼らは”人間の患者“ではなく、”人間ではない“患者として扱われる。
だから、そもそも”人間として扱われない状況“とはどのような状況下を指すのか前とは別の切り口で明らかにする必要があるだろう。
これには実際に竹宮から聞いた話が役に立つ。
そう言えばこの第二部は一応三人称で書いているから、竹宮も福良もロクちゃんも理解できる。
しかし、一人称的に海藤の目を通して見た場合、彼にとって竹宮とはまったく理解不能な人物である。
例えば11日目の月曜日、作業療法で絵画を選んだ海藤は、絵画教室に竹宮と隣の席に座っているところだ。
「今回は絵を自由に書いて下さい」作業療法士はそう言ったものの、絵を自由に描くとは案外難しい。
「読書感想文を書け」と教師に言われた場合は参考となる本があるからわりかし楽だが、「自由に作文を書け」と言われた場合、なにを書けば良いのか分からず困ってしまう。
竹宮は描き終わった時間を持ちあましていたが、海藤はなにを描けば良いのか分からず、中学の頃塾講師が落書きとして描いていたサインのようなマークを思い出し描いた。
30分して、「では、それぞれ発表して下さい」と作業療法士の声が発せられる。
海藤はマークを見せたが、「それはなんですか?」と聞かれても「なんとなく」と答えるほかなかった。
一方竹宮は、白紙の中に丸みを一切なくしただただ線、一直線の線が縦横無尽に書きなぐられ線同士が交差し合い多角形が空白に表れた絵を発表した。
「これはなんの絵ですか?」と作業療法士。
「自分は描こうとして思ったんですが、どうやら丸みを描くのが苦手らしいんです。そこで直線的な線だけを描きました。それで思い出したのですが、障害や精神疾患を規定するDSMやICDでは、発達障害者の絵についての特徴がのっていたと思うんです。その件に関してどう思いますか?」
作業療法士はキョトンとしている。そこにまた竹宮は言葉を続ける。「つまり直線的な線を好むのは、この自閉症スペクトラムによるものなのかどうか?という事をお聞きしているんです」
当時の筆者が呆気にとられたのと同様、海藤の視点に立つとこの竹宮という人物は全く理解出来ない。彼は自閉症を認めて欲しいのか?認めて欲しくないのか?作業療法士に食ってかかっているだけなのか?それとも本気で質問しているのか?
作業療法の時間が終わる頃には昼食が始まろうとしていた。海藤は四人部屋に戻る帰り道、竹宮に聞いてみた。「あの絵はどういう意味だったんですか?」
竹宮は真剣に悩んでいるような調子で吃りながら言った。「自分は、自分自身のことがよく分からなんだよ」
四人部屋に戻り海藤の苦痛が始まる。広間から昼食をベッドに持ってきたはいいものの、全く食欲が出ずスープを一口飲んだだけで横になってしまった。
「海藤さん!食事下げてください。聞こえてますか?聞こえてますか〜?」
看護婦の馬鹿にするような声を聞くたびに、彼はあの吐き気のするようなオナニーに対する看護婦の対応を思い浮かべずにはいられなかった。胃がキリキリと痛む中で、もう目も鼻も耳も効かずなににも煩わされないことを望んだ。鼻も?そう、彼は食事を目にするたびに、あの閉鎖病棟特有の糞尿も食事の匂いも混じった腐った匂いを感じていた。
「そんなに嫌ならポリバケツに捨てればいいじゃないか」無理なのは分かってる。あの中身をもう一生見たくはないんだ。「お前は甘えてるだけじゃないの?」そうなのだろうか?ぼくは甘えているだけなのだろうか?
薬を運ぶ看護師がやってきて「海藤さん、食欲無いんですか?」と聞いた。「そうですね...」「これが続くと点滴になりますよ」
いま彼はなにも考えずに済むことを望んでいるが、この光景は前にも見たからもう充分だ。ではいったい閉鎖病棟のころとなにが違うのか?
一般病棟は彼にとって人間として扱われないという状況が看護師の対応やロクちゃんのオナニーに接する度絶えず思い起こさせるのだ。
しかし、人間として扱われないことがそんなにも辛いことなのだろうか?
どんな話しの流れでそうなったのか筆者にはもう思い出せないが、精神病棟には苦痛なほど時間があったことは確かだ。
竹宮はあの独特な手つきで自分自身の考えを区切るように話し始めた。
「自分がバーテンして働いていた時にね、その頃は社会不安障害とアスペルガー症候群という診断名だったけれど、客に対してどうやったってことばが出ないんだよ。頭に用意してきた接客トークもどこかへいって、ことばをだす事がどうやっても、酒の力を借りてもできないんだ。
で、まだ自分が障害者だと思って無かったから、これは自分の意志の弱さだと思った。だとしたら自分の意志が弱いのか強いのか確認したくなった。もし意志が強ければ客に対して喋れるだろうと。つまり覚悟を決めたら、客に対して喋る事は造作もない事だと思ったんだ。根性焼きみたいなもんさ。
その確認の為に、バーのトイレの水を飲んでみたんだ。いくら掃除してるたって洋式便器の水だよ、汚くない筈がない。
ただその便器の水を飲める事が出来たら、きっと俺は意志が強くて、客に対しても喋れるだろうと。
洋式便器に頭突っ込んで水を飲んだよ。これで自信がついたと、自分はここまでやれるんだと、覚悟を決められたと思った。思い込んだ。
でもね、客の前に戻って話そうとしたけど、やっぱりどうしてもことばが出てこないんだね、トイレの水を飲める覚悟があるのに、どうしたって客前でことばが出てこない。
その時自分は...きみのことばで言えば自分自身の限界だろうけど...もう無理だと思った。そこで全部諦めて、障害のせいにしちゃったのさ。
一切は社交不安障害と自閉症スペクトラムだからしょうがないって風に。けど受け入れた途端、この障害を確かめて見たくなった。どこまでが自分の障害のせいで、どこからが自分の性格のせいなんだろうと...」
トイレの水を飲む行動は覚悟や意志の確認と言われてもいささか奇異に思われるが、しかしわたしたちがトイレの水を飲まなければならない状況を想像してみれば分かりやすい。よっぽど追い込まれ、生きるか死ぬかの減量中のボクサーでもなければ例え金を貰ってもそんな汚く苦痛を伴うことなどできやしないだろうから。
ところで竹宮はこの話しを通して、海藤になにを伝えたかったのだろう?
いや、彼のゆったりとした空を描く手つきを見ていると、わたしには彼がなにかを伝えたかったのではなく、自分自身の考えをただ整理したかっただけのように思える。
けれど竹宮の語ってくれたこの話しのおかげで、わたしはそもそも”人間として扱われない状況“とはどのような状況を指すのかを別の切り口から示せるように思える。
それはトイレの水を舐めるというほどの、人間としての尊厳がなくなった──人間を人間としているの条件を手放すほどの──状態のことを指す。
(むろん竹宮に対し人間の尊厳が無いと言っているわけではない。トイレの水を飲むという人間として耐えがたい、最低の、尊厳までをも捨てざるをえない状態のことを指している。)
もし竹宮の話しを鵜呑みにするとすれば、なぜ絵画教室で妙な質問をしたのかも理解できる。彼は他人の心に興味をもち解剖するように、自分の障害をも解剖して正体を明らかにしようとしているのだ。
つまり彼にとっての基準、物差し、自分が何者かを明らかにしてくれる絶対的な基準が無くなってしまったために、彼はこうして障害を検討していくという迷路に踏み込んだわけだが(もし覚えておられるなら、彼の一人称が「自分」という主体性のないものだった事や、彼が健常者と障害者として自分の動作を絶えず気にしていたことを想起されたい!)、
しかし、彼の話しによってもう一つ疑問が生まれる。
なぜ彼は未来もなく過去の思い出も苦痛でしかないのに、過去を思い返し語るのだろうか?彼に夢想癖があるのは自分自身の中に逃げ道を見出すほかないからだというのは既に述べた。
しかし、この自分自身の中に閉じこもり逃げ込むこと(自分自身という迷路の中で彼は常に確認したいと欲している)と、苦痛でしかない過去を思い出すこと、これはある点で両立する。
彼が障害を受け入れたときから、彼の疑惑、疑念が始まったわけだが、常に接する出来事に対して「これは障害のせいか、否か?」という判断が先立ち、それを正確に検討すること。過去の苦痛と、現在の自分を常に調べていく苦痛とは、同じマゾヒスティックな苦痛の快楽によって結びつく。
例えれば自傷癖と言ってしまって良いだろう。彼の場合は精神的な自傷癖となる。過去や現在を暴いて検討していくというのは、リストカットした手首から血が出るように(そして、しばしば自傷癖を持つ人がその血を見て確認の安堵を持つように、)検討していく中から常に血が出て、その血こそが竹宮の確認の証拠となり、苦痛と確認の快楽とが結びつくのだ。
けれど、話しを基準に戻せば、AAの教義に従うだけでも良かったのではないか?
〈神に対し、自分自身に対し、他の人々に対し、自分自身の欠点の正確な気質を受け入れた〉というAAの教義、──“われわれは神の前には無力である”という教義──は、「神」ということばを「障害」ということばに言い換えれば基準が出来上がってしまう。
わざわざトイレの水を飲むなどという馬鹿げたことをしなくとも、“われわれは自分の障害の前に無力である”と認め、全てを障害や神のせいにしてしまえば良かったのだ。
そう、それがなぜか福良にしろ竹宮にしろ出来ないのだ。全てを受け入れ妥協するということが。
竹宮が障害を受け入れがたい理由を推測するとすれば、前にも述べたように自分が“アスペ”と侮蔑される障害者となったことだろう。(しかしこれは誰でもが経験する可能性のあることだ。例えばわたしたちが「あなたは余命3年の癌です」と医師に診断されたら、何かの間違いだと思うし、なぜ自分がと悲観的に、自暴自棄になり、死ぬ寸前まで抗おうとするだろうから。)
話がだいぶ逸れたので、また海藤に戻そう。
海藤は竹宮の話を聞いたせいで、彼のことがますます分からなくなってしまった。
というのも、人と話すことがトイレの水を飲むのを迫られるほど緊張し覚悟のいることとは思えないからだ。
例えばこういう問いを立てたとする。あなたはバーテンとして働いていて客に話さなければならない。あなたは客と話すか、トイレの水を飲むか、どちらかを選ばないと殺されるとする。二者択一の状況でどちらを選ぶか?
竹宮にとっては後者になるが、この問いは実は成り立たない。というのもわたしたちにとって客と話すこととトイレの水を飲むこととはあまりに不釣り合いで理解できないからだ。
同じ重さの問いなら成り立つ──よくある親と恋人とが溺れていてどちらを助けるか?──が、客と話すということが想像もできないほど簡単にできてしまうために、この問い自体が理解されないのだ。
けれどこの話によっていくつかの問題には答えが与えられるだろう。例えば未だに基準がどこにもない海藤にとって(彼はいまや高校生として扱われていなければ障害者でもないし親も医者も信用できない。何によっても規定されない存在だ)、彼を測る基準、物差しはどこにあるのか?
幸いなことに彼には西野という友人がいるが、友人が意味をもつとすればこの一点、自分自身を等身大で写し出し確認できる鏡となってくれるということだろう。(これはさっきの「ありのままの自分」といった問題と似通っている。)
わたしとしてはむしろ、人間として扱われなくなった海藤、徹底的に打ちのめされいまや夕食を取りに行く気力すらない海藤が、どのように育っていくかが気になる。竹宮や福良のように受け入れられず、あくまで拒絶し、失われた分をどこかで補いバランスを取るのか?(バランスをイコール依存だと言い換えても良い。竹宮にとってのバランスが精神的なリストカットだとすれば、福良にとっては自殺願望だということになる。そしてAAのおじさんは神に依存した。)
けれど、もう結構。睡眠薬を飲んで寝てしまおう。
今の海藤が依存しているのは睡眠薬だ。
翌日、海藤はあの閉鎖病棟の腐ったような匂いをいくらか軽くするために週3回の共同風呂に入った。
相変わらず置いてあるのは擦り切れた石鹸だけだったが、それでも無いよりはいくらかマシだ。
風呂の表面には垢やフケといった老廃物が浮いている。彼はまたもや、何も見ずに済むことを望む。
けれど、この行き過ぎた潔癖症のようなものは、ぼくがおかしいのだろうか?それともぼくが正常で、精神病院がおかしいのだろうか?
そう彼が考えたのは、今まで風呂の表面に浮かび上がった垢やフケといった老廃物になにも意識していなかったのもあるが、温泉含め共同風呂は誰もが文句なしに使うものだ。
そこである一人が共同風呂を見てこんなものは耐えられないと叫び出したとしたら、きっとそいつは社会不適合者の烙印を押され、頭のおかしいやつだとされるだろう。
彼はちょっと風呂に入っただけで出てしまったが、これは彼の中で一つのモチーフとして繰り返されることになる。共同風呂の雑多な汚さというふうに。
看護師が呼びに来て竹宮と海藤とロクちゃんは別々に風呂に入ったものの、福良は入らなかった。風呂に入ることは多大な労力を必要としたが、彼はもう風呂に入るどんな力も持っていなかった。
自殺願望がゆったりと頭をもたげたのは、風呂に入ることや食事をするという人間の、あるいは動物の根本的な条件が満たされていないという不安からだった。
つまり、風呂にすら入れないおれは人間としてどこかおかしく、欠陥品なのではないかという考え。
福良と海藤はまたもや同じ答えのない問いに立ち戻る。「間違っているのは自分か?社会か?」
ただ、彼が最近気づいたのは、自殺願望を持っているときは不思議と心が軽く、自殺願望を持っていないときは、逆に心が重いということだ。
葉っぱがひるがえるように正常と非正常がそっくり反対になったように思われたが、けれど彼は次のように考えることもできた。
もしかすると、自殺願望を持っているということは自分の心にだけ手を煩っている状態なので、実はこっちの方が健康なのかも知れない。というのも他人のことを考えずに済み、自分の食い扶持だけしのげれば良いこと、これはこれで一つの健康なのではないだろうか?
むしろ、他人のことを考え、自分のことを考えずに済む状態、おれがこっちになぜか漠然とした不安を感じ、心が重く感じられるのは、他者への責任感の表れで、自分ではなく他者を考えること、これは不健康なのではないだろうか?
自殺すると言ってる奴で実際に自殺した奴が少ないのは、自殺願望をもっている状態が健康だからだ──
福良がなぜこんな理屈に合わない考えを生み出したのかと問われれば、自殺が悪(不健康)で、生きることが正(健康)だと幼い頃から教えられてきた学習のためだと言えるだろう。
自殺願望と実際の自殺はまるで関係がない。福良に自殺願望はあるが、実際に自殺した後のことまでは考えていない。もちろん自殺後について当人が知ることなどあり得ないが、しかし残された遺族にとって、自殺は無責任で、あんなのは悪だと言われることは知っている。
福良が自殺願望を健康だと(やや無理な理屈で)正常化したのは、自分が自殺願望を抱いているかぎり、実際に自殺することは無いだろうという安心感からでもあった。
承知の通りこれも一つのバランスの取り方だが、では依存とは、結局アルコールから自殺願望へと、自殺願望からAAの神へと、形態を変えるだけで依存自体は変わらないのだろうか?
彼のもとの悩み──ナマの現実を見たときにアルコール依存になる人とならない人との違い──に答えを与えるとするならば、誰もがアルコール以外になんらかの形で依存しているという教科書的な答えしかできない。
そして、その答えはもう本人が知っているため、なんの意味ももたない。
竹宮も福良も、自分の問題に対して答えを持っているのに、その答えに納得できないという妥協できていない状態にいる。
わたしが前にこれを精神科医ならば“幼稚な悩み”と書くだろうと述べたのは、大人にあっては上手く妥協できているように見えるからだ。(しかし、余命3年の癌だと言われていつそれを受け入れられるのか?)
ところで海藤に理解されなかった竹宮の話は、福良にとっては次の意味で理解される。
うつ病が少し前まで甘えだと言われていた世代に属していた福良も同じく、自分の心が弱いからうつ病になるのだろうか?と考えたことがあるからだが、では普通の大学生がうつ病になってアルコール依存性になるのに、もっと酷い状況にある人物──物乞いや社畜扱いの会社員──がうつ病にならずに済むのは何故だろうか?
彼の出した結論は、人間は平等に人間的に悩やんでいるからその悩みの辛さに優劣は付けられないというものだった。
そう、平等に人間は悩んでいるので、竹宮が他人と話せないのにトイレの水は飲めるという状況は、普通の大学生がうつ病になっても他の大学生がうつ病にならないのと同じく、外的要因から悩みの度合いは測れないのだ。例え大学生と売春婦でも全く悩みの度合いは測れない。
彼がそのことを発見したのは他ならぬロクちゃんのオナニーによってだった。
ロクちゃんがオナニーしながら「あかんねん、こんなことしたらあかんねん」と呟くのを聞くうち、知的障害者にもオナニーに対しての罪悪感があるのかと衝撃をうけた。そして、障害も職業も年齢も人種も関係なく、人間は平等に悩んでいて、おれがうつ病になったのも、大学生や親の死といった外的要因がなんら関係の無い”なにかなのだと。もしおれが大学生ではなく社会人でも、親が死んでいなくても、きっとなにかでうつ病になっただろう。
尤もそのなにかは分からなかったが、もしここでわたしが冒頭で述べた問いにまた戻れば、福良は次のように言い返すこともできる。高校生から物乞いまで、子供と大人と、社会人と売春婦と、自閉症とうつ病と、看護師と患者と、悩みの度合いは均一に同じなのだと。
だから、もう一度問い直そう。“人間として扱われないことがそんなにも辛いことなのだろうか?”そして人間として扱われない状況とはこれらの悩みとどう違うのか?
海藤が風呂から戻ってきて竹宮に「あの風呂は汚いですね」と声をかけたとき、竹宮はそのことばが理解できなかった。
なぜなら彼は共同風呂や4人部屋といった雑多な汚さ、そこに均一化される恐怖より、均一化されることにむしろ安心感すら覚えていたのだから。
それは彼が常に健常者と障害者である自分を比べ、社会が彼にとってむき出しの精神を露出させて歩く苦痛であったのに対して、精神病棟内で同じ障害者の一員とされることが楽であったからでもある。(だからと言って竹宮がここに安住している訳ではない。彼は看護師を憎んでいた。)
看護師と患者との間には客体的な否定が壁となりそびえたっているが、竹宮と社会の間には主体的な拒絶が横たわっていた。
社会の間では彼は常に健常者のモノマネとして怯えながら歩かなければならない。「おまえはわれわれと同じ人間ではない」と誰かに言われている気分になる。
しかしここにもまた差異がある。竹宮に「おまえはわれわれと同じ人間でない」というのは顔のない誰かであり社会であり自意識だが、海藤に「おまえはわれわれと同じ人間ではない」というのは医者であり看護師であり人間だ。
一見正反対なだけで同じように見えるが、竹宮の場合それは健常者との比較やアスペといった蔑称の受け入れ難さという自意識過剰からきているのに対し、海藤は全く同じ人間から認められず否定されている。
同じ人間から否定されること。福良のいう人間の悩みの度合いが均一だということは人間であることを前提とした悩みだが、同じ人間から「おまえはわれわれと同じ人間ではない」と否定された人間は、もはや悩むことすら許されない。人間として扱われない状況とこれらの悩みとの違いは、前提として人間であるか否かである。
人間として扱われない状況というのは、もはやどこにも居場所(社会にも、精神病院にも、人間たちの中にも、尊厳も、苦痛の快楽の中にも、生にも、死にも、未来にも過去にも、自分自身の中にさえも)がない状況のことをも指す。そこにあるのはただただ無である。その絶望には名前がない。
竹宮を苦しめているのは単純な障害者に対する差別意識だが、海藤を(または精神病院内にいる患者全てを)苦しめているのは差別ですらない。同じ人間として認められないという途方もない否定である。
「福良さんは風呂入らなかったんですか?」
「うん...この前入ったんですよ」
海藤に聞かれて答えたものの、実は前の入浴機会にも入らなかった。
福良はAAにいたおじさんのことを思い出していた。あの芝居がかったセリフは自分自身に言い聞かせていたのだろうか?AAの神の教えを広めることで自分の行為が正しいと確認したかったのだろうか?
それに、川上看護師。あいつはなぜ自分のことばが正しいかのようにおれに話しかけてきたのか?自信たっぷりにうつ病やアルコール依存性について話せる根拠はどこから来ているのか?
時計を眺めるともう夕食の時間が近づいていた。「海藤さん、一緒に食べにいきませんか?」と誘ったのは福良も自分の考えが正しいのか確認したくなったからだ。
海藤は夕食を取り福良の横に座った。福良は自殺願望の考えについて話すつもりだったが、食事の席で湿っぽくなるのも失礼に思え笑い話にして話すことにした。
「おれが...小学生のとき、担任の教師が酷い熱血漢で、そのときたまたま不登校の子がいたんですよ。それで、こうやって...団地で文字通り引っ張って連れていこうとしたんです。おれは同じ団地で見ていたんですが、まあ酷いんですね。不登校の子が階段の手すりをつかんで、担任の教師はその子の足をつかんで引っ張りあいになるんですよ。団地だから音が響くでしょう?それでもう、阿鼻叫喚...『学校に行きなさい』って声と、『いやだーっ!』って声が響いて...ははっ、引っ張りあいの末、ついにその子のズボンまで脱げて、もう団地の人はみんなドアから顔を出して眺めてる。はははっ、あれは今ならきっと虐待として児童相談所行きでしょうね?」
福良はどもりどもり話しながら、どうしてもその時見た担任の教師と川上看護師の姿を重ねずにおれなかった。
わたしは竹宮と福良の他人事のように過去を語る姿勢を見ながら、スーパー玉出のマンションでデリヘル嬢に娘の写真を見せるイケダさんのことを考えていた。
人生のモメントとなる過去の記憶は、未来や現在の自分に繋がっていないとおかしいが、竹宮や福良はこれが直線的に現在へと繋がらないため、記憶の全てが脳内のあちこちに飛び散り、それぞれまったく別々の性格をもったエピソード的な切り離された記憶になっている。
だからこれはもう未来が無い人にとっての過去である。未来が無いため行動する現在もまた無く、過去の記憶は現在と繋がらないため他人事のように話される。
しかし、川上看護師やAAのおじさんではないが、本気で自分の未来が分かっているなどと思って行動している人物などいるのだろうか?
明日の、未来の出来上がったゴールのために現在を行動している人物がいるとすれば、それは役者に似てくる。
これから起こる出来事がそっくり台本に書かれているかのように、台本を読むようにことばを発し、人生の、劇の終焉が分かっていると思っている人物。
福良は精神病院や8年間のうつ病という未来の無い迷路にいるためそれらの人物に反感を感じているが、しかし未来のある人にとってはどう思い込もうとも一寸先は闇でしかないのではないだろうか?明日の栄光が分かっているかのように劇を演じても、現在を行動しているのが全てではないだろうか?
そういう意味でならイケダさんの弟が30年間も精神病院に安住しているのは理解できる。ここには未来がないが、そのためまた一寸先の闇もないため、安心して管理されていられる。
”人間として扱われないことがそんなにも辛いことなのだろうか?“もしそれに絶望も苦痛も感じないとしたら、それは勧んで人間の条件を放りだし、人形や物として管理されることに同意した無だけである。イケダさんの弟でさえ、看護師に暴力を振るわれたなら抗議の叫びを上げるだろう。しかし道端の石ころは蹴られても叫び声を上げず、また石ころに名前がないように、その無にも名前が無い。
海藤は愛想笑いして話しを聞きながら、高校のことを考えていた。もしまた一人称に戻し海藤の目線で見れば、彼は相変わらず孤独である。“患者”という立場で15歳と21歳が仲良く話せても(”患者“という立場でなら、年齢どころか、人種や宗教や障害の違う人たちとでさえ仲良くできるだろう)、彼にとって現実社会と繋がれるような友人はここにはいないのだ。
海藤は竹宮が話していた公衆電話の件を思い出し、もしテレフォンカードや小銭が有ったら電話して会話したいと思った。誰に?決まってる、母や親父なんかよりも、西野に。ただ一人高校、現実社会と繋がれる西野に。
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