6日目、7日目
股間の粘ついた違和感によって、ぼくは夢精したことに気づいた。
まだ睡眠薬がかすかに残るぼんやりとした頭で「負けないで」のリフレインを聞きながら、ああ、最近オナニーしていなかったなと思い出す。では、事前にオナニーしていたら夢精は防げただろうか?もちろん。しかし、この状況でどうやってオナニーができるというのか?
まず看護師どもの絶えない見回りや、障害者たちの喧騒によって不可能だろう。それでは、夜中障害者たちも寝静まる時間にオナニーするのは?
ぼくはしばらく想像していたが、おかずがない状態でオナニーするのは殆ど不可能に思われた。確かにいじっていたら勃起し、射精するだろうが、しかし頭の中で女を想像しようと集中力をこらしても、たえず見回りの看護師や便器からたちのぼる尿の匂いによって邪魔されるだろう。
小学生じゃあるまいし、空想だけでオナニーするのは不可能に近い。今はそんなことよりも、夢精したパンツの扱いをどうすべきかと考えていた。
水で洗う?その前に看護師に洗面台までの扉を開けて貰わなければならない。別のパンツと着替える?着替えも洗面台の横のロッカーにあるのだから、これもさっきと同じだ。ではパンツを捨てる?どこへ?
やっと手近な場所にトイレットペーパーがある事に気づいたぼくは、その紙でパンツの中を拭いながらも、相変わらずベトベトとした気持ち悪さを感じていた。考えてみればここ1週間近く風呂にすら入っていない。
朝食を持ってきた看護師に、「すいません、シャワーって浴びれますか?」とダメ元で聞いてみる。入浴が週に一度ということは分かっていた。
「明日なら大丈夫ですよ」
「え?でも入浴は週に一度では?」
「今日までゴールデンウィークでしたから、明日からスケジュールが変わるんですよ」
閉鎖病棟に隔離されていてすっかり忘れていたが、確かに今日の5月6日がゴールデンウィーク最終日だった。
「ああ、あと、スケジュールが明日から通常通りになりますから、先生の診察も明日有ります」
そう言うと鉄の扉を閉め出ていった。ついでに着替えをロッカーから取ってくれと言っておけば良かったな。
給食のパンを食べながら、段々と覚醒してくる。(食事を取ると脳が活性化し、忌々しいことに余計なことを考えだす!)
「なあ、植松聖のやった事は正しいと思うか?」もう1人の自分が勝手に脳内で考え始める。「植松聖がこの現場を見ていたとしたら、障害者と同じくあの虐待してる看護師どもも全員殺してたと思うね、あいつは甘ちゃんなんだ」「でも、植松聖は社会の為に障害者を殺してるって言ってる」「私怨を社会的なお題目にすり替えただけだろう。おれが患者側の立場になって看護師どもを殺したいと思うように、看護師だか介護士だかの植松聖は障害者を生理的に嫌悪して殺したくなったんだ」「それじゃあお前の言ってる看護師を殺したいという考えは、植松聖となんら変わらないものになるね──ああ、もう充分だ!
思考の内容が問題なのでは無かった。というのは、この勝手に脳内で喋りかけてくるもう1人の自分は、同じ事しか知らないため、常に同じことを繰り返すだけだったから。
けれど、このもう1人の自分と永遠に終わりのない対話を続けること、これはたまらなく苦痛だった。なにしろ自分自身の事を一番良く知っている(自分自身のこと以外は何も知らない)自分なのだ。だからこの対話には終わりもなければ発展もない。ただただ自分と付き合う嫌悪感だけがあった。
この対話を終わらせるには、別のこと──勉強でも日記でもなんでもいいが別のことに集中を向けること。もしくは、夜に出される睡眠薬でもう1人の自分を麻痺させる他なかった。
いつか頭がおかしくなる。こんな事を続けていたら、いつか自分自身に耐えられなくなって自殺する時が来るだろう。このもう1人の自分は、勝手に脳内に現れて思考し始めるだけでなく、おれがなにか行動しているときにも、行動している自分とそれを醒めた目で見ているもう1人の自分というふうに別れた。この2人が一致するのは極端に感情が昂ったとき──怒りでも恐怖でも悲しみでもなんでも良いが──か、睡眠薬を飲んでいるときに限られた。
いや、「行動している自分とそれを醒めた目で見ているもう1人の自分」自体は、閉鎖病棟に入る前から存在していた。それがいつ頃からかは分からないが、しかし昨日や今日みたいに、脳内に土足で進入してきて、勝手に考えだすということは今まで一度も無かった!
ぼくは膨れ上がった自我が分裂して、もう収拾が付かなくなるのではないかと不安に思う。
いったい、抗うつ薬や閉鎖病棟に閉じ込められること、それに看護師どもから奴隷のような扱いを受けること、これらはなんの間違いだろうか?「嘘をつけ、本当は分かっているだろ、お前みたいに頭のおかしくなったやつを閉じ込めておくのに一番良い場所なんだよ」「しかしぼくは健常者だ、ここに閉じ込められる謂れがどこに有るんだ?」「自殺未遂したからだろ」「自殺未遂じゃなく市販薬でちょっと遊びすぎただけなんだ、それは自分が一番よく分かってるだろ──
睡眠薬を飲んでいる時以外これが続くのだから、気が狂いそうになったが、しかし頭はパンクせず正常にその機能を務めていた。「それとも、この状態は他人から見たら異常なのだろうか?ぼくだけが正常だと思っているだけで?」
いっそのことどっちかに、この責め苦が永遠に続くくらいなら狂えてしまえたらいいのに!
ぼくは日記を取り出して取り憑かれたように、殆ど救いを求めるように書き始めた。自分自身を一体化し、繋ぎ止めるように。
『閉鎖病棟6日目 膨れ上がった自我は見えないだけで閉鎖病棟を埋め尽くし、精神病院も、大阪も、日本でさえ、やがては世界中をも覆い尽くすのではないだろうか?
しかしこうして日記を書いているときだけ、思考が一本に纏まっている。いや、この表現は正しくない。もう1人の自分はよくある自分の中の天使と悪魔みたいなものでは無く、また人格が完全に分裂する二重人格のようなものでも無く、どちらも切り離しがたいほどに嫌なほど全く同じ自分なのだ。
だから本来思考が一本なのは当然だ。分からないのはなぜ昨日から今日にかけて、いや、もしかすると閉鎖病棟に入れられていた時からその兆候はあったのかも知れないが、勝手に思考し始めるのか?
もしかしたらこの“もう1人の自分”という表現も正しくないのかも知れない。というのも、ぼくは退屈から、集中力の途切れた隙間から、脳が勝手に思考し始めるということを昨日や一昨日から明確に感じ始めていたからだ。それも自分にとって嫌なことばかりを勝手に考え始めるのを...
しかし、令和にあっても閉鎖病棟で日常的に行われる看護師どもの怒声や暴力、日頃から行われる患者達への老人虐待や泣き声と喚き声と叫び声が一緒くたになった響く音、あれらを見聞きしていると、どうしても植松聖のことを考えざるを得ない。ここの看護師はおそらくなにかのきっかけで直ぐにでも第二、第三の植松聖になりかねないだろう。
そこで自分としては、閉鎖病棟に閉じこめられている以上こう考えざるを得ない。食うか食われるか、殺すか殺されるか』
人が自分自身に疑いの目を向け、自分を過剰に意識しだすのはどういう状況下においてだろうか?それは海藤のように、絶対的な基準、物差しが無くなってしまった時ではないだろうか?
今までは学校や、友人、家族といった、彼を何者かにする物差しが(例え彼が憎らしく思っていたものであれ)、確かに存在していた。だから自分自身を意識したりせずに済んだ。
しかし閉鎖病棟に入って以後、海藤を何者かにする物差しは全て消えてしまった。
精神科医はうつ病でないのに自殺未遂を繰り返すうつ病患者として海藤を見ているし、また、看護師にとっても彼は他の多くの患者、障害者と変わらない1人の患者、障害者だった。いまや彼は何者でもなかった。
物差しを無くした彼は、結果的に自分自身をも信用できなくなる。
つまり彼は自分自身が正しいか否かを確かめるために絶えず思考し、自問自答しているわけだが、それが誰にも理解されず、肯定されず、確認されないために、フラストレーションが溜まり極端なほど自我が肥大化したのだろう。
その思考を他人に確認するための手段を、わたしたちはふだん承認欲求だとか、自己顕示欲だとか呼んでいるわけだが、
しかし承認欲求や絶対的な基準といった問題は、二部で形を変えて再び現れるのでいま云々しても仕方ない。
ところでタネを明かしてしまえば、いま海藤が感じている“もう1人の自分”だとか、“勝手に思考しだす脳”だとかは、実の所うつ状態の時に現れる「自動思考」という症状にすぎないのだが、
しかし抗うつ薬を投与され、うつ病を治すはずの精神病院にいる人物が、逆にうつ状態になってしまうというのはなんという皮肉だろう?
それは保護室に入れられていた当時の筆者も、海藤と同じくいつからか「自動思考」に悩まされ、後年これがうつ状態の一症状であると知ったときは狐につままれた気がしたものだ。
また、海藤の感じている“行動している自分とそれを見ている自分”というのも、ストレスを受けた際に人間がとる防衛本能の一つである。彼は閉鎖病棟前からそれが現れていたと言っているが、おそらく中学や高校受験といった挫折体験から自分を守るため現れたものだと推測できる。
それにしても海藤の日記は面白い。当時の筆者が入院していたときはまだ植松聖の事件が起こっていなかったが、しかし同じようなことで悩んでいたように思われる。
というのも当時の筆者の日記に、『間違っているのは売春している自分だろうか?売春を許さない社会の方だろうか?』と書かれているからだ。
同じく海藤にとっての問題も、この時点では正しいのは自分か、社会か?患者か、医者か?子供か、親か?弱者か、強者か?殺すか、殺されるか?という二元論的な悩みのうちに留まっているように思われる。
それは海藤と同じく、思春期の青年一般に現れる正義感や潔癖症的特徴と言っても良いだろう。0か1か、無か絶対かという一元論にも似た二元論。
ところで筆者にはこの状況が、青年がわけもわからず唐突に社会に投げ出されたという感じをうけるのだが、けだし一般的に言われる社会の門などというのはどこから始まるのだろうか?
それは童貞を捨てた時から社会に目覚めるのだろうか?それは強姦された時から?それは土建屋の社長に談合の裏話を得意気に聞かされたときから?
殆どわたしたちは無知のまま社会に仲間入りし、徐々に経験を積み重ね認識していくのだろうか?
海藤は建前も本音も汚いと思っているが、それが社会の実質だとしたら、彼にとって相変わらず社会は汚いのだろうか?
いずれにせよ閉鎖病棟でうだうだ言っていても始まらないだろう。私にとって閉鎖病棟などは、15歳の青年と86歳の婆さんが全く同じ地点にしか立てない不毛な場所でしかない。
そこで同じ精神病院に入院している地上4回の自閉症スペクトラム障害兼、社交不安障害者の竹宮について語ろう。彼は23歳だが、海藤が一般病棟に移ったときに4人部屋で出会う人物であり、また同じく当時の筆者が出会った友人である。
(自閉症スペクトラムというのは分かりやすく言えばアスペルガー症候群の別名でもある。尤も、アスペルガー症候群の方は2013年に診断名が変更され、自閉症スペクトラムの中に位置づけられたが、あまり浸透していない)
海藤がいま悩んでいる「自動思考」に関連づけて言えば、竹宮は小学生の頃、自室の勉強机の横に頭からとめどなく流れでる思考を、一つのセンテンスにしてメモ代わりに書き込んでいた。
やがてセンテンス化された言葉は勉強机を埋め尽くすほどになったが、ある時友人が来てさて困った。
びっしりと書かれたメモは、友人に見られると明らかに変人だと思われる。(なぜ彼はノートにメモすることをこの時まで思い付かなかったのだろう!)
そこで彼は勉強机の横から一時も動かず、友人にメモが見られないよう孤軍奮闘した。
友人が疑いそうになったとき、幸いにも母親が助け船を出してくれ、なんとかその場は収まった。
翌日、勉強机の横にびっしりと書かれたメモは全て消えていた!彼は母親が消してくれたのだろうと思ったが、特段恨みも感謝もせず、なんとも言いがたい苦い気持ちを抱いていた。
彼はその日から、とめどなく溢れる思考をノートにつけることとなる...もっとも、今ではそんなノートもどこかに紛失し、彼がメモすることもめっきり少なくなってしまったが...
ところで、竹宮はなぜ頭から流れでてくることを重要だと思ったのか?推測するに、それは彼が没個性的で、人より優れた経験が無かったために、頭から湧き出たものに霊感や天才的といった重要な位置を与えたのだと思われるが、しかしそれは彼の障害のためなのか、健常者にもあり得る普通のことなのか、判断するのは難しい。
──なぜ入院しているのか?という質問に対し竹宮が語ったところによれば、「自分は時々想像もつかないような頭のおかしいことをやり出しそうになり、その発作が出る前に任意(自主)入院している」とのことである。
しかし彼が語りながら考えていたことは、たったいま話した内容ではなく、自分自身の語るときの動作が健常者に比べておかしくないかどうかということだった。
竹宮は歩くときすら自分自身を意識し、「この自分が歩いている姿は、健常者と比べておかしくはないだろうか?なにか間違ってはいないだろうか?」と不安に考えていた。
この考えは理解しづらい。というのも普段わたしたちは歩くときも他人に対して話すときも、自分自身の動作をわざわざ意識したりしないのだから。
しかし、誰もがこういう経験はあるだろう。自分の声が入った動画を再生したとき、「あれ?自分ってこんな声だっけ?」と驚くことが。
もしくは、鏡に写った自分は美人に見えるのに、写真で撮られた自分が不細工に見えるということが。
または、わたしたちがなんらかの理由で寝たフリをしないといけない状況にあったとする。その時、普段寝ているのと同じように寝れているのかと自分を意識しないだろうか?
竹宮の場合、この主観と客観の差というのを病的なまでに気にしていた。それが自閉症だからなのか、社交不安障害だからなのか、根拠を探すことは難しい。
「では、自分は一生、健常者の真似をし、健常者が歩く姿を真似て歩き、健常者が食事をとるのを真似て食事をとり、社会から爪弾きにされないためには、健常者の真似をする影でしかないのだろうか?」
この問いに私は明確な答えを与えることはできない。そしてそれは多分、精神科医にも、臨床心理士にも、明確な答えは出せないだろう。
というのも、彼に対し「健常者と違うというのはただの個性ですよ、例えば世界の7割が自閉症だと仮定して見てください、すると残り3割が異常者となるように、基準というものは曖昧で気にすることはないんですよ」という教科書的な発言をしたとしても、「しかし現に健常者と違った行動をしておかしいと笑われるのは事実だ」と言い返し、納得しないだろうから。
それは不細工に悩んでいる女性(または男性)に対し、「顔の美醜とは個性にすぎませんよ。相対的なもので文化にも拠り、昔と今とでは...(略)...だから、基準によっていくらでも違い、不細工だからと言って気に病む必要はありませんよ」といくら言ったところで、不細工に悩んでいる当人にとっては答えにならないのと同じである。
結局竹宮の問題は、彼自身で決着をつけるほかにないと思われる。
しかし──
〈或る模範に人生をあてはめようとする人たち、この生ける屍みたいな人間たちの言葉を一体どうしろと言うんだ?
人生に何らの究極目的が与えられていないということ、それが今や行動の条件となったのだ。〉といった偉大な作家たちの言葉は、彼に対し意味を持つのか、どうか?
私にはまだ分からない。ただ興味深いのは、竹宮の一人称が「自分」だということだ。
また小学生の頃、同級生たちが「おれ」とか「ぼく」とか一人称を決める中、彼だけは一人称を決めかねていた。友人からは、「竹宮って『おれ』も『ぼく』も似合わないね」と言われて以後、彼は一人称を「自分」にしてしまった。
なにが興味深いのかと言えば、勉強机のエピソードにしろ、自分自身の動作を病的に意識するというエピソードにしろ、一人称のエピソードにしろ、竹宮からは“主体性”というものが全く見えてこないのだ。ところが、もっと興味深いことには、彼は精神病院に反感を抱いていて、配食の時間にハンストしている!
竹宮はいま、4人部屋のカーテンをすっかり閉めながら、前にいる福良も、斜め横のロクちゃんもすっかり無視して本を読んでいるところだ。
隣の窓辺にいる老人の患者が、明後日の朝退院すると嬉しそうに話している。空いたベッドには、なるべくうるさくない人が来てくれたらなあと思いながら、本を閉じて寝てしまった。
今日は夢精しなかったが、昨日の精子がパンツにカピカピに引っ付いてしまい気持ちが悪い。
「何時からシャワー入れますか?」
「10時からです、あと、昼から先生の診察があるのでお忘れなく」
朝食を運んだ看護師はそれだけ言うと去っていった。ああ、この不味いパンを食べたくないなあと思う。
パンを食べると、おそらくパンと牛乳の関係性というものについて考えることになる。そしてとめどなく、発展も消失もしない永遠の対話が始まることを知っている。
そこでパンを一口だけ食べ、一応のアピールをするだけに留めた。
日記を取り出し、パラパラとやる。なにか書くのが一番良い時間の進めかただと最近気づいた。
『閉鎖病棟7日目 あのよく聞く、“一度死ぬギリギリの体験をすると死生観が変わる”という話は本当だろうか?
“一度死ぬ思いするとなんでも死ぬ気で取り組める”という誰かが言った馬鹿げた精神論は?
ぼくにはそうは思えない。市販薬の飲み過ぎで死にかけたが、相変わらず植松聖や看護師どもは怖い。そして日に日に気力が無くなっていくのを感じている。
しかし自殺は不思議と怖くない。殺されることと自殺すること、これにはどんな差が有るのだろうか?』
書いていてふと気がついた。もう自分自身と付き合うのに疲れ、無意識のうちにはっきりと自殺願望があることに...
食後、薬を運んできた看護師に連絡をとり、個室のシャワーに入ったあと思い出した。ここで何日か前、婆さんが脱糞し、泣き喚き、看護師が激怒し、「拾え!」と命令したことを。
糞尿と叫び声が交わったとき、吐き気を催させるほどの嫌悪感を呼び起こす。
流されない糞尿の匂いがたちこめる部屋で食事をとったことを思い浮かべていた。あれと全く同じ汚らわしさがある。
そして一方では、醒めた目でつま先立ちをしなるべく地面に足をつけないようにシャワーを浴びている自分を観察しているもう1人の自分がいた。
久しぶりの暖かいシャワーのおかげでここ最近の胃痛はいくらか解消された。できればシャワーの水流によって一切の汚らわしさが流れてしまえばいいのに!
ふと、もし自分が日記をつけることが許されていなかったらと考えてみた。おそらくどこか壊れていたんじゃないだろうか?
日記だけが無限に肥大化する自我と、あるがままの自分を繋ぎ止めているという空想。
擦り切れて泡立たないのではないかと思われるほどの小さな石鹸を手に取り、脇や股間といった場所にだけ泡をつけた。誰が何十回と使ったか分からない石鹸自体がひどく汚く思えた。
シャワーを浴び終わり、予めロッカーから持ってきた服に着替える。
服からは確かに真新しい石鹸の匂いがしたのだが、服を着た途端、あのいつもの糞尿の入り混じったような、腐った匂いがしだした。
この腐った匂いは、閉鎖病棟自身の匂いだと思う。おそらくぼくは長くあの部屋にいすぎたせいで、身体中にあの腐った匂いが染み付いているのだ。シャワーを浴びてもとれないほどに!
看護師が来て保護室に戻る頃には、ますますあの腐った匂いが強くなった気がした。
昼頃、看護師に案内され、老人の患者たちと同じく診察室に並ばされる。
新川医師のもとに並んでいる患者たちを見て、ぼくは障害者ではないにしろ、しかしどっちにしろこの病院に管理されている奴隷の1人に過ぎないのではないか?と思う。
口も聞けず、全て看護師と医者とに従わなければならない奴隷。ここが動物園の檻の中だとしたら、ぼくは人間なのに動物の一員だし、ここが牢獄だとしたら、必死に冤罪を訴えかけても聞いてはもらえない犯罪者の1人だ。
殆ど絶望的な目で並んでいるあれら障害者という名の死刑囚、動物、奴隷たちを見ていた。ぼくもその一員なのだと諦めながら。
相変わらず素早いスピードで患者が出入りし、新川医師に勧められパイプ椅子に座る。
「体調はどうですか?」
「順調です」
「睡眠薬の効果はどうですか?」
「よく眠れてます」
「まだ自殺願望はありますか?」
「まったく有りません」
ふむ...といいパソコンとにらめっこしている新川医師を見ながら、なぜ患者のスピードが早いのか分かった。答えることが特にないのだ。じっさい新川医師を前にしながら、ぼくはなにも思いつかない。閉鎖病棟にいると闘う武器や気力は全て骨抜きにされ、ブロイラーにされるのだろう。
「一般病院に移りたいと思いますか?」
「もちろんです」
「では、明日から一般病棟の方に移ってください」
「え?」
いきなりだったので思わず聞き返した。ああ、そう言えば入院前に1〜2週間の間様子見すると言っていたっけ....ということは、ついにその時期が来たのだ!あの糞尿とおさらばできる時が!地上に上がる時が!
「ですから、明日から一般病棟の方に移ってください」
「ああ、はい!」
──と勢いよく返事したとき、ちょうど閉鎖病棟の彼方から、老人の「 アアアアアアアア」という果てしのない音が響いた。
※余談 第一部の閉鎖病棟はこれで終わるが、第二部での一般病棟(開放病棟、病院によって呼び方が違う)でも、筆者と同じ体験が再現される。尤も、海藤がどう感じるかは分からないが...
海藤は15歳というおそらく人生で一番神経質で思春期の時期に、1週間閉鎖病棟に入れられる事によって、当初の「いったいどういう状況下において、普通の人間がうつ病になったり、自意識過剰になったり、感傷的になったり、自閉症的に他者との接触を恐れたり、挙句には自殺を考えるまでになるのか?」という目的を果たした。
当時の筆者(17歳)は、2週間のあいだ閉鎖病棟に入れられて、海藤と同じ状態にまでなった。
では、20歳を過ぎた大人にとって、どのくらい閉鎖病棟に入っていれば海藤と同じ状態にまでなるのか?大学生か社会人か、貧乏か裕福かなど、個々人によるだろうが、それでもおおよそ1ヶ月も入っていれば大抵の人間はブロイラーにされ、海藤と同じ状態になるように思われる。
それほどまでに閉鎖病棟、保護室という名の監獄、動物園、姥捨山、強制収容所は劣悪であり、──そしてこれがなにより恐ろしいことだが、令和に入っても、大阪で1、2を争う巨大な精神病院でさえ、この筆者が体験した閉鎖病棟の劣悪さはまるっきり残っているということだ。
『閉鎖病棟』という現役の精神科医が書いた小説をモデルにした映画があったが、実際は、あのような穏やかに笑っている患者役の鶴瓶の顔などあり得ない。
現実の閉鎖病棟では未だに看護師たちの怒声や虐待と、患者たちの絶叫や喚き声、死を待つほかないツネばあさんのような老人たちが、阿鼻叫喚の地獄のうちに存在している。
筆者は、精神病院における一切の綺麗事──あるいはキッチュさ、あるいは感傷──を批判し、それを告発する者である。
もっとも、ここでどっちが正しいか、患者か医者か──を云々していてもしょうがないのだが、続く第二部で、人間扱いされないということが具体的にどういうことなのかが、もっと鮮明に描かれると思う。
それは、拘束ベルトでグルグル巻きにされ栄養チューブや点滴やカテーテルを付けられた人間だけが、自由や人間の尊厳を奪われた存在なのではなく、一般病棟にさえ、もっと根深く、看護師や医者の潜在意識のうちに、障害者、患者への否定が入っている。
(※注 不謹慎だが、ちょうどこの自伝的小説を書き始めたあたりで、コロナ騒動がおこった。
調べてみると、「新型コロナウィルス感染症:アメリカ合衆国の第1例」に、対症療法として鎮咳去痰薬を投与し、一時的に症状が良くなったと記載されている。
その鎮咳去痰薬こそ、デキストロメトルファン、DXMの事であり、当時の筆者も、同じく海藤も、DXMの過剰摂取によって倒れ、自殺未遂と判断され閉鎖病棟に入れられたのである。私はこれに皮肉な照応を見ざるを得ない...)
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