隣の幽霊少女X

妄限界

第1話 私をお家に連れてって

 体が徐々に溶けてくるようなジリジリとしたアスファルトの照り返しの中、明滅した意識が形を帯びて浮かんだり、沈んだりするこの感覚がオレは好きだ。沈みきってしまうと見知らぬ無機質な天井を見る羽目になるわけだが、このギリギリの綱渡り感が癖になる。ぼんやりとした灰色と黒の境界が確かなものになる中、うごめくナニカをオレは見つけた。


「キモ……」


 死にかけの青虫が無数の蟻に襲われていた。抵抗したところで運命は変わらないだろう。砂時計の砂粒の勢いさながら、蟻が青虫に次から次へとたかり続けている。


 ――ラッキーな奴だな。ただ死にかけているだけだったら、スルーしていたよ。


 足元に落ちていた鉛筆サイズの枝を拾い、自分の影から青虫をすくって日向ひなたに出してやった。炒飯のグリーンピースをけるように残りの必死に食らいついているやつを淡々と弾く。オールグリーンとなったところで脇にあった植物の葉にそっと乗せた。


 ――どうせすぐ死ぬだろうけれど、このオレが助けてやったんだ。少しは生きろよ。


 長い間しゃがんでいたせいか膝がジンジンする。痺れた気持ち悪さをごまかすために空を仰ぐと、一面に広がる青の中に悠然とした白がどこまでも高くそびえていた。


 ――バベルの塔?


 しばらく眺めていたが、そのうちなんだか押しつぶされそうな気分になり、そっと目を閉じる。頬に生温なまぬるさがまとわりつき、つんざくような蝉の声が耳の中でこだましている。気持ち悪さの中に心地よさが同居していた。


 ――羽でも生えたのか?


 少し体が軽くなったような妙な感覚に身をゆだねていると、ふと視線を感じた。視線の元を辿ると、白いワンピースに帽子をかぶった少女が凛と佇んでいる。その子の周りだけ五度ほど冷えているような締まった空気感。蝉の声は聞こえなくなっていた。背丈、雰囲気からして年齢はオレと同じくらいか。警戒しているのかはわからないが、穴がくほど見つめられている。つば広の帽子のせいで顔に影がかかり、表情は読み取れない。


 ――この辺のやつか? 人の顔ジロジロ見やがって……かましてやるか。


 少女を軽くめ付け、オレは口を開いた。


「おい、お前! 何、人の顔ジーっと見てんだよ」


 少女は周囲を見回し、他に人がいないことを認める。


「私に言ってるの?」


 授業で急に当てられた生徒のような声色で応えた。


「ガン飛ばしてきてそれはねえだろ! お前何年だ? 歳下だったら、しめられても文句言えねえぞ?」


 ――オレより歳下だと、それはそれで面倒くさい。啖呵を切ってしまった手前、しめないといけないのだろうか。頼むタメであってくれ。


「……中三だよ?」


 胸のあたりが少し軽くなった気がした。


「なんだタメかよ……えー……お前、オレに用があったんじゃねえの……?なんで……見てたわけ?」


 気持ち優しめの声色で少女に尋ねてみる。ぱっちりと開いた目、筋の通った鼻と透き通るような白い肌。なかなか可愛らしい顔をしている。


 ――あと五年もしたら、さらに美人になるかも。


「……え? なんでって言われても……」


 曖昧な返事がしどろもどろに返ってきた。よくわからないが、答えづらいようだ。少女とは少し離れていたので距離を詰めて話してみようと近くに寄ってみる。


 ――緊張でもしているのか? 肩でも叩けば少しはほぐれるかな。


 少女に向けて手を伸ばした。


 ――……えっ……?


 肩に手を置こうとしたはずだった。手を伸ばし、力を抜いて落下させたオレの手はなぜか少女の肩に触れることができなかった。オレの伸ばした手は肩に反発されることなく、ただくうを切るように少女の体を通り抜けてしまったのである。


「っんああえ!?」


 想定外の出来事に素っ頓狂な声をあげつつ、後ろに数歩よろめき下がった。


 ――どうして? 触れられなかった? どうして? どういうこと?


 頭の中を同じような言葉が渦巻き、もやがかかったような状態。非現実的な出来事すぎて思考が追いつかない。


 ――気のせいかもしれない。そうだ、もう一度触れてみよう。


 一つの結論になんとか辿り着いたオレは恐る恐る前に踏み出し、指先で触れようとしてみる。


 ――……ああ。


 煙に触れたように少女の体をオレの指は再びすり抜けた。


 ――これって所謂いわゆるだよな……。


 張り付いた唇をなんとか剥がし、オレは掠れた声で呟くように尋ねた。


「……幽霊……なのか?」


 オレの言葉は少女に聞こえなかったのだろうか。少女は不思議そうな顔をしてしばらくオレのことをじっと見つめていた。体感的にカップラーメンができあがるくらいにはがあいた気がする。いや、実際はもっと短かったのだろう。オレはただ、少女の次の言葉を聞いて、早く答え合わせをしたかったのである。……少女の中で結論が出たのであろう。目を見開き、納得したような顔を見せて、小さな口をゆっくり開いた。


「幽霊か……幽霊ねえ。おもしろいね! そうかも!」


 先程までのかしこまった表情から一転、あふれんばかりの笑顔で少女は応えた。


 ――本物の幽霊。


 驚きや恐怖という感情は思いの外、湧かなかった。ゼロではなかったが、それを凌駕するほどの好奇心がじんわりとオレを浸食していた。


「お前なんで成仏してないの?」


 素朴な疑問をぶつけてみた。


「なんでだろうねー? 未練でもあるのかな? わかんないやー」


 さっきまで、神妙な顔をしていたのに自分が幽霊だとはっきり言ったからなのか、能天気にヘラヘラ返してくる。


 ――口数少なくて、会話が弾まないよりはマシか。


「キミ名前はー?」


 ここでまさかの逆質問。思いの外、ノリノリの幽霊少女である。


「ああ……オレは、り……」

「んー? り……?」


 ――いや、魔の物やあやかしの類に名前は知られない方が良いって何かで聞いたことがあるぞ……


「ゆ、幽霊なんかに名乗る名前はねえよ……オレはだ!」


 苦しい言い訳だった。


「えー! ずるーい! じゃあ、私の名前も教えてあげなーい」

「オレはダメだけどお前は教えろよ!」

「なんでー? 不公平じゃーん! キミが教えてくれるまで、私も絶対教えないんだからね!」


 ――こ、こいつ幽霊のくせに平等を主張しやがる……我が強い。


「まあ、この際、名前はどうでもいいや。とりあえず、お前呼びで間に合うしな」

「ふーん。じゃあ、私はオレ君って呼ぶねー」


 意外とあっさり順応してきた。我が強い一方で、フレキシブルな一面もあるようだ。


「オレ君彼女はー?」

「……」

「彼女はー?」


 ――答えるまで聞いてくるやつか。しつこい。


「いねーよ」


 蚊の鳴くような声で応えた。いや、蚊の羽音の方が大きかったかもしれない。


「彼女はー?」

「……」


 ――まだくるの?


「む! いないよね。わかってたよー! オレ君て、なんか粗暴な感じするもん。モテなさそう! お前呼びする人にロクなのいないしねー。あなたとかキミとか、もっと品の良い言い方を使ってみるとか!? どう?」


 幽霊と接することでオレの生気が吸い取られてしまったのだろうか。塩をかけられたナメクジのようにオレという個が小さくなっていく。


「あ! でも、おとなしすぎるのはダメかも! 野性味? 遊び心? なんかよくわかんないけれど、少しは必要かもね!」


 フォローのような何かを頂いた。乾燥わかめに二、三滴のお湯がかけられたかのように幾分かはダメージが……。


 ――回復してねーよ。


 しなかった。






 西の空が赤みがかる。肌に絡みつく空気もぬるさがなくなりつつあった。


「好きなフルーツは何ー? 私は桃ー!」

「……」

「んー? オレ君疲れたのー?」


 ――こいつがまともに応えてくれる質問はロクなのがないんだよな。あの世ってどんなところ? とか塩って効くの? とかもっと幽霊ならではの話題で話したかった。


「同級生と普段、話している感じ。いつもと変わんねー……」

「なんでー? 実際、同級生じゃーん?」

「……そろそろ帰るわ」


 ――幽霊にまつわる話は詳しく聞けなかったけれど、不思議体験できたから十分か。ネタにはなるな。


「帰るってどこにー? お家?」

「……」


 ――なんだ。何を言い出す気だこいつ……。


 後ろ姿を見せるようにゆらゆら立っていた少女はクルッと反転し、こちらを意味ありげに、しおらしく見つめ始めた。時間が切り取られたような一瞬の静寂の後、この日一番の笑顔でこの幽霊はのたまったのであった。


「私をお家に連れてって!」












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