第6話 自由研究


 夏の早朝が、こんなに気持ちの良いものだと、ぼくはこの村に来るまで知らなかった。

 目を覚ますと窓からは、ひんやりとした空気が部屋に流れ込んでいた。布団から起き上がり、窓から外に手を伸ばす。夜の間に下がった気温に触れる指先が、朝に染まる。

 緑色深い山に、しっとりと烟るような朝靄が立ち込める様子はやがて消えゆき、水を湛えたような青空が顔を覗かせるのを知って、ぼくは窓辺でただ飽きもせずに空を眺めるんだ。

 今朝も雨蛙が一匹、窓ガラスに張り付いていた。逃げてしまわないように、いつもどおりガラスの内側から腹をそっと撫でて、触れたつもりで満足する。

 柔らかに濡れた雨蛙を優しく掌で包んでみたいのだけど、潰してしまいそうで怖い。


 ……そう。

 ぼくには、怖いものばかりあるんだ。


 今日もまた、それぞれの家でお昼を食べた後、ユーキと一緒に待ち合わせて三藤くんの家に行く。

 でもその前に、ぼくはひとりで調べたいことがあった。

 シラユキ先生のこと。

 火の見櫓のこと。

 今はまだこの二つだけど、事によっては増えてきそうで、ユーキに内緒で始めることに少しの罪悪感を覚える。

 初めからユーキを誘うべきなんだろうか?

 シラユキ先生のことを話すユーキの顔を思い浮かべて、その考えを振り払う。

 もう少し、きちんとした『何か』を掴んでからでも遅くはない。いまはその『何か』さえ、あるかどうかも分からないんだから。


 村には図書館がないことを、昨日夕飯の時に初めて知ったぼくは、驚いて大きな声を出してしまった。

「嘘でしょ? じゃあ、村の人は本を読みたい時、どうしてるの? 借りないで買うしかないの?」

 思わず箸を握りしめたままのぼくとは対照的に、叔父さんは食べる手も止めずにのんびりと答える。

「車で近隣の市の図書館に行くか、学校の開放図書室で借りるか、かな?」

「ええ……。なんか、なんて言うか。図書館なんて、いくつも当たり前にあると思ってた。……ひとつも、無いの?」

「そうだね。だから、本が借りたければ子ども達は、学校に行くんだよ。夏休み中も貸し出ししてくれる筈だからね」

 当然のこと、といった様子で、ご飯を口に運ぶ叔父さんの顔を、ぼくは思わずじっと見つめてしまった。

「……嘘とか、冗談じゃないんだよね?」

 そんなこと言うわけないよ、と叔父さんは眼鏡を指先で押し上げながら笑う。

「……図書室、行ってみようかな」

「そうしてみたら、良いと思うよ。図書当番の先生が居るはずだからね」

 ぼくは曖昧な返事をした。

 火の見櫓は誰が、いつ頃作ったんだろう?

 小学校の図書室で調べることは出来るだろうか? 少なくとも何かしら郷土資料はあるはずだと、ぼくは思った。

 

 そうしてぼくは、図書室で調べものをするために、いつもの通学路を歩いている。

 目に映る風景も心なしか、いつもと違って見えるのは気のせいなんだと自分に言い聞かせてみるものの、顔を見上げたとき入道雲を背に真っ青な空からぼくを見下ろす火の見櫓が、いつになく大きく見えて不安な気持ちになってしまう。

 これからぼくのすることを、非難しているようで思わず目を逸らした。

 目の前の緩い坂道には、ぼくの行先を阻むものは何ひとつないのに、一歩を踏み出すたびに足が迷いを生む。

 知らないままで、良いんじゃない?

 怖いものには、目をつぶってしまえば大丈夫でしょう?

 山から吹く風がぼくの耳に囁いて消える。

 何も考えずにいられるなら、どんなに良いだろう。

 だけどぼくはもう、この時すでに『何か』に、気づき始めていたんだと思う。


 水筒の入っただけのリュックを背負い、俯きがちに歩いていたぼくは、最後の大きなカーブを曲がり、目の端で正門とその先の校舎を捉えた。

 子供は、誰ひとりとしていない。

 離れていても、それと分かるのはなぜだろう。

 力強い緑色をした樹々に青い空の下、そこだけが息を詰めたように閑散として、正気を感じられないその校舎はまるで、静かに獲物が掛かるのを待つ食虫植物のようだ。

 思わず覗き込んでしまいたくなる、暗がりを凝縮したようなその闇が囁くぽっかりと開いたままの昇降口が、ふらふらと子供を誘き寄せて校舎の奥深くに取り込み、逃げ出せなくして校舎の栄養としてしまうんだ。

 ほら、前よりも少し大きくなって見える。

 そんなことを考えていたせいもあってか、昇降口の暗がりで下駄箱のどこを見ても一足の上履きすらないことに、ぼくはパニックを起こしそうになった。

 この学校、すべては幻で実はずっと昔から廃校だったとか?

 ぼくは校舎に、まんまと誘き寄せられてしまった子供のひとり?

 真実は、夏休みのため全生徒が上履きを持ち帰っているだけなんだと気づくまでのほんの一瞬、ぼくは背中に嫌な汗をかく。

 相変わらず無数のハエが、辺りを飛び回っていた。寄って来るハエを手で追い払うが、キリがなくて嫌になる。

 埃だらけで、くたびれた来客用のスリッパを、下駄箱の隅に見つけて履き替えた。

 ぺったん。

 ぺったん。

 廊下を歩くたびに、踵を打つスリッパの音がやけに響いて、どきりとする。

 直接、図書室へ行っていいのだろうか。

 しんと静まり返った廊下は、居るはずの先生たちの気配すら感じられない。

 図書室は教室の並びにある。

 職員室よりも手前だから、鍵が開いていなければ先生に声を掛ければ良いかと考えながら廊下を歩いていた。

 図書室の扉まであと少しまで来た時、がらがらっと職員室の引き戸が開いて、森田先生が廊下に顔を出した。

「あら、おはよう。スリッパの音が聞こえたから、誰かしらと思ったら……」

と言って、にっこり笑う。

「おはようございます」

「もしかして、図書室? 読書感想文の本を選びに来たの? それとも何か読み物を探しに来たのかしら?」

 感想文は終わったのだと正直なことは言えず、ぼくは愛想笑いで答えをはぐらかした。

「ちょうど良かった。今日の図書当番、私なのよ。ちょっと待っててね?」

 森田先生はそう言って一度、職員室の中に姿を消した。

 再び姿を現したとき、その手に図書室の鍵を持ってぼくに見せながら「すぐ開けるわね」と指で挟んだ鍵を回して扉を開ける仕草をしてみせる。

 すみません、と扉についた南京錠を開ける森田先生の後ろで、ぼくが小さな声で謝ると少し驚いた顔で振り返った。

「謝ることなんて、ない、ない。昔は夏休みの図書室は、開け放したままだったんだから。今は利用する人が滅多にいなくて、寂しいくらいよ。だから鍵は開けてないんだけど、こうやってお客さんが来るのは大歓迎」

 ない、ないと、言うときに顔の前で手を振った森田先生は、その手で図書室の扉を開けてぼくを中に入れてくれた。

「暑くなるから、全部の窓を開けましょう。カーテンは閉じたままね。日差しが強いから」

 窓を開けるのを、ぼくも手伝う。

 背伸びをして窓辺の本棚の上に上半身を乗り出す。体重を左腕にかけ身体の支えにして、木枠にねじ式の鍵が挿さっているのを、右手でくるくると回して開ける。装飾の部分に緑青の浮いたそれは、叔父さんの家の窓枠にある鍵とよく似ていた。

 なかには斜めに無理に挿してあるのもあり、無理矢理に締めたそれは固くてなかなか開かない。変な力を入れたため、指先が痛くなってしまう。

 全ての窓を開けた途端、部屋は明るくなり、澱んだ空気が消えていくのが分かる。

 軽くなる、というのだろうか?

「さっぱりしたわね?」

 森田先生もそう言って、清々しい顔でぼくを見たので、頷き返す。

「ゆっくり選んで、借りる本があれば、職員室に声を掛けてね。手ぶらで帰る時はそのままで大丈夫よ。今日くらい少し開けたままにして、空気の入れ替えもしなくちゃ。あんまり閉めっぱなしじゃあ、本も腐っちゃうわ」

 ね? と笑うと、森田先生はさっさと職員室に戻ってしまった。


 いいのかな……?


 一人残されたぼくは呆気に取られたまま、森田先生が後ろ手で閉めていった図書室の扉を眺めて立ちすくむ。

 ぼくとしては誰もいない方が調べものがしやすくてありがたいのだけど、ぼく一人の為に図書室を開けさせてしまったようで、後ろめたい。

 まあ、くよくよ考えていても仕方ない。

 それに森田先生だって、ぼく一人の為に図書室で仕事をするとなれば、わざわざ職員室から書類とかを移動させる面倒なことをしなければならない。ぼくひとり、図書室に残したのは、その手間を省いただけなんだろう。

 ぼくはとりあえず背負っていたリュックを窓辺の本棚の上に置き、目的の郷土資料コーナーを探そうと歩きかける。

 あ、しまった。

 森田先生に、思い出せないシラユキ先生の名前を聞けばよかった。今さら本人が居るかもしれない職員室には聞きに行けないし……。教職員名簿、は無理だ。図書室なんかに、あるわけない。卒業アルバム……それなら見ることが出来るかもしれない。

 ぼくは一旦、回れ右をするとこの小学校の卒業アルバムが収められている棚の前まで、行った。

 あるある。

 かなり古いものから、去年のものまでがずらりと年代順に並んでいる。

 時代を遡るにつれて、卒業アルバムは小さくなり、途中が抜けて時代が飛んだりしていたが、ぼくが見たいのは今から四年前のシラユキ先生がこの学校に来てからのこと。だから問題はなかった。

 四年前のアルバムを抜き出し、中を見る。

 ……?

 ない。

 シラユキ先生は、どこにも居ない。

 まあね。ユーキの勘違いかもしれないからと、その次の年をみる。

 また、その次の年。

 そして最後に、去年の卒業アルバムにもシラユキ先生の姿がないことを、確認した。

 保健室の先生だって、ちゃんとした職員だよね? 確か……養護教諭? とかいうし。

 ぼくの頭の中は、混乱する。

 シラユキ先生は、先生じゃないの?

 ぼくの頭を疑問だらけにした卒業アルバムを元にもどしながら、行儀良く並んでいるアルバムの中から、何気なく古そうなのを一冊、抜き出して見てみる。

 セピア色、というのだろうか。

 モノクロの写真が茶色く色付き、校舎の前で雛壇のように並んだ児童たちが、写っていた。校舎を一緒に収めようとしているせいだろうか一人ひとりの子供はとても小さくて、目鼻立ちは鮮明ではないものの、それぞれが畏まった顔つきをしているのが、肩や膝の強張った様子からもよく分かる。

 こちらを見ている男の子は総じて皆、詰襟の制服か、白いシャツに半ズボンで坊主頭。ほんの何人かは坊ちゃん刈り。そして女の子は、どの子も同じような丸襟の白いシャツに吊りのついたスカート姿、その上にカーディガンを着ている子がちらほら、耳朶が覗くほど短いおかっぱ髪だったり、三つ編みだったり。

 

 うわあ、古い写真だな。

 校舎は今と変わらないけど。

 ……あれ?


 ぼくは何か物足りなさを感じて、もっと良く写真を見ようと顔を近づける。

 ……分かったかもしれない。

 さっきまで見ていた去年のアルバムを、もう一度棚から取り出し隣に慌てて広げてみる。

 飛び込んできた色の鮮やかさに、一瞬にして時を呼び戻された。

 同じように整列する、色とりどりな姿で笑顔を見せる児童と先生たちの後ろに校舎があって、その屋根の左端から覗く黒く塗られた鉄塔のような火の見櫓の脚の部分が、青空に伸びていた。

 もう一方のアルバム。

 古い写真、校舎の屋根の上は、清々と茶色く染まった空が広がるばかりだった。


 ……火の見櫓が、ないんだ。


 いつのアルバムだろう。

 年度を確認すると、昭和十四年とある。

 その次の年のアルバムは抜けていて無い。無い時代が続いて、次に古い昭和二十三年のアルバムを引っ張り出して見てみる。

 その写真も、同じようにモノクロであるのは変わりなかったが、校舎の屋根の端。


 火の見櫓の脚が写っていた。


 つまり……。

 あの火の見櫓が建てられたのは、昭和十五年から二十三年の間?

 ぼくはシラユキ先生の名前のことを後回しにすることに決め、アルバムを全て元に戻し郷土資料コーナーへと移動する。

 利用者が少ないせいか、それは何枚も並んだ本棚の隅もすみ、教室の暗がりの端っこにあった。

 錆びた画鋲で、郷土資料コーナーと書かれた色褪せた色紙の貼ってある本棚。この図書室で、ぼくが調べたいものが載っていそうな本があるのは、いま目の前にある本棚の下から三段だけみたいだった。

 全部で五段ある上の二段には、いつ頃の作品だろう? 厚紙に貼られている埃っぽいそれは、児童が皆で授業のときに作ったと思われる大きく広げた手描きの村の地図だ。県出身の作家の本、何冊かと共に心許ない様子でディスプレイされている。

 ぼくが必要としているその下三段もまた、同じように空きが多くて、郷土資料コーナーは全体的にスカスカしていた。


 ……だけど、この村の地図。

 『村の地図』って上に大きく書いてあるんだから、本来なら村の中心にあるはずの村役場を、真ん中にするんじゃないのかな?


 ちょうど目線あたりに広げられた手作りのそれは、学校を中心とした山ばかりの、歪な形のおかしな地図だった。まあ、授業で作ったのなら、小学校を真ん中に持ってくるのは、なくもないよね。

 村役場や消防署や病院、学校に神社など、お世辞にも上手だとは言えない絵に描かれた建物は、地図の中で大きく誇張されている。

 中でも特に大きく描かれているのは四つ。

 一つ目は、模造紙の真ん中に描かれた小学校。二つ目は、その近くにある火の見櫓。三つ目に、学校から見て左側にある盆地の中央に、つまりは村の中心に置かれいる村役場は模造紙ぎりぎりの端にある。最後に学校から見て右側、盆地に向かって流れる川を挟んだ先にある小高い山の麓の『山の御社』と村の人たちが呼ぶ神社の全部で四つだ。

 でも、ちょっと待って。

 ぼくの目に、見えない何かが見えたような気がした。

 

 この地図。

 学校を中心に見るんじゃなくて

 火の見櫓を中心に、見ると……。


 そうすると火の見櫓、村役場、山の御社、この三つを直線で結ぶことで、綺麗な正三角形になる。その線は、偶然だろうか? 

  ぼくの身体に、電流が走った気がした。

 火の見櫓は、わざとこの位置を選んで、建てられたということなの?

 ああ……そうか。でもそうだよね。

 火の見櫓の役割は、村に警鐘を鳴らす為なんだから、何もおかしなことはないか。

 ここに建てることで全体を……見渡し……易く……ない?

 見渡せない、よね?

 むしろ山の御社の方にあった方が、村がある盆地全体を見渡せる範囲が広く、近隣の町までも捉えることが出来て良いんじゃないかな。

 地図の上の見えない正三角形を、何度か指でなぞる。

 これじゃまるで、なんだか結界を結んでるみたい。

 ……?

 そもそも結界って、何のためにあるんだっけ? ぼくのぼんやりとした知識では思い浮かぶのは、鳥居くらい。それが神さまの居る境界線という印だっていうのは、知っているけど。

 と、すると火が焚べてあることからも、やっぱりあれは普通の、火の見櫓じゃないんじゃないかな……。


 ぼくはしゃがみ込み、一番下の段にある郷土史と書いてある本に手を掛ける。


 では、一体誰が何の為に?

 さらにこの場所でなくてはならない理由が、郷土史に書かれていないだろうか。

 なければ、偶然だろうし、それが書いてあるならば、この火の見櫓は必然的な意味を持って建てられたということだよね。


 本を取り出したその時、図書室の扉が静かに開けられる音がして、ぼくは思わず体を低くしたまま、反射的に本棚の陰に隠れてしまった。

 ちょっと待って。

 隠れる必要なんてないのに、どうして?

 ……そう。きっと、忍び込むような扉の開け方と、ぼくがたった一人で調べていることの内容が後ろめたいようなこともあって、咄嗟に身を隠してしまったんだと思う。

 ぼくがしていることは、悪いことではなくて不思議に思うことを調べているだけなんだった。そうだよね?

 堂々としていようと身体を起こそうとしたとき、甘ったるい香水の匂いと、「鍵、開いてたね。でも誰も居ないみたいだ」と言う田向先生の声が聞こえて、図書室に入って来たのが誰なのかすぐに分かった。学校でデートしてるんだよ、と言った三藤くんの声が耳に蘇る。

 うわあ、マズい。隠れなきゃよかった。

 二人が声を顰めて話す様子から、再びしゃがみ込んだぼくは、その場から出るに出られなくなってしまう。


「前も探して無かったんだから、この図書室にはないと思うの」

「ほんとにちゃんと全部探した? 他のところに紛れているのかもしれないだろ」


 あれ? デートじゃない?

 先生たちは、何かを探しているんだ。

 何だろう?

 図書室を歩く二人の足音は聞こえても、ぼくから二人を伺い見ることは出来ない。

 だんだんと近づいてくる足音に耐えきれず、飛び出してしまおうかと考えるも、突然姿を現して、今まで隠れていたことをどうやって誤魔化したら良いか分からないと躊躇した。

 隠れんぼしてた? ひとりで? 

 あり得ない。

 床には、本棚の影に重なっていないぼくの影の一部がちらりと、はみ出て見える。

 近づく足音。

 誰かの伸びた影が、ぼくの隠れている本棚に触れる。


 ……ああ、マズい。今度こそホントに。


「郷土資料の所には、無かったわ。そこは特に何度もなんども、ちゃんと見たんだから」


 止まる足音。

 くぐもったシラユキ先生の声を受けて、足音が先に、あとから影が引き返していく。

 

「それに……こんな所に隠してあるのかしら? 本のようなものを想像していたけど、違ったら? 大きさも分からないし、実際にはどんなものかも分からない。誰が私を、こんなふうにしたのかも、何のヒントもない。もう探しようがないんだわ」


 悲しみ? 絶望?

 シラユキ先生は、何をされたの?

 その声は、聞いているだけのぼくにも痛いほどだった。


「諦めちゃ駄目だ。まだ今なら何か方法があるのかもしれない。このままでいられる為の方法が書かれているものが、どこかにあるかもしれないだろ? それに、もしかしたら今のような君にした誰かに頼んで、これ以上……」

「方法? 方法なんてきっともう、ないのよ。……私がしたいのは、時を戻したいだけ。そこに行って、馬鹿なことをする私を引き留めて、目を覚ませって説教したいかな。もう少ししっかりしなさいっ……って……」

 ふふっと二人が笑い合うのが分かった。

「……それでも、出会っていたかな?」

「あら? 田向センセは、ぼくたちは運命だって仰いましたよね?」

 静かになる教室。

 微かに聞こえる衣擦れの音。

 少しの間。

「……こうしていられるうちに、早いところ見つけ出さないと。村で学校以外に思い当たるところは? 村の外は? 可能性のありそうな所は探したの?」

「そうね……言われてみるまで、学校しか探してなかった……。でも、忘れちゃったの? 教えて貰った通りなら、私は村からは出られないのよ?」

「ごめん。そうだった。……二人でこの村から逃げるわけには、いかないんだったね。それが出来たらどんなに良いか。……よし。じゃあ、まずは村の中を一緒に探してみよう。村の外は、僕に任せてくれる?」

「……本当に、馬鹿な人よね。今だってもうこんなに醜くくて、あちこち崩れてきてしまった私なんて放っておけばそれで終わりなのに。他の人みたいにそうしちゃえば……」

「それ以上言うなら、怒るぞ。僕は、君が出会った今までのような他の人じゃないし、君を……美雪を好きなのは、外見が綺麗だからとかじゃない。分かるだろ? 身体は、しょせん容れ物にすぎないんだ。だからこうして今だって……」

「そうよね。お互いに、こんな姿を見ても、見せても大丈夫なんて……ふふッ。誰かとこんな関係になれるなんて、考えてみたこともなかった。なんでもっと早く、私の前に現れてくれなかったかなぁ……まあ、私の人を見る目がないせいで、こんなことにな……」

「もうやめよう。二人で決めただろう? この村の中だけでも良い。ずっと一緒に居ることが出来るようにしよう。だからほら、まだ時間があるかぎり諦めちゃだめだ」

 

 田向先生が途中でシラユキ先生の言葉を遮ると、先生たちは再び、何かを探し始めた。

 物音が聞こえる。

 紙を捲る音。

 引き出しを抜き出す音。

 本が入っている箱を移動して、開けてまた元に戻す音。

 先生たちは、ぼくがいる教室の反対側、教卓の裏の辺りで何かを探しているようだ。

 この音は、最近どこかで聞いたものとよく似ている。……どこでだっけ? すぐに思い出すことが出来ない。


 でもそうかシラユキ先生は、みゆきって名前なんだ。よし、ひとつ分かったぞ。

 だから、白雪姫に掛けたシラユキなのかな?

 あれ? じゃあ、苗字は? 

 苗字もまた、シラユキに似たような苗字だったような気がしたんだけどな。


「……見て。ねえ。ほら、窓のところ。カーテンの陰」


 しまった。

 ぼくの……。


「リュックが……。気づかなかったわ。誰か居るのかしら? ……今は居なくても、また戻って来るってことよね」

「……仕方ない。下駄箱を確認してくるか? いや、また後にしよう。いつ戻ってきてもおかしくない」

 慌てた様子で、散らかした何かを元に戻している音が聞こえる。

 しばらくして部屋の中から出て行く足音と共に、扉が静かに閉められ、何も聞こえなくなった。

 辺りにはシラユキ先生の香水の匂いに混じって、どうしたことか腐敗臭が微かに感じられて、思わずぼくは鼻を顰める。 

 蹲ったままの姿勢で動けないまま、あれこれ考えていたぼくは、先生たちが絶対に戻ってこないと分かるまでもう少しこうしていようと思った。

 そういえばシラユキ先生は、変なことも言ってなかった?

 『村からは、出られない』って。

 うん。確かにそう聞こえた。

 それに田向先生も、二人で村から逃げたくても無理だって言わなかった? つまり、シラユキ先生は、この村を出て行くことが出来ない、ってことなんだ。

 ふと模造紙の上の、見えない三角形を思い出す。


 だけど、どうして?

 もし出たら、どうなるんだろう。


 苦しい姿勢に、本だけは抱え直そうと腕を動かした時、手にしていた郷土史の本の間から一枚の紙がするりと落ちる。

 本棚の下の隙間に入りそうになったので、急いで掴まえようとして体勢を崩してしまった。

 ……なんだ、ただの栞だったか。

 けっこうな物音と共に、床に寝転がったぼくにすれば、納得いかない。


 まったくもう。

 あれ?


 本棚の下の隙間、埃だらけのその中に、ぼくの指が押さえる紙とは違う別の一枚が、あった。

 それは指を伸ばして、端にぎりぎり触れるくらいだ。届くかな? 届いた。

 指先に力を入れて、爪を立てて必死に手繰り寄せる。新聞? うん、新聞だ。ずいぶん古い新聞の切り抜きみたいだ。

 いつのだろう?

 引っぱり出して埃を払い、手に取る。

 ぼくの掌のふた周りほどのたいして大きくない切り抜きは、この辺りの郷土紙の一部分みたいだ。

 新聞の字の様子が、今とは全然違う。

 今より漢字は難しいし、それより何より紙は茶色く変色していて、濃い滲みもあちこちあってぱっと見ただけでは読めない。

 写りの悪い写真も記事と一緒にあるけど、もちろんモノクロ。

 でも、問題はそこじゃない。

 そう、この写真……。

 あの火の見櫓だ。

 まだ読んでないから想像でしかないけれど、この切り抜きはどうやら村に火の見櫓を作った人の話みたいだ。

 人の名前もあるし、多分そうだ。

 名前は、えーっと……。


 勢いよく図書室の扉の開く、大きな音がした。

「帰っちゃったかな? まだ居るのかしら? もうすぐ、お昼よー」

 森田先生だ。

 ぼくは思わず、その新聞の切り抜きをズボンの後ろポケットに無造作に突っ込む。

 何食わぬ顔をしている自信はないけど、お尻の辺りでゴソゴソ音を立てる紙の存在さえも忘れようと、とにかく自然な様子を装って、先生の声がする方へと姿を現した。

「まだ、借りたい本が見つからなくて……」

 あらっ、と少し驚いた顔をして、教室の隅のぼくを見つけた森田先生は、直ぐに優しい顔をして言った。

「たくさんあると、なかなか決められないのよね。私にも覚えがあるわ」

 それから続けて「そうねぇ」と言いながら、ある本棚まで歩みを進めると何やら探し始める。ようやく目的の一冊を見つけた森田先生は、ぼくに向かってその本を差し出した。

「これなんてどうかしら? 読んだことある? 昔、私にも子供がいたんだけど、その子のお気に入りの一冊だったのよ」

 ぼくは俯きがちに、その本を受け取る。

 まさに、この学校に通った何人もの子供達も、同じように読んだのだろう。

 手垢だらけで変色も激しいその本は、陽にあたった猫みたいな懐かしい匂いがする。昔からここにずっとあったんだろうなって、すぐに分かるくらい古くて角という角は全部丸まってしまっていた。

「夏休みのお話よ。うっかり小川に赤い運動靴を流してしまった女の子の靴を見つけてあげたところから、不思議な出会いがあるの」

「ずいぶん昔の本ですね」

「そうね。でも今も、本屋さんにこの新しい本があるはずよ。永く読まれているから。続編もあるけど、これが一番最初に書かれたの」

 どうする? 借りる? と目で聞いてくる森田先生にぼくは、ありがとうと言ってその本を貸してもらうことにした。

 貸し出しの手続きをしてもらう間、ぼくは椅子に座った先生の白髪ばかりの頭を見ながら、考えていた。

「先生……」

「なぁに?」

「……いえ、何でもないです」

 この本が大好きだった森田先生の子どもは、どうしたの? どうして『昔、私にも子供がいたんだけど』って言ったの? なんて、優しい先生を困らせるようなことは、聞けるはずもない。それにぼくは多分、その答えを聞かなくても分かっている。

「はい、どうぞ。夏休みを目一杯楽しんでね。どんなに願っても楽しい時間は、あっという間に過ぎちゃうのよ」

 そう言って本を手渡しながら僕を見上げた先生の、目の奥に微かな哀しみを見たような気がした。

「返却日は、二週間後ね。それより早く読み終えてしまったら、いつでも図書室に来て頂戴。読んで気に入ったら、その続きも読めると良いわね」

 ぼくは森田先生に頷きながら、言葉に微かな引っ掛かりを覚える。

 長い夏休みは始まったばかりなのに、もう少しで終わってしまうようなその言い方もそうだけれど、まるでぼくには続きを読むことがないような……。

 何だか嫌だな。

 夏休みは、あっという間に過ぎちゃうって言いたいだけなんだろうけどさ。

 本をしまう為、窓辺に置いたままのリュックを取りに行く。何気なく森田先生に背を向けたまま、リュックの中に本を入れて振り返ったとき、先生がぼくの後ろ姿をじっと見ていたことに気づいた。


 すっかり、忘れてた。

 ……お尻のポケットが膨らんでいることを、気づかれた?


 確かめるために手をそこに持っていくことは、見られたくないものがあると白状しているようなものだ。

 ぼくは、手が動いてしまいそうになるのをぐっと我慢をしてリュックを背負うと、支度の出来たことを先生に知らせる。

 束の間、ぼくに真顔を覗かせていた森田先生だったけれど、再び何もなかったようにいつもの笑顔に戻り「忘れ物はないわね?」と聞いてきた。

「私はこのまま職員室に戻ってしまうけど、夕方まで図書室の鍵は開けておくから、忘れ物があったらそれまでに取りに来てね。その時は、声を掛けずに帰って構わないわ」

 先生の目が、鈍く光って見えたのは気のせいなんだろうか。

 ぼくの考え過ぎかな。


 学校の外は、酷い暑さだった。

 朝のうち微かに吹いていた風もすっかり止んでしまい、道にはギラギラと輝く逃げ水が見える。

 途中、何度も水筒を飲みながら誰もいない坂道を下った。

 ようやく着いた叔父さんの家の玄関を開ける。涼しくて暗い廊下に向かって、ただいまを言った。

 叔父さんが居るのは台所だろうか、お帰りと応える声が家の真ん中辺りで響く。

 その台所に顔を出すと、鍋で湯を沸かす叔父さんが居た。ぼくの気配を感じて振り返る。

「お昼は、素麺だよ。手を洗って来なさい。……あ、そうそう」

 ぼくが手を洗いに行こうとした時、叔父さんはユーキから電話があったことを教えてくれた。なんでも、農園の手伝いをしなくちゃいけなくなったから、三藤くんの家には行けないんだって。

 ぼく、ひとりか。

 なんだか、今日は一人で坂道を行ったり来たりしているな。

 途中、ぼくの部屋に寄ってポケットの中身をリュックに移そうとして、森田先生に勧められた本と目が合う。

 皺々になってしまった古い新聞の切り抜きは、すぐに失くしてしまいそうだった。この本の間に挟んでおこうと、表紙のすぐ裏に差し込む。

 火の見櫓は三藤くんも気にしていたから、本と一緒にリュックに入れたままにして、三藤くんの家でこの切り抜きを一緒に読もう。

 ぼくは、手を洗いに洗面所へ向かった。


 叔父さんは、素麺を茹でるのが上手い。

 冷たい井戸水で締めるのが、美味しく出来る秘訣だよと言っていたけど、確かにきゅっと冷たくした細い麺は、喉越しが抜群でいくらでも食べられそうだった。

 そんなわけで、食べ過ぎてしまったぼくは、苦しいお腹を抱えたまま再び坂道を上って、三藤くんの家を目指している。

 さすがに最後のひと口は余計だったかも。

 誰もいない駐在所の前を通り過ぎる。

 この暑さでは外に出ているのは、ぼくくらいなんじゃないのかな。

 喫茶店の駐車場には車が二台。どちらも他県のナンバープレートだった。

 村長さんは、今日はいないのか。

 ぼくは三藤くんの家の玄関に回り、呼び鈴を鳴らした。


「そう、なんだ。古い、新聞、が、あったんだ、ね」


 一枚の切り抜きを前に、ぼくと三藤くんはダイニングテーブルに向かい合って座り、その紙面に写る火の見櫓を見ていた。

 古い新聞の写真とはいえ、恐ろしいものを前にしたぼくたちは、まるで心霊写真でも見ているかのように、たいして見たくもないのにそこに吸い寄せられた目を離すことが出来ない。

 三藤くんが、ぼくに出してくれた麦茶のコップは、あっという間にグラスの外に水滴が盛り上がったと思えば、もうすでにテーブルに小さな水溜りを作っている。

「読める?」

 意を決したぼくたちは頭を寄せ合うと、書いてある文字の解読を始めた。二人がそこから読み取ることが出来たのは、次のことだ。

 火の見櫓が建てられたのは、昭和二十二年のこと。日付けの記載は無し。

 あの火の見櫓の大半は地元の寄付金で造られ、残りは個人による寄贈であること。

 地元の、つまりこの村の鉄工所が作成をし、意匠のある特徴的な屋根やあちこちに付けられた装飾は、寄贈者でもある同じくこの村の鋳物職人によって造られたと書かれている。

 意匠を凝らした珍しい火の見櫓として、一時期県内外から注目を集めたそうだ。

 この鋳物職人の名前は倉橋一郎太とある。

 また、この火の見櫓は村に警鐘を鳴らすと共に、亡くなった人達の御霊を慰めるため、さらには魂の拠り所として置かれたと書いてあった。

  

 慰霊碑みたいなものなのかな?

 だとしたら、火が灯されているのも分かる気がした。


 ……倉橋。

 まさかね。

 ぼくは頭を振って、浮かんだ考えを払い落とす。

「だ、けど、何で。何で、火の見櫓に、は電球が、点いて、いるんだ、ろう?」

 え?

 ぼくは三藤くんの言葉に驚いて、聞き返してしまう。

 火の見櫓には、火が灯されているよね?

 昼間ももちろんだけど、夜になるとより鮮明に、闇の中にちらちらと火の粉が舞うのさえ見える。

 この新聞にもあるように、慰霊碑みたいなことも兼ねているから、火が灯されているんじゃないの?

 三藤くんは首を横に振ると、オレンジ色の電球みたいなのが点いていると言いはった。おかしな形の屋根にまるで、朱色のとても大きなホオヅキの実が付いているみたいに見えるって言うんだ。

「あんな、の、見たこと、がない」

 何度読み返しても、手元にある郷土新聞の切り抜きには、灯りのことは何も書いていない。


 そんな……? 鬼灯ホオヅキ

 確かに変わった屋根の形をしているけど。


 ぼくと三藤くんの目に映る火の見櫓は、違って見えるということなの?

 ……ユーキは? ユーキには、どうやって見えているのだろう。

 考えに没頭するあまり、黙り込んでしまったぼくに三藤くんは続けて、残念な知らせがあると言った。

 自由研究を一緒にすることが出来ないんだと、酷く悲しそうな顔をして。

「お母さん、が、ダメだ、って言う、んだ。休み、の間は、喫茶店を、手伝って、欲し、いんだ、って」

 この間見た村長の姿が、ふっと蘇る。

 もしかして……。

 ぼくの思い過ごしかもしれない。だけど、ぼくがそう思うくらいだから三藤くんが出歩くことで、それに気づいた他の人がどんなことを考えるのか、簡単に分かる気がした。

 違うから、誤解されないようにって?

 だけど自由に歩けないって、そのことを暗に認めているような気もするんだけど。

 ずっと皿洗いだよ。と情け無い声を出した三藤くんは、友達が遊びに来た時は手伝いしなくても良いって言うから、毎日でも遊びに来てよとぼくに熱く語る。

 そうね。毎日……は、さすがに無いけど。

 たくさん遊ぼうね。

 笑顔になったぼくに、三藤くんは貸していた漫画について語りはじめた。


 おやつの時間、三藤くんのお母さんが持って来てくれた手作りのチーズケーキをご馳走になった後、前と同じように食器を喫茶店にいる三藤くんのお母さんに返しに行った。

 そのまま、さよならをして二人に向かって手を振りながらも、どうしてもその首元に目がいってしまう。

 そうなんだ。

 三藤くんにも、三藤くんのお母さんにもシラユキ先生のように隠しておきたい『何か』がある。


 人には誰しも秘密があるのだ。


 悲しいことに、ぼくはもうそれを知らない子どもではなかった。


 陽が傾き暑さの和らいだ帰り道の途中、駐在所の近くをお巡りさんの奥さんが、胸に抱いた赤ちゃんを優しく覗き込みながら散歩しているのを見かける。

「こんにちは」

 ぼくが挨拶をすると、にっこりと笑顔で片方の手を振ってくれた。

 赤ちゃん、寝てるのかな?

 すれ違うとき、お包みの中にそっと目をやったぼくは、以前感じた違和感の正体を見た。


 ……ここにもまた、ひとつ。


 奥さんが大事そうに抱いているのは、赤ちゃんのお人形だったんだ。

 

 

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