朝に眠る
石濱ウミ
プロローグ 夜明け
白々と空が明ける頃、古い廊下の片隅にある時を止めたような黒電話は、一瞬、盛大な溜め息を吐くかのような音を漏らした後、けたたましい悲鳴のような音で鳴りだした。
薄闇に浮かび上がる男の筋張った白い素足が、ひんやりと暗く飴色をした板張りの廊下をひたひたと歩く音は、いとも簡単に黒電話の悲鳴に飲み込まれる。
痩せた手が受話器を取った。
途端、電話の悲鳴は止む。
「……はい。ああ、姉さん……。うん。……うん。ああ、分かるよ。……うん。大丈夫。姉さんは?……。……ああ。……そうだね。うん。じゃあ、これからそっちに行こうか? いや、大丈夫。……うん。……それじゃあ、後で」
男はまるで、壊れ物を扱うかのようにそっと受話器を置く。
チン、と澄んだ音が暗がりに響いた。
しばらくの間、そのまま受話器を押さえた姿勢で男は項垂れていたが、何かを振り切るように、つと顔を上げて窓の外を見る。
間近に迫る山の端が、朝日に滲んでいた。
また朝が来たのだ。
ここ
村域は三方を山に囲まれた地形になっていて、村の中央には
この村は標高120mにあり、どちらかといえば標高は低いものの、盆地特有の朝晩の冷え込みは、周囲の町と比較しても大変厳しいところである。
そのなかでも冬の冷え込みは特に厳しく、厳冬期になると川の水面に無数のシャーベット状の氷が現れ、その氷がそのまま川に乗って流れていくという極めて珍しい現象が見られるのも、この村の冬の厳しさがわかるひとつの特徴であった。
また、夏は猛暑日を記録することも多いが熱帯夜は稀で過去に数例しかない。すなわち陽が落ちると、ぐっと気温が下がるのだ。
ひとことでいえば、寒暖の差が激しい村ということである。
男はこの時のために用意してあった服を手に取ると、手早く着替えを済ませた。
廊下の突き当たりにある屋根裏に上がる跳ね上げ式の階段を下ろし、その狭く急勾配の階段を身体を縮こませながら登り、しばらくして布に包んだ何かを抱えて降りてきた。
男の手の中の布に包まれたそれは、どうやら壊れ物らしく、男の手はそれを落としてはならないと少し緊張している。
そのまま廊下を進み、台所に入った。
斜めに亀裂が入り、所々黄ばんで汚れた白い壁。そこに掛かる時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえる。
水色のタイル張りの流し台の蛇口は、ぽたり、ぽたりと水滴が膨らんでは落ちるを繰り返していた。
台所の古ぼけた食卓の上に、箱がひとつ。
あらかじめ用意していたのだろう。
男の持つ布に包んだままのそれを、丁寧な手つきで、そっと箱に入れる。それは隙間なく、ぴたりと箱に収まった。やがて男は、再びそれを大事そうに腕に抱えると、壁に掛かる車の鍵を取り、ポケットにしまうと玄関から外へ出た。
男は空を見上げる。
朝日はすでに上がり、
遅い春の終わる匂いがする。
男は、ズボンのポケットから車の鍵を取り出した。
運転席のドアを開けると、抱えた箱をそっと助手席に置く。車のエンジンをかけ走り出す。窓を開けて山の空気を入れた。
男の姉の待つ、病院へ。
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