竜の裁量(9)

 白みがかった景色の中、立ち尽くすばかりの時間に違和感を覚えなかった。そこが自分の居場所であると納得し、動こうとは微塵も思わなかった。


 意識が途切れ、記憶と記憶の隙間に空白が差し込まれても、再び放り込まれた景色を即座に受け入れ、そこに立ち尽くすことだけを日常として過ごしていた。


 時折、聞き覚えのある懐かしい声も聞こえた。その声が聞こえると、どこかに何かを忘れたような、漠然とした不安が胸の中に募り、思わず耳を塞ぐこともあった。

 これ以上、この声を聞いていたら何かが壊れると、身体の内側が騒いで、自然とその姿勢を取っていた。


 やがて、その声は聞こえなくなり、今度は違う声が聞こえるようになった。以前の声もそうだが、新たに聞こえてきた声も、何を言っているかは分からなかった。

 知らない言語を話されているような気分になって、聞こえてきた声を聞き取ろうとも思わなかった。


 ただ声が変わったことで、ずっと抱えていた不安は消えていた。代わりに何かを手放してしまった喪失感が内側に巣くって、本当にこれで良かったのかと考える時間が生まれていた。


 本当は何かを拾わなければいけなかった気がする。そう思っても、その何かが分かることはなく、何も掴めないまま、ただひたすらに白みがかった景色の中に立ち尽くしていた。


 何もしないだけの時間を長いとは思わなかった。時折、聞こえてくる声に耳を傾けて、白みがかった景色を眺めて、意識に空白を差し込んで、気づいた時には再び立ち尽くしていて、再び聞こえてくる声を聞く。


 延々とそれだけの時間が過ぎて、どれくらい経ったのか、数えるということも、その概念すら忘却していた頭には、時間の経過という考えも当然のようになく、変化のない空間と変化のない時間をひたすらに過ごしていた。


 そこに変化が唐突に起きた。白みがかった景色の向こうに影が浮かび、それが漂っているように見えた。影は大きな楕円として浮かび、数十秒の後に消え去った。それが何であるのかと気にする気持ちはあったが、それも影が消えた直後には、頭の中から消えていた。


 だが、それからも影は浮かび続けた。時間は次第に伸びて、そこを漂う影を長く見つめるようになっていた。


 そうしたら、次第に影の形が変わっていることに気づいた。何の影かと気になって、目は自然と凝らしていた。浮かぶ影は漂うまま、輪郭を整えて、少しずつ形を作っているようだった。


 それが人の形だと気づいたのは、しばらく後のことだ。人が立っているという思いと、それが誰なのかという疑問が湧き、人影だと分かってからも、影を見つめる時間は過ぎていた。


 しかし、そこから、はっきりとそこに立つ影が誰のものであるかは分からなかった。影から濃くなることはなく、黒い絵の奥から人の姿を導き出すことは不可能に近かった。


 ここまでしか分からない。そういう気持ちが諦めとなって、次第に影を見つめる時間もなくなっていた。ただぼんやりと輪郭だけを見つめる。それだけの時間に変化していた。


 その中で、ふと影の大きさに気づいた。漂う影の目線が低く、その高さを意識した時に、影の輪郭が白みがかった景色に浮かんで、目の前に浮き出てくるように形を深めていた。凹凸が生まれ、色が濃くつき、見えなかった内側の輪郭まで浮かんで、そこにいる影が誰なのかとはっきり分かった。


 分かってしまった。


「怜……?」


 口にした言葉が虚空に消え、芦屋りょうはようやく目を覚ましていた。開いた瞼が重く、ゆっくりとしか視界は広がらない。身体はその瞼以上に重く、指一本すら碌に動く様子がない。


 唇を動かそうと試みる。さっきは芦屋怜の名前が口から出たはずだが、今はその片鱗すらなく、唇は僅かな空気穴を開けるだけで、声を発する余裕は一切生むことがなかった。


 何が起きているのかと、起き切らない頭に疑問が浮かんだ。どこにいるのかと、未だ見えない周囲に疑問を覚えた。何があったのかと、思い出そうとした頭には蓋がしてあるようだった。


 何もないと思った時、ぼやけた視界の向こう側から声が聞こえた。女性の声だった。


「―――――!?」


 何かを言っているということは分かったが、何を言っているかは分からなかった。知らない言語を話されているような気分になり、その気分にどこか懐かしさを覚えた。


 この感覚は知っている。そう思う中、ゆっくりと景色は広がり始めていた。瞼がようやく起きることを覚えたようだ。


 周囲の光が痛いほどに瞳に入って、諒は目を細めながら、自分の周りを確認しようとした。同時に聞こえてくる声がようやく輪郭を持って、諒の唇は再び自然と動き出す。


「怜……?」


 そう言った声に反応し、そこにいる誰かがこちらを向いた。ゆっくりと視界が広がって、その姿と声がようやく諒の中に鮮明な形として飛び込んでくる。


 それは見知らぬ女性だった。誰だろうという疑問が浮かび、起き切らない頭で女性の姿を見る。着ている服装は看護師のものに見え、看護師なのかと思った数秒後、どうして看護師がそこにいるのかと疑問を覚えた。


「芦屋さん? 聞こえますか? 私の姿が見えますか?」


 そこにいる女性にそう聞かれ、諒はゆっくりと唇を動かそうとする。が、麻酔でも打たれているのかと思うほどに唇の自由はなく、諒は言おうと思ったことも言えないまま、唇を止めるしかなかった。


 代わりに固定されたように動き出さない首を無理矢理に動かし、頷きにも見える誤差程度の動きをする。

 それが何とか、ちゃんと伝わったのか、看護師らしき女性は慌てて誰かを呼びに行き、諒の時間はようやく違う形で動き出していた。


 そこから、諒は自分の身に何が起きたのか、ゆっくりと説明を受けることになった。どれだけの時間を眠っていたのかも知って、愕然とした気持ちと圧倒的な喪失感に襲われた。


 ただ、それら以上に気になったのは、別のことだった。諒は自分が眠っていたと知った瞬間、自分の身に起きたこと以上の不安を感じ、湧いてきた疑問を反射的に口にしていた。


「怜はどうしているのですか?」


 その問いに芳しい反応が返ってこなかったことで、諒の中にうるさいほどの騒めきが生まれ、周囲の音を掻き消すように膨らんだ。

 聞きたくないと本能的に思ってしまったのかもしれない。もしくは聞いてはいけないと本能が警告を出したのかもしれない。


 ただ、そこから先の言葉を聞かないという選択肢はなく、諒は騒めきの奥から微かに聞こえてくる声に耳を傾けるしかなかった。

 最悪な想像から最良の想像まで思い浮かべていたが、そのどちらも超えて、現実は残酷に刃を振り下ろしてきた。


 怜が死んだ。その事実は流石の諒のイメージの中にもなく、すぐには現実のものとして消化できなかった。衝撃もそれほどにはなかった。衝撃を感じるほどに、諒はその言葉を実感できなかった。


 ゆっくりと時間が流れる。諒は少しずつ回復し、身体を起こせるようになる。周囲の人とも話せるようになる。表情も少しずつ豊富になっていく。


 それなのに、いつまで経っても怜が姿を見せないことで、諒の心は実感しつつあった。あの時に聞いた説明が嘘ではないと分かり、元気になる身体とは対照的に、諒の心は押し潰されそうになっていた。


 卵に罅すら入らないような、豆腐すら潰れないような、触れた針すら刺さらないような、ほんの少しの圧力で、上から押されただけでも、今ならぐしゃりと潰れるほどに、諒の心は弱く、脆くなっていた。


 その中でも、諒はリハビリをやめなかった。歩くことを求めて、毎日のように努力した。理由は歩きたいと思ったからではなく、これから生きていくためでもない。


 諒の心の奥底で、少しずつ実感として湧いている怜の死を確認するためだ。


 そして、その死が本当であると知った時、これまでのように生きていくだけの理由を失った諒が、自分で自分の人生を終わらせるためだ。


 そのために諒はひたすらに歩くための訓練を積んでいた。毎月、毎週、毎日、歩ける日を想像して、怜がどこかで笑っている姿を求めて、動かない身体を酷使し続けた。


 このままでいつか歩けるのか。これだけの努力をして、怜の死を確認する必要があるのか。全てが本当のことであると認めて、さっさと決断を下すべきではないのか。怜のいなくなった世界に残り続けて、そこに意味はあるのか。


 動かない足と湧いてくる実感が精神を次第に擦り減らし、心の奥底の一番脆い部分すら削がれようとした頃になって、諒はふと病室の中に見知らぬ封筒を発見する。


 差出人不明。いつ置かれたかも分からない。その封筒の中を見てみると、それはのようだった。


 それに目を通した諒の視線は一瞬で固まり、身体の奥底から言いようのない感情が溢れていた。嬉しさでも、悲しさでもない。ただ身体中の細胞を震えさせる感情に襲われ、諒は思わず口を覆っていた。


 そこに書かれた文字は間違いなく、だった。


 ゆっくりと一文ずつ、諒はそこに書かれた文字を読み始める。進めば進むほどに、そこに書かれた言葉は諒に複雑な感情を与えてきた。


 意味の分からない内容も多く、夢を見ているのかと疑うほどだったが、抓った頬は痛かった。誰かが書いたドッキリかとも思ったが、微かに震えているようにも見える文字には、言葉以上の感情が見て取れた。


 手紙の端に濡れた跡を見つけて、諒の疑いはゆっくりと消えていた。言葉を全て噛み締めるように瞼を閉じて、諒は耐え切れない涙を頬に落とした。


 怜からの手紙には、感謝と謝罪の言葉が記されていた。これまで自分を育てるために頑張ってくれてありがとう、と。そして、自分の方が先に死んでしまって申し訳ない、と。


 自分の近況を綴るだけの余白はないが、自分は新たな場所に進んでいる。諒が与えてくれたこれまでの全てを持って、自分は諒のように誰かを助け、守る人になりたい。


 だから、諒も次に進んで欲しい。それが自分からの最期の願いである。


 そう書かれた言葉は諒からすれば呪いのようだった。怜の死を確認し、それが本当であるなら、もうこの人生に意味はないと思っていた諒に、楔を打つような呪いだ。


 死ねない。その思いが胸に湧き、それが望みとは対照的な思いであるにもかかわらず、諒はどこか嬉しさを覚えていた。


 怜が元気そうだったから。怜からの手紙が貰えたから。自分のこれまでが無駄ではなかったから。自分を思ってくれる怜の気持ちが温かかったから。


 嬉しさの理由がどれかは分からなかったが、諒は受け取った手紙を大切に畳んで、それまで抱えていた陰鬱とした空気を捨て去るように、大きく息を吐き出した。


「もう少し」


 その呟きが背中を押して、諒はゆっくりと、まだ拙く、小さな一歩を歩み出そうとしていた。

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