『ゲノーモス帝国』

騎士の帰還(1)

「うわぁ…」


 旅装を身にまとった一人の少女が感嘆の声を漏らした。王都の街並みを見上げ、あんぐりと口を開けている。


「あっ…つい、声が出ちゃった…」


 不意に正気に戻り、少女は恥ずかしそうに口を押さえながら、きょろきょろと辺りを見回し始めた。


 風貌だけなら、遠方から訪れた旅行者が王都の街並みに驚いているという光景だ。声を漏らしても恥ずかしいことではないだろうが、少女の場合は少し事情が違っていた。


 そもそも、少女は王都を訪れるのが初めてではなかった。この言い方をすると以前、王都に来たことのある旅行者のように感じるかもしれないが、そういう話でもない。

 少女は王都を訪れたのではなく、正確には王都に帰ってきたのだ。仕事の関係から王都をしばらく離れ、数ヶ月ぶりに戻ってきたところなのだ。


 この少女の名前はイリス。この王都に住む、この国の第一王子、アスマに仕える騎士の一人だ。


 そのイリスが王都の街並みに驚いて、思わず声を漏らしたとなると、笑い話になることは目に見えている。

 特に王城には噂好きの騎士や国家魔術師がいる。話が広まるのは一瞬だ。


 周囲に知り合いの顔がないことを確認し、イリスはようやくホッと胸を撫で下ろした。

 それから、改めて王都の街並みを見てみる。


 研修のために訪れていた遠方の地が田舎というわけではないのだが、王都と比べてしまうと、どうしても見劣りする部分がある。それは王都の特性上仕方ないことなのだが、久しぶりに見ると呆気に取られてしまうもので、帰ってきたという気持ちよりも驚きの方がずっと大きかった。


 しばらく、そのまま王都の街並みを眺めてから、イリスはようやく王城に目を向ける。


 イリスが王都を離れている間に、王都では竜王祭りゅうおうさいが行われていたはずだ。

 イリスの仕える主、アスマの生誕祭を兼ねたエアリエル王国の祭りで、アスマが一年の中でも非常に楽しみにしている催しだが、今年、イリスは参加することができなかった。


 きっとイリスが帰ってきたら、アスマがその祭りのことを楽しそうに話してくるのだろう。もしくはイリスの研修先のことを聞かれるかもしれない。

 どちらにしても、しばらく自由になれそうにはない。そう想像して苦笑しながら、イリスは荷物を抱え込む。


 アスマの強引さには頭を悩まされることも多いが、完全にそれがなくなるのも意外と寂しいもので、この数ヶ月はどこか懐かしく思い出すこともあった。

 それが戻ってくるのなら、それも悪くないのかと考えながら、イリスは王城に向かって歩き始めた。



   ☆   ★   ☆   ★



 持ち帰った荷物を自室に置き、イリスは早々に報告するために騎士団長であるブラゴの部屋を訪れた。


 いつもなら、この前のいずれかのタイミングでアスマと逢い、報告があるというのに必要以上に絡まれるのだが、今日はそういうこともなく、スムーズに部屋まで来られたことを不思議に思いながら、イリスは扉をノックする。


 イリスのノックに答えるように、部屋の中からブラゴの冷めた声が聞こえ、イリスは「失礼します」と声をかけた。

 その声でブラゴはイリスであることに気づいたようだ。扉を開けて中に入っていくと、すぐさま「帰ってきたのか」と声をかけられた。


「はい!ただいま戻りました!」

「そうか。向こうではどうだった?」

「詳細は追って報告書にまとめますが、なかなかに有意義な時間を過ごせました」

「そうか。それなら、良かった。行かせた甲斐があったようだ」


 言葉自体は非常に優しい内容なのだが、ブラゴの表情はいつもの険しいものから変わっておらず、久しぶりのその雰囲気にイリスは否応なく緊張する。


 そういえば、こういう人だったかとイリスが思っていると、ブラゴがイリスの顔を見たまま、不意に固まった。何かを考え込んでいるように見える。


「どうかされましたか?」

「いや、報告書は急がないから、時間がある時にまとめてくれたらいい。今からの仕事のことだが…」

「殿下の護衛ですよね?これから、向かおうと思っています」


 帰ってきたことを報告しながら、アスマの護衛を再開する。そのつもりで考えていたイリスだったが、ブラゴはその言葉を否定するようにかぶりを振った。


「いや、そのことだが、アスマ殿下の護衛は大丈夫だ」

「え?どうしてですか?」


 そう驚いてから、ブラゴがその疑問に答える少しの間に、イリスは嫌な想像を思い浮かべる。


「実は…」

「クビですか!?もしかして、私がいない間に、私よりも優秀な騎士が来たんですか!?」


 頭の中で自分よりも優秀な架空の騎士を思い浮かべ、イリスはブラゴに詰め寄っていた。その慌てふためいた様子に、ブラゴは眉を顰めながらも、ゆっくりとイリスの身体を押し返す。


「そういうことではない。殿下は今、不在だ。護衛ができないから、今は護衛を考えなくていい」

「不在?どうして?」

「それは…」


 そう言いながら、ブラゴはイリスから目を逸らし、面倒そうに頭を掻いた。


「説明が長くなる。詳細が知りたければ、ベラベラと話してくれる人物――ライトにでも聞くといい」


 そう言われ、イリスは同じく騎士であるライトの顔を思い浮かべる。確かに知っているなら、イリスが聞かずともライトなら話してくれそうだ。


「今は帰ってきた疲れもあるだろう。取り敢えず、殿下がお戻りになるまで、休息しているといい」


 久方ぶりの休み。普通なら喜ぶところなのだが、アスマと逢うことを考えていたイリスはうまく喜ぶことができなかった。

 休みが嬉しくないわけでも、アスマがいなかったことが悲しいわけでもなく、単純に休みを与えられても、何をしたらいいのかイリスには分からない。


「分かりました。しばらく、ゆっくりしたいと思います」


 そう告げてから、イリスはブラゴの部屋を後にするが、急な休みに何をしたらいいのかと悩み始めた。ぽっかりと空いた時間を完全に持て余している。


 取り敢えず、ライト達に帰ってきたことを報告するついでに、アスマが不在である理由を聞こう。

 そのように考え、イリスはライトが仕えるアスラを探して、王城の中を歩き始めた。



   ☆   ★   ☆   ★



「あっ、イリスさん」


 先に気づいたアスラが笑顔で手を振り始め、イリスは恐縮した様子で頭を下げた。アスラはアスマの弟だ。この国の第二王子に笑顔で手を振られ、恐縮しない騎士は普通いない。普通は。


 その隣に仕えていた騎士のウィリアムもイリスに気づいたようだ。イリスは目が合ったウィリアムに会釈しながら、アスラの元に歩いていく。


「お久しぶりです。ただいま戻りました」

「お帰りなさい。元気そうで何よりです」

「ありがとうございます」


 アスラと軽く会話しながら、イリスはゆっくりと視線を動かし、アスラ達の立つ中庭に目を向けた。


「あれは一体、どういう状況ですか?」


 中庭の中央ではライトが膝を抱えて座り込み、空をぼうっと眺めている。アスラとウィリアムはそれを眺めていたようなのだが、イリスには非常に理解のできない光景だ。


「どうやら、兄様が行ってしまったことで拗ねているようなのです」

「アスマ殿下が行ってしまった?拗ねている?」


 事情を知らないイリスは不思議そうな顔をしてから、中庭の中央から動く気配のないライトにゆっくりと近づいていく。


「ライトさん?」


 少し離れた位置から声をかけると、ゆっくりと首を回したライトと目が合った。


「あっ、イリスちゃん…帰ってきたんだね…」


 いつものライトからは考えられないか細い声が返ってきて、イリスは本格的に何があったのかと心配し始めた。


「どうしたんですか?元気がないですね?」

「いや、ショックだったんだよ…」

「ショック…」

「うん…アスマ殿下がこっそりと馬車に忍び込んで、ウルカヌス王国に向かったって聞いてさ…俺もその手を使えば、サボってウルカヌス王国に行けたのにって思って…」

「いや、サボることを考えないで仕事をしましょうよ」


 というか、今もサボっているだろうと言いかけて、イリスは固まった。


「あれ?今、何て言いました?」

「サボってウルカヌス王国に行けたのに…」

「その前です」

「アスマ殿下がこっそりと馬車に忍び込んで、ウルカヌス王国に向かった…?」

「殿下がウルカヌス王国に!?」


 あまりの驚きにイリスが立ち上がると、ライトは遠くを見るような目をしたまま、ゆっくりとイリスを見てきた。


「あ…知らなかったの…?多分、今頃ついていると思うよ、向こうの王都に…」

「どういうことですか!?何で、殿下が!?というか、そもそも、どうしてウルカヌス王国に!?」


 詰め寄ってきたイリスに揺さぶられるまま、ぶんぶんと頭を振りながら、ライトがイリス不在の間に起きたことをゆっくりと説明してくれた。


 そこでイリスはアスマの命が狙われたことや異世界人の存在、そのアスマの命を狙った人物がウルカヌス王国の王女だったことを知る。


「その送り届ける馬車に殿下が忍び込んで、そのままウルカヌス王国に行くことになったんですか?」

「うん、そう…ベル婆も一緒らしいよ…」

「ベルさんも…そんなことに…」


 イリスが呆然とした様子でライトの隣に座り込み、ライトと同じように膝を抱えた状態で座り込んだ。


「大丈夫なんですかね、殿下は?」

「シドラスとセリスさんがついているからね…きっと大丈夫じゃない…それよりも、何で俺は誘ってくれなかったんだろう…?」

「いや、ライトさんはアスラ殿下の護衛ですよね?」


 誘われなくても普通だろうとイリスは思ったが、それを口にすると泣き出しそうだったので、イリスは口を噤んだ。


 イリスの印象では何となく、ベルが来てからライトがアスマから離れている気がしていたのだが、そういう関係性もイリスのいない間に和らいでいるようだ。今の落ち込み方は冗談には見えない。


 そう思っていたら、アスラとウィリアムが二人に近づいてきた。ウィリアムがライトの後ろに立ち、首根っこを掴んで無理矢理立たせている。


「いつまでも、そうしている時間はない。ちゃんと働け」

「いや、でも、何か、もう…やる気が出ない…」

「そんなことは理由にならない」


 その二人のやり取りを苦笑しつつ見守りながら、アスラがイリスに声をかけてきた。


「イリスさんはこれからどうされるのですか?」

「一応、騎士団長からは休みを言い渡されているので、しばらく休もうかと。それ以外は未定ですね。言ってしまえば暇です」

「でしたら、ゆっくり休んでください。休める時に休むということは大切ですから」

「ありがとうございます」


 そう頭を下げながら、イリスは意外にもアスラが落ちついていると感じていた。あのアスマが大好きで仕方ないというアスラなら、アスマがいなくなったことに慌てふためいてもおかしくないはずだ。

 そう考えていたら、その考えが伝わってしまったのか、アスラが笑みを浮かべてイリスを見てきた。


「意外と落ちついていることに驚いていますか?」

「い、いえ、そういうつもりは…!?」

「大丈夫ですよ。自分でもそう思いましたから。兄様がいなくなって、以前ならきっと慌てていたのだろうなとは思うんです」


 アスラが微笑みを浮かべたまま、ゆっくりと空に目を向ける。その視線は遠くにいるアスマに向けられているのかもしれないとイリスは感じる。


「でも、今は兄様の近くにベルさんがいると、何となく、大丈夫だろうなって思うようになったんです。本当に何となく」


 そう言いながら恥ずかしそうに笑ったアスラの表情は、年相応の無邪気な子供の笑顔に見えた。


 イリスがいない間に、いろいろなところでいろいろな変化があったようだ。その笑顔を見て、イリスはそう感じた。


「殿下。そろそろ、行きましょうか」


 ライトを掴んだままのウィリアムに声をかけられ、アスラはその場を立ち去っていく。その後ろ姿を見送りながら、イリスは自分がいない間に起きた様々な変化を知りたいと思っていた。

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