11歳(7)

 狼と対面したベルだったが、幸いなことに狼はどこかに傷を負っている様子だった。呼吸は少し苦しそうであり、ベルを見る目もどこか虚ろだ。ベルをベルとして襲ってきたというよりも、人の気配がしたから襲ってきたという風な印象が強かった。

 狼が怪我をしている上に、慣れた森の中ということもあって、ベルの足でも狼から逃げることができていた。狼と対面して、即座に走り出してから、追いかけてくる狼の足音は聞こえているが、ベルに近づいてくる気配はない。


 森の外まで逃げ切ることができれば、狼は一匹しかいないので、そこに狩人がいなくても対応できるはずだ。そこまで行ければ何とかベルは助かる。


 不意に気になったのは、籠の中に入ったビンだった。その中にはヒノデソウが入っており、このように走っていたら、また前回と同じように枯れてしまうかもしれない。

 しかし、今回は前回と話が違っており、ヒノデソウを気にして走ることをやめたら、ベルは狼に襲われて次回がなくなる。枯れてしまっても、生きていたら、また採取しに来られるのだから、今回は生きることに全力を尽くそう。


 そんなことを考えながら走っていたところで、ベルは自分に迫ってきていたはずの足音が途絶えていることに気がついた。あれだけ苦しそうな呼吸をしていたのだから、もしかしたら、傷が原因で動けなくなったのかもしれない。戻って確認するような勇気はないが、確認しなければいけないことでもない。一度、村に戻ってから、森に狼が出たことを報告して、それから、その狼が倒れているかを確認してもらったらいいだけだ。

 それなら、ベルはすぐに森を出よう。ベルは再び走り出そうとする。


 その足が止まったのは、ほんの少し前まで聞いていた足音が聞こえてきたからだ。それも、さっきまで聞こえていた足音よりも、遥かに軽快に聞こえてくる。


 これは何、とベルが思った直後、草むらから狼が飛び出してきた。ベルを狙ってきたわけではなく、ただ走っている最中だったみたいだが、ベルの姿に気づくと、ベルに牙を向けてくる。

 何より、その狼はかなり元気なように見えた。呼吸も正常であり、足取りもかなり軽い。それに毛の生え方や表情も違うように見える。


 間違いない。この狼はさっきの狼とは別の狼だ。


 ベルが気づいた瞬間、狼が飛びかかっていた。ベルは咄嗟に避けるが、狼の動きはさっきまでの狼よりも遥かに素早く、すぐに避けたベルを追いかけるように走ってくる。


 再び、ベルに飛びかかろうとし、狼が強く踏み込む様子に気づいたベルは、咄嗟に持っていた籠を大きく振るう。踏み込んできた狼に籠はぶつかり、狼を払い除けることに成功するが、籠の中に入っているのはヒノデソウが入ったビンくらいだ。重さが圧倒的に足りない上に、ベルの力で振るったこともあり、狼にダメージが入った様子はなかった。

 飛ばされた先で体勢を整えた狼が再び牙を向いてくる。その姿を真面に見られる時間もないまま、ベルはただひたすらに走り出す。


 しかし、いくら慣れている森の中とはいえ、既にかなりの時間を狼から逃げるために使ってきたベルの足はもう限界が近かった。走るために動かしている足も、いつ絡まるか分からないほどに動きが覚束ない。


 そう思っていたら、不意にベルの体勢が大きく崩れた。ベル自身で何が起きたか分からないまま、ベルは地面に投げ出される。身体は地面に強く打ちつけられ、擦れた腕や膝からは血が出ている。何より、足を変に曲げてしまったのか、足首が痛くて立ち上がることが難しそうだった。骨が折れているかどうかは分からないが、少なくとも、狼から逃げる手段はなくなった。


 ふと目を向けると、ベルが転んだ辺りで、とても小さな木の根が飛び出していた。普段は気にならないくらいに少しだけなのだが、今は疲労が溜まっていたこともあり、その程度の木の根に躓いてしまったようだ。


 ベルは痛む足首を押さえながら、自分に向かって走ってくる狼に目を向ける。牙を向き、自分に襲いかかろうとしている狼の姿は、テオとは比べ物にならないくらいに怖く、ベルは声も上げられずに顔を引き攣らせながら、ただ静かに泣いていた。


 死にたくない。死にたくない。まだ死にたくない。頭の中で何度も同じ言葉を呟いている間に、狼はベルの前までやってきて、ベルに飛びかかってくる。その姿を最後にベルは身を屈めながら、目を瞑っていた。それは恐怖から逃れるために、ベルが唯一できることだった。


 その直後に何が起きたのか、ベルは見ていなかった。ベルの中では音でしか認識できなかった空間の中で、狼はベルに届くことなく倒れていた。


 その理由は森の木々の間をすり抜け、狼に飛んできた一本の矢だ。その矢が綺麗に狼の頭に刺さり、狼はベルに届く前に横に吹き飛ばされ、そこで息絶えていた。


 そのことにも気づけずに、ただただ頭を下げているベルの耳に足音が届く。それはさっきまでの狼の足音とは違い、もっと日常的に聞き慣れている足音だ。


 走っている人の足音。そう思った直後、ベルは聞いたことのある声を聞いていた。


「大丈夫!?」


 その声に目を開けると、そこにはベルに駆け寄るテオの姿があった。額に汗を掻いたテオが心底不安そうな顔で、ベルに大丈夫かと聞いてきている。そのことを理解するまで、ベルは時間がかかっていた。

 やがて、ゆっくりと、ほんの小さくうなずいたことで、テオの表情が一気に緩み、その場に座り込んでいる。


「よ、良かったぁ…」


 そう呟く姿と、その瞬間の崩れ落ちるような笑みを見て、ベルは不思議なことに恐怖を覚えていなかった。


 代わりに思い出していたのが、初めて逢った日のことだ。ビカクシダを仕留めたテオがベルに笑顔を向けてきたあの時のことを思い出し、ベルはどうしてあの時にテオが笑ったのか、ようやくその理由を理解していた。


「立てる?」


 テオにそう聞かれて、ベルは立ち上がろうとしていた。その時になって、足首を痛めていたことを思い出す。


「痛っ!?」

「えっ!?大丈夫!?」

「ちょっと足首を捻ってしまって…」

「なら、歩くのは難しそうだね」


 そう言いながら、テオがベルの持っていた籠を手に持ち、ベルの前で屈んでいた。


「負ぶっていくから乗って」

「えっ…!?いや、でも…!?」

「いいから。怪我したのなら、早く見せた方がいいよ」


 ベルは戸惑いながらも、テオの背中に乗りかかると、テオは軽々とベルを背負って立ち上がっていた。そのまま、ベルに気を遣ったような、ゆっくりとした速度で、森の中を歩き始める。


「あの…」

「ん?何?」

「ありがとうございます…」

「いやいや、無事で良かったよ」

「それと…」

「それと?」


 ごめんなさい。ベルはそう謝ろうとしていたのだが、その言葉はうまく出てくれなかった。そのことにテオは不思議そうな顔をしていたが、しばらく経つと、気にすることなく歩いていく。

 その間、無言の時間が続いていたが、その無言の時間がベルにいろいろなことを考えさせていた。



   ☆   ★   ☆   ★



 森に狼が出たという一報を聞いたらしく、森を出たところにはルナが待っていた。それ以外にも草原から戻ってきたらしい数人の狩人がいて、その中にはアルの姿もある。


 森の中からベルを背負ったテオが出てくると、ルナを始めとするそこで待っていた人達は驚きと同時に安堵した表情をしていた。どうやら、ベルが森の中に入ったこともあって、心配してくれていたらしい。


「連れてきたよ」


 ルナの前までベルを連れてきたテオがルナの隣にベルを座らせている。


「足を捻ったみたいだから、このままお医者さんのところに連れていってあげて。そのための人は貸すから」


 そう言うなり、テオは近くにいた狩人の一人にベルを診療所まで運ぶ手伝いをお願いしている。


「テオさんは?」

「俺はちょっと狼のことがあるから、その場所を他のみんなに教えないと。それから、様子を見に行くよ」

「そうなんですね。分かりました」


 テオはルナとそう話してから、アル達と一緒に再び森の中に入っていく。その姿を見送ってから、ルナがほっとしたようにベルに話しかけていた。


「良かったよ。ベルが無事で。草原の狼の数が予想よりも多くて、森に逃げ込んだって聞いた時は倒れそうになるくらいに不安だったよ…」


 ほっとしたように話すルナだったが、その様子を見ることも、その言葉に返事をすることも、ベルにはできていなかった。ベルが反応しないことにルナが驚き、不安そうに声をかけてくる。


「ベル…?大丈夫…?」

「……んない…」

「え?」

「分かんない…」


 そう答えるベルは信じられないくらいに速くなっている鼓動を押さえるように、胸に手を当てていた。顔はさっきからずっと熱くて、火を押し当てられているようだ。


「ベル…?どうしたの…?」

「何でもない…きっと大丈夫…」


 ベルの表情が見えないルナは、ベルがどういう状況なのか分からないため、そう聞いていたが、ベルはルナに今の自分の表情を見せたくない気持ちが強かった。


 分からない。そう言った通り、自分の気持ちが分からなくなっている今の自分を誰かに見せることは恥ずかしかった。

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