最終日(3)
大通りの騒がしさからは想像もできないことだが、そこから一歩入った路地は驚くほどに静かだった。基本的にボールを投げる場所は大通りに限定されているので、流れ弾でもない限りは路地にボールが飛んでくることはない上に、路地に逃げ込むくらいなら最初から参加していない人が大半だ。不意にボールが飛んでくる可能性があるくらいなら、参加していない人は路地に出ることもないので、そこは普段からも考えられないほどに静かになっていることが多かった。
それこそ、昨日に人払いの魔術を使った時のようだと、そこで一人立っていたソフィアは思った。ともすれば、とても寂しく思える光景だが、この時のソフィアからすると好都合にも程があるというものだ。
掌の上に小さな水晶玉のような透明な球体を取り出す。見た目は本当に水晶玉のようだが、実際は水晶玉よりも遥かに軽い特殊な鉱石で作られており、その中には術式が組み込まれている。それは魔術師の間では広く知られている主に通信用に使う魔術を発動させる術式だ。
「聞こえる?」
ソフィアが球体に話しかける。傍から見ると、一人で寂しくなった少女が寂しさを紛らわせようとしているようだが、これは決してそのような理由で話しかけているわけではない。実際、数秒の沈黙の後に、ソフィアの声に答えるように球体から声がした。
「ああ、問題ない」
その声はとても低く、鈍器のように鈍かった。明るさの一切ない声で、じんわりと液体のように体内に入ってくる。
その声を最初に聞いた時、ソフィアはどこか気持ち悪く感じた。踏み込まれたくない部分にまで、勝手に踏み込んでくる不躾さがその声にはあった。その印象が変わっていったのは、その声を出している本人が不思議なほどに寂しそうだったからだ。きっとその人はちゃんと自分の居場所が見えてないのだとソフィアが気づいた時、その姿に自分の姿が重なり、ソフィアはその声が自分の中に踏み込んでくる理由が分かった。それ以来、その声がとても心地好いものに感じている。
「そっちはどうだ?」
「大丈夫。いつでも行けるわ」
「そうか。タイミングは任せる。好きにしろ」
「分かったわ」
ソフィアが答えると、球体は静かになった。声が遠退いた感覚にソフィアは寂しさを覚える。この国に来てからまだ日は浅いが、この国に来てからできた居場所の方が元の国にあった家族よりも身近なものに感じるようになっていた。この居場所が心地好く、できれば壊したくないという気持ちもある。
しかし、実際のところはそれもいつまで続くか分からない。ソフィアがどれだけ望んでも、変えられないものがあることをソフィアは知っている。だからこそ、この国に来たのだから。その変えられないものによって、ソフィアがこの居場所を離れないといけなくなる日は来るかもしれない。
それまで、この居場所を守りたい。その気持ちでソフィアは深呼吸を繰り返し、覚悟を決めてから、準備していたいくつかの紙を取り出した。そこには術式が描かれていて、それら一つ一つが街中に仕込んだものに繋がっている。そこに魔力を込めれば、全てが始まる。
もう一度だけ、ソフィアは深呼吸をした。覚悟は決めているが、それでも踏み込むために準備がいる。その準備が本当に整ったのか、その判断はソフィアのことであるのにソフィアでも分からない。
まだ身体は強張っていたが、時間をかければ問題ないというわけでもない。その前に気づかれる可能性もあるので、できれば時間はかけない方がいいくらいだ。そのことをソフィアは分かっていたので、覚悟を決めたことにして、取り出した紙に手を置いた。それから、魔力を込めていく。
これで全てが始まり、大通りの方で騒ぎが起きる―――はずだった。
しかし、不思議なことに大通りの方から聞こえてくる声に変化はなかった。どれだけ待っても、カラーボールを投げ合う声しか聞こえてこない。ソフィアはそのことに困惑し、大通りの方に目を向けてから、もう一度紙に手を置いた。もしかしたら、魔力が足りないのかもしれないと思ったのだ。
もう一度、魔力を送っていく。その途中にソフィアはようやく違和感に気づいた。
(魔力が送れない…!?どうして…!?)
「淡いピンクのドレス」
ソフィアの動揺に燃料を注ぐように、その声が聞こえてきた。ソフィアが反射的に顔を上げると、大通りから一人の男が近づいてきていた。不敵に笑ってソフィアを見下ろしてくる姿に、ソフィアは焦りと共に恐怖を感じていた。
「フーの店で聞いた通りの格好だ。ちゃんと合っていて良かったよ。ライト君に後でお礼を言わないと」
「エルシャダイ…」
「名前を知ってくれているなんて光栄だな」
想定外の出来事に自分のことを探していた様子の国家魔術師の登場が重なり、ソフィアの動揺は隠し切れない汗として額から流れ落ちていた。
☆ ★ ☆ ★
少女の表情は説明を求めていた。状況をうまく整理できないに違いない。それは目の前に並べた紙の上にいつまでも手を置いていることからも分かった。魔力を送ろうとして、うまく送れないことに気づいたところだろう。それを指摘するためにエルは指を向けた。
「それ、無意味だよ。頑張っても、ゴーレムは生まれないから」
元からパッチリとした大きな瞳が更に大きく開かれていた。驚きを絵に描いたような表情に、エルは少しばかりの罪悪感を覚えてしまう。相手のしていることを考えると、そのようなことは思わないでもいいはずなのに。
「君が街中にばら撒いていた魔物の素なら、一昨日の間に回収しておいたよ。中の術式もその日の間に無効化しておいたから。まあ、昨日のゴーレムには驚いたけどね。完全に全部回収したつもりだったから、竜の模型にも仕掛けていたなんて思いもしなかったし」
エルの説明を聞く少女の表情には驚きと絶望が滲んでいた。少女が何を思ってゴーレムを街中にばら撒こうとしていたのか分からないが、それと関わっていそうな話なら、エルも一つだけ知っている。エルはその関連性を調べようと思っていた。
「さて、聞きたいことはいろいろとあるのだけれど、取り敢えず聞いておこうか。君の狙いはアスマ殿下?」
エルの問いに少女の表情は変化しなかった。昨日の一件でエル達がそのことを把握していることは分かっているはずなので、反応がないということはその質問を想定していたということだ。直前の表情からも考えが表情に出やすいタイプと分かっているので、そこに間違いはないだろう。
そうなると、もう一つの方にも答えが出るかもしれない。エルはそこに期待していた。
「もしかして、君が例の別の世界から来た人?」
その問いに少女の眉が動いた。エルを見る目が怪訝なものに変わり、エルの言葉の真意を測ろうとしているようだ。
そこから、エルは少女がアスマを狙っている別の世界の人間ではないと思った。底から湧いてくるような表情は誤魔化せるものではないはずだ。
「そう。ありがとう」
「余裕ね…」
気に食わないと少女の表情が語っていた。上品に振る舞おうとしているが、本質的な気の強さは隠せていないように見える。少なくとも、今の表情はベルに通じるところがある。
「別に余裕なわけじゃないよ。ただ話を聞く必要があるから聞いているだけだよ。君じゃないなら、何で君がアスマ殿下を狙っているのか話してくれるかな?」
「話すと思うの…?」
少女の手が並べられた紙の上から離れていく。その動きを警戒しながら、エルは攻撃に対する防御を備えていた。少女がどのような魔術を使うのか具体的に分かっていないが、エルの術式展開速度なら攻撃を受け止めることくらいは容易である。それは事実だったが、そのたった今否定したばかりのはずの余裕がエルの油断を招いていることに、エルはまだ気づいていなかった。
「嫌よ!!」
少女の身体が大きく動き出したことに反応して、エルは術式を作り出そうとした。少女と自分の間に防壁を作り出すために、三つの術式を重ねようとした。
しかし、その動きは二つ目の術式で止まることになった。動き出した少女は紙に重ねていた手をエルに向かって振るってきていた。それは術式を作るような魔術師の行動ではなく、もっと直接的にエルを攻撃するようであるが、その真意はそこではなかった。
エルの角度からは少女と並べられた紙を良く見ることができなかったために、そこで少女が何をしていたのかエルは気づかなかったのだ。エルの前に振るわれた少女の指の先から、赤い液体が小さく飛んでいた。
それは本当に少量だったが、その少量がエルにとっては猛毒そのものだった。エルが三つ目の術式を重ねるより前に、エルの視界の中を赤い液体が飛んでいく。
その様子にエルの術式を作り出す手は止まり、エルの視界は暗くなっていた。
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