6球目 野球は”試合”だ!

 未来の言葉に、校長室が一瞬静まり返った。

 

 西郷は啖呵を切る未来の横で、ただ呆然と突っ立っているしかなかった。それは校長も同じだった。まさか一生徒に、自分が反論されるとは思ってもいなかった様子だった。


「ンな、な……!?」

 やがて落ち着きを取り戻した校長が、突如その顔を真っ赤にして怒鳴った。

「その口の聞き方はなんだ!! 無礼な!!」


 校長が拳で机を叩き、椅子から立ち上がった。青筋を浮かべ、鬼のような形相になった校長を見て、西郷は思わず後ずさりした。だが未来は怯むことなく、相変わらず淡々とした表情で告げた。

「貴方は『教育者』なのか、それとも『経営者』なのか」

「君に教育の何が分かる! 私は『教育者』だ、生意気な!!」

 校長が吐き捨てた。


「いいかね、私はただ『体裁』だけを気にしているのではない!」

「だったら私たち生徒の意見も聞いてください」

「何が意見だ! 私はねぇ、校長という立場から、君たちより高く広い視野から物事を見ておるのだよ! 君たちのように、『ただ自分たちが甲子園に出たいから』とか、そんな短絡的で自己中心的な……」

「短絡的で構いません。私たちはこれから何十年も、ずっとこの高校に通うわけではありませんから。高校球児が『甲子園に出たい』と、それが我がままだと仰るのなら……」

「黙り給え!」


 そこで校長は、流石に怒鳴るのは大人気ないと思ったのか、一旦椅子に腰掛け深呼吸を繰り返した。それでもその肩は怒りに震え、白い眉はピクピクと蠢いていた。


「……草野球じゃダメなのかね? 草野球は、野球ではないとでも!?」

「別にそうは言っていません。ただ草野球と硬式野球では、そもそも使っている道具ボールからして違う。パンとケーキ……自転車と原付くらい違う。私たちは、高校生です。すでに義務教育を終え、自分たちの道を自分たちで選ぶ権利と責任があります」

「権利と責任とは、また大きく出たな。だが物事には、段階というものがある」


 校長の鼻息はまだ荒かったが、それでもようやく落ち着きを取り戻しつつあった。それから鋭い眼光を未来に向けた。西郷は、もし自分が今一人なら、とっくに踵を返して逃げ出しているところだと思った。校長が静かに、だが力強く告げた。


「いきなり原付応用ではなく、まず自転車基礎漕ぎ方基礎から学ぶべきではないかね? 野球のルールすら知らない、いきなり初心者に硬式をやらせて、それで大怪我でもしたら責任は取れるのか? まずは簡単なものから順を追ってやっていくべきだろう」

「仰る通りです。ですがここにいる西郷くんは……」

 いきなり自分の名前が出て、西郷はビクッと体を跳ねさせた。校長が鷹のような目つきで西郷を睨めつけた。


「中学時代、硬式野球の経験者です、校長。スカウトも注目していたほどの選手で……全くの初心者という訳ではありません」

「何?」

 校長が眉を吊り上げた。

 何故そんな生徒が、野球部もないウチの高校に入学したんだ、と言う顔つきだった。そんなことは西郷にすら上手く説明できなかった。もしあの日試合に負けていなかったら……もしあの時、隣にいる未来に出会わなかったら……そんな偶然が積み重なって、今の自分はここにいるに過ぎない。未来が西郷を指差した。


「この西郷くんが、責任を持って生徒たちを立派な選手に育て上げます」

「えっ!?」

 これには西郷が一番驚いた。


「私たちが目指しているのは、甲子園優勝です。西郷くんには、その『力』があると信じています」

「い、いや……あの」

「そうなのかね……」


 校長は「ほう」と息をつき、西郷を品定めするように白い顎髭を撫でた。


 校長の中で、これはもしや、上手く行けば仁馬山高校の名声を上げるチャンスになるかもしれない……と言う打算が働いたのだった。リスクが高いと言うことは、裏を返せばリターンも大きい。仮に甲子園に届かなくとも、そこは名門校や強豪校がひしめく神奈川地区だ。一度でも番狂わせジャイアント・キリングを起こせば、たちまち全国の高校野球ファンから注目度は跳ね上がるだろう。


 校長の顔色が微かに変化したのを目敏く見抜いた未来が、落ち着きを払った声で言った。


「貴方が『教育者』だと仰るのなら……私たちにチャンスを下さいませんか」

「…………」

 静寂が訪れた部屋の中で、革張りの椅子が軋みを上げた。校長は、しばらく逡巡してから、やがてゆっくりと口を開き、

「……よかろう。君たちがそこまで言うのなら」

「ちょ、ちょっと待ってください! 俺、育てるとかそんな……!」

「ただし、条件がある」

 と厳かに言った。



「なんでしょう?」

「聞けよ!」


 西郷の声は無視された。校長と未来が対峙し合った。


「吠えるだけなら犬でも出来る。結果だ。結果を残せば認めてやろう」

「なるほど。具体的には?」

「試合をしてもらう。他校と、そうだな……一ヶ月後だ。一ヶ月後、『縦浜高校』と……」

「縦浜ァ!?」


 西郷が目を引ん剝いた。縦浜高校と言えば、実に甲子園優勝7回を誇る、全国でもトップクラスの強豪校だ。無謀という言葉では足りない。素人同然の自分たちと対戦するなど、それこそ自転車でフェラーリと対戦するようなものだった。校長が底意地の悪い目つきで西郷を覗き込んだ。


「……どうしたのかね? 甲子園で、優勝するんだろう? だったらいずれは、倒さなければならない相手なんじゃないのかね?」

「だけどッ、いくらなんでも、物事には順序ってものがあるでしょうッ!?」

 西郷が先ほどの校長と同じようなことを言った。だから無視された。


「『縦浜高校』に勝ったら、野球部を正式に発足させてやろう。もし負けたら、少なくとも三年間は、野球部の『や』の字も出て来ないと考え給え!」

「いいでしょう」

「よくねえだろ! オイ!」


 未来は静かにほほ笑み、それから踵を返して校長室を出て行った。西郷はオロオロとその場で狼狽うろたえていたが、やがて逃げるように彼女の後を追った。一人部屋に取り残された校長は、ほくそ笑んだ。


 やれやれ。生意気な生徒がいたもんだ。だがこれで彼らも、身の程を知るだろう。万が一奇跡が起こったとしても……そんなことはまず有り得ないだろうが……その時は、別に構わない。良い宣伝になる。


 遠くの方でチャイムが鳴った。校長はおもむろに立ち上がり、窓の外に広がるグラウンドを見た。晴れ渡る空の下で、野球部以外の部活動生が、元気に汗を流していた。校長は嗤った。この勝負、どちらに転んでも、自分の不利益になるようなことは無い。


□□□


「あのなぁ……!」


 校長室を出て、西郷は未来の肩を掴んだ。薄暗い廊下に、窓から橙色の西日が差し込んで、二人の影を斜めに伸ばした。未来は、相変わらず涼しげな顔で振り返った。


「何?」

「いくら何でも……」

 西郷は半ば呆れ気味に言った。

「あそこまで喧嘩腰にならなくても良かっただろ。仮にも校長だぞ、校長! そりゃ、ま、ちょっとムカつくヤローだったからよ。スカッとはしたけどさ……下手したら」

「だけど、あそこは多少のリスクを負ってでも、部活動を承認させなきゃならなかった。ベースに足が付いたままじゃ、盗塁スチールはできないでしょう?」


 未来は眩しそうに目を細めた。こんな時まで野球の例えだ。西郷は苦笑いしか出て来なかった。


「よくもまぁ、大人相手にあんだけ言葉が出てくるな……」

「そう?」

「いやすげえよ。あんなもん、俺の頭じゃ思いつかねえ」

「あれはね。『二択』で迫られると、どっちかを選ばなきゃいけない気になるでしょう?」

「何?」

 西郷は眉をひそめた。

「『教育者』か『経営者』か。○か×か、白か黒か。だけど現実の世界は、何も二択白と黒だけで出来ている訳じゃ無い」


 そこでようやく未来は、ほんの少し表情を和らげた。


「見渡せば青も赤も黄色も、何色だってある。テストと違って、本当は選択肢はたくさんある。なのにあえて『二択』で迫って、二つの選択肢しか考えさせない。他の選択肢を意図的に見え辛くする。『目眩し』よ。『誤った二分法』って言う、一種の詭弁なの」

「ンな……!」


 未来はそう言って、ぺろっと舌を出した。西郷は、しばらく声を出せなかった。何だか良く分からないが、校長相手に、誘導尋問していたと言うのだ。そうして彼女は、部活が立ち消えになるところから試合にまで持って行った。ようやくして西郷は、彼女を敵に回すのはやめよう、と思った。


「だけど……」

 西郷は肝心なことを思い出した。縦浜だ。

「いきなり試合って……! しかも縦浜だぞ!? 明らかに無茶な条件出されちゃったじゃねーかよ! 勝てんのか!?」

「あら。それはこっちのセリフよ」

 未来が低い声で、例の冷たい視線を西郷に向けた。

「貴方こそ、本気で勝つ気あるの?」

「……!」

「常勝校と練習試合なんて、滅多に組んでもらえないわよ。あの校長にどんなコネがあるか知らないけど……貴方の『パワーカーブ』がどこまで通じるか、良いチャンスじゃない。ここで怖気付いてちゃ、どっちみち先はないわ」


 それだけ言うと、未来は踵を返して、下校する生徒たちの群れの中に混じって行った。西郷は今度こそ言葉を失った。泣いても笑っても、一ヶ月後には運命の試合だ。そしてその一ヶ月後は、思いの外早くやってきた。

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