3球目 野球は”助っ人”だ!

 太陽はまだ昇っていなかった。

 夜と朝の境界線、この時間帯にランニングするのが、西郷にしさとの日課だった。紺色のジャージに着替え、お気に入りの音楽を流しながら外へと繰り出す。電信柱の灯が、うす薄い闇の中、白く浮かんで輝いていた。

「ウッシ」

 気合を入れて、一歩足を踏み出すと、ひんやりと張り詰めた空気が彼の顔を撫でていく。車の通りもまばらな細道、すれ違うお爺さんと犬、そよそよと揺れる脇の雑木林。西郷はいつも通り、近所の公園にある貯水池の周りをぐるりと一周した。


 遠くで遮断機の音が鳴る。息が上がった。

 ようやく空が白み始めてきた頃、西郷は向こうからやってくる人影に気がついた。登校時間にはまだちょっと早い。赤いに乗ってやってきたのは、見知った顔、東明未来だった。


「おはよう、西郷くん」

 未来は、ベンチに座り込んでいた西郷の前で自転車チャリを止めると、ニコリともせずにそう呟いた。西郷は黙って汗を拭った。綺麗に整えられた眉と前髪が、まるで日本人形を思わせた。


「……こっからチャリで通ってんの?」

「まさか。バスに乗り換えるに決まってるじゃない」


 未来がフッと笑った。しばらく息を整えた後、西郷はようやくそんな言葉を絞り出した。

 家は、近所なのだろうか。思えば西郷は、今まで未来のことを何も知らなかった。本人も積極的に喋ろうとはしない。例えばあの大量のグローブは、一体どこから調達したのだろうか。彼女も初対面の頃から比べると、表情は豊かになり、口調も大分砕けたように感じるが、まだまだ謎は多かった。


「どうしてここが……」

「西郷退盛くん」

「……へ?」

「11月29日生まれ。射手座のO型。髪は短め、利き腕は右。視力は右が0.7で左が0.8……」

「な……!?」

 突然の言葉に、西郷はギョッとなった。未来は目を閉じ、訥々と語り始めた。


「決め球はパワーカーブ。他に球種はフォークと、後シュートもあるけどこれは制球難で実戦ではほとんど使ってない。直球ストレートの平均球速は130キロ前後、同じく空振り率は6%越えで割と高い方なんだけど、全体からして直球ストレートの投球割合は40%そこそこ……」

「待ってそれ、俺の話!?」

「ま、ざっくり言うと『変化球カーブに頼りすぎ』って感じね。今はスライダーとか、チェンジアップが人気だから、使い手が減ってるカーブが決め球なのは確かに武器にはなるかもだけど……」

「い、一体いつ調べたんだよ!?」

「だけどカーブは変化が大きければ大きいほど、ストライクが取りづらい。審判も中々手が挙げ辛いの。それにこないだも言ったけど、直球とは別系統の球だから投げる時にクセが出易い。遅い球は盗塁もされやすい……」

「つーかそんなデータ、どっから……!?」

 未来は、東から昇ってくる朝日に目を細め、揶揄からかうようにクスリと笑みを浮かべた。


「悪いけど、丸裸なのよ。西郷くんは」

「……!」


 それだけ言うと、未来はペダルを踏み込み、黄金色に輝き始めた街の中へと行ってしまった。後に残された西郷は、しばらくポカンと彼女の後ろ姿を見つめ、それから念のため自分の身体をジロジロと見下ろした。服は着ていた。 


□□□


「仁馬山高校・部活動の申請条件は主に二つ。①顧問の先生をつけることと、②部に所属する生徒を五名以上見つけてくること」

「五名って、少なくね?」

「もちろん、野球をするには全然足りないわ」


 放課後、西郷と未来は生徒でごった返す廊下を歩きながら、そんな雑談をしていた。前を歩くのが未来で、その後ろが西郷だ。二人が目指しているのは、職員室だった。これから部活動立ち上げに当たって申請書を記入し、承認のため校長の印鑑が要るのだった。


「最初はレンタルでもいいと思うの」

「レンタル??」

「そう。サッカー部とか、バレー部は既にある訳じゃない? その人たちを、野球の試合の時だけ借りて……」

「あぁ……」


 西郷は納得した。

 人数が足りない時、他の部活生から助っ人に来てもらうのは、中学でもたまにあった。未来は、スマホにダウンロードした陣馬山高の『生徒会規則』を睨みながら、ゆっくりと頷いた。


「それに、最初は部活動じゃなくても、同好会サークルでも良いと思う」

同好会サークルだって?」

「ええ。同好会なら、立ち上げのハードルも低い。①『顧問の先生』もいらない。②生徒の数も二名以上から……これなら今の状態だってできるわ。もっとも、活動時間は土日禁止、週二回以内に限られてしまうけど」

「それじゃ意味ない」


 西郷は少し不機嫌そうに鼻を鳴らした。他の強豪校たちが毎日練習に明け暮れているのに、週二回では全く話にならない。未来は肩をすくめた。


「でも、とりあえず『看板』を作らなきゃ。受け皿がないことには人の集めようがないわ。最悪『マカロニグラタン同好会』でも、なんでもいいからとりあえず作って、レクリエーションの一環として週に二回公園でキャッチボールをするとか……」

「なんだよ『マカロニグラタン同好会』って」


 西郷は呆れた顔で未来を横目みた。口調が真剣そのものだから、冗談なのかどうか良く分からない。凛と澄ました顔立ちをしているが、この女、存外抜けているところがあるんじゃないか……などと思っていると、前方から大きな影が西郷に向かってやって来た。


「よーぉ!」

「ゲ」

 と、思わず呻き声を上げてしまったのは、西郷の方である。

 やって来たのは、天井に頭が届きそうな大男と、ヒョロッとした体型の色白少年の二人組だった。


「誰? 友達?」

「あぁ〜……まぁ、うん……」

 眉をひそめる未来に、西郷は隣で喉から曖昧な音を出した。


「久しぶりだな! 退盛!」


 二人組の大きい方が、豪快に笑って白い歯を浮かべた。


 向かって右の大男の方が、北方和泉きたかたいずみ

 左の小柄なのが、河南蔵之助かわなみくらのすけである。

 

 二人とも、子供の頃西郷と同じアパートに住んでいた、幼馴染だった。もっとも年齢的には、二人の方が一個先輩である。二人とも先輩風は吹かせなかったし、引っ越す前までは、良く三人でアパート前の駐車場で遊んでいたものだった。


「まさかお前が仁馬山コッチに来るなんてなぁ!」

「あぁ……うん」


 髪を真っ赤に染めた北方が、周囲も気にせず、廊下の端まで聞こえるほどの大声で笑った。西郷は頬をヒクつかせ、なんだか急に懐かしい気分に襲われた。そう、卒業以来しばらく会っていなかったが、北方はだった。豪快で、ほとんど周りの目も気にせず、常に自分が宇宙の中心だとでも言わんばかりの態度で……ここだけの話、西郷のマウンドでの立ち振る舞いは、この北方の性格を少なからず参考にしていた。


「……元気?」

「どうにか……」


 今度は左の色白少年がボソリとそう呟いたので、西郷は向き直り、苦笑いを浮かべて頷いた。河南の方は相変わらず線が細い。それから、女子用のセーラー服にスカートを身につけていた。もちろん中身はれっきとした男である。河南には昔から女装趣味があって、常にスカートを履いていないと気が済まない気質だったから、新設校らしく『ジェンダーフリー』とやらを推し進めているこの仁馬山高校に入学したのだろう。


「良かった……」

 河南は、肩まで伸ばした濃紺ネイビーの髪にくるくると細い指を絡めながら、西郷に柔らかい笑みを浮かべた。


 正直、西郷はこの二人が苦手だった。


 別に個人個人では、悪い人間だとは思わないが、その見た目ルックス性格キャラのせいで、二人と一緒にいるとまぁ良くトラブルに巻き込まれてしまうのである。他校生と喧嘩になったり、先生に目をつけられたり、いじめの標的ターゲットになったり……北方に至っては、嬉々としてトラブルの中に自ら突っ込んでいくし、河南は河南で、自覚があるのかないのか、そのぼんやりとした鈍感さでいつも周囲の反感を買っていた。


 しかし類は友を呼ぶとは良く言ったもので、西郷西郷で、決して人様に胸を張れるような性格はしていなかったのだが。


「まぁこれも何かの縁だ! これからまた仲良くしようや。なぁ兄弟ブラザー!」

「オイ、行こう」


 北方が再び声を張り上げた。何事かと周りの目が集まって来たところで、西郷は未来を促して足早に職員室へと向かった。


「オーイ! ところでお前ら、部活は何に入るつもりだ? 俺たちゃ今、二人で『マカロニグラタン同好会』って言うのやってんだけど……」

「もうあったんかい!」


 西郷は、まだ向こうで声を張り上げている北方に心の中で突っ込み、逃げるように廊下の角を曲がった。


「あの二人、良さそうじゃない?」

「何が?」

 しばらくして、三人のやり取りを聞いていた未来が、西郷の後ろでクスクスと笑い出した。西郷は少し不機嫌そうに唸った。


「部員によ。特にあの大きい人……投手やらせたら面白そう」

「面白いだけで済めばいいがな……」


 西郷は暗い顔でため息をついた。あの二人に関わると、みたいに、トラブルの方が湯水のように湧き上がって来るのである。因みに小学生の時、柔道部だった北方が助っ人で投手をやった時には、毎打席全員に死球デッドボールを当て大乱闘スマブラになった。だが未来の方は、すでにその気になっているようだった。

 

 それから二人は職員室で担任の嵯峨峰先生から『部活申請書』を受け取った。あと三人。仮にあの先輩トラブルメーカー達を頭数に入れるにしても、少なくともあと一人揃えれば、いよいよ念願の『野球部』が発足することになる。何だか一歩前進した気がして、西郷の胸は自然と高まった。



 その時はまだ西郷も、それから未来も、まさかあんな障壁トラブルが目の前に立ち塞がるとは、露程にも思っていなかった。

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