夏が去って行く

Re:over

夏が去って行く


 少女の泣いている声が脳裏に浮かぶ。それが引き金となって約束を思い出した。


 もう九月。今日が夏かどうかも怪しいところだ。


 俺は急いで会社を抜け出して駅へ向かった。乗り継ぎを何度か繰り返して目的地に着いた。駅から出ると、街灯に照らされた、のどかな街並みと懐かしい風景が広がる。


 海水を口に含んだ感覚を与える潮風の匂いが、なんだか心地良い。波の音をBGMにして砂浜に転がれば、快適な睡眠が取れるだろう。


 そうだ、こんなことを考えている場合ではない。早く彼女の元へ行かなければ。


 浜辺へ出ると、全力疾走したが故に出た汗をハンカチで拭い、辺りを見渡した。すると、一人悲しげに海を眺める少女がいた。


「はぁ、はぁ……。『夏』、久しぶりだね」


 息を整え、彼女の名を呼ぶ。『夏』は拗ねた表情をこちらに向けたかと思うと、すぐにそっぽを向いた。彼女は頬と鼻を赤らめ、目には涙を浮かべていた。


 俺は小学二年生の夏、誰にも見えない『夏』という少女と知り合った。彼女はその名の通り夏だ。彼女がここにやって来ることで夏が始まり、どこかへ去って行くことで夏が終わる。


 そんな奇妙な出会いを経て、俺は毎年夏になると、ここへ来て彼女と遊んでいた。なんせ、彼女のことは誰も見えないため、彼女には話相手すらいなくてずっと一人だったのだ。


 もちろん、俺の様子を見た人たちは俺を変な人だと思っただろう。しかし、彼女の孤独を考えればそんなことは痛くも痒くもなかった。


 時は経ち、俺は社会人になろうとしていた。俺は職場の関係でこの土地から離れることになり、彼女にお別れを告げた。その時に俺は、夏になったら一度くらいは会いに来ると約束した。しかし、仕事の忙しさに呑まれ、行くことすらも忘れてしまった。


 そのせいで、彼女は泣いていたのだろう。俺は悪いことをしたなと思い、頭を下げて謝った。


「ごめん。約束したのに、悲しい思いをさせて」


「まぁ、結局来てくれたんだし? 謝る必要はないよ。私はただ、あんたの仕事の忙しさに同情してるのよ。私の仕事なんて、ここにいるだけだから」


「その仕事だって、忙しくなくとも、寂しいじゃないか」


 夏は俺の声に反応して俯いた。そして、声を上げて泣き出した。


「ど、どうしたんだよ、急に」


「うぅっ……別に。もう帰らないといけないのに名残惜しいなんてことはないから! 織姫と彦星みたいに一年に一回しか会えない気持ちなんてわかるわけないから!」


 毎回思うが、彼女は本当に素直じゃない。でも、そんなところも含めて好きだ。


「はいはい。じゃあ、また来年……」


 そう言って、俺は彼女を優しく抱き寄せた。どうしてもっと早くに思い出さなかったのかと自分を恨んだ。


「……うん。また来年」


 彼女の姿が少しずつ光の粒になって、海の向こうへ飛んで行く。


「来年忘れたら、絶対に許さないからね」


「わかってるって。例え雨が降っても会いに来るから。夏、好きだよ」


 そこまで言うと彼女は完全に俺の腕の中から消えた。そして、淡い月の下から2020年の夏が去って行った。

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