「恭弥(きょうや)。狭間(はざま)恭弥くーん? 起きなさい。耳ついてないのかなー?」


 俺を呼ぶ声が聞こえる。だけど今の俺の身体は1分1秒でもいいから睡眠を要求していた。バイトからのパチンコ、オールでの飲みで睡眠不足なのだ。


「起きろっつってんでしょ!」

「いでででで!」


 うたた寝をしていた俺の耳を引っ張り上げ無理やり起こしてきた下手人に非難がましい視線を向ける。


 俺の眠りを妨げた彼女こそ俺の親友にして唯一の女友達である田井中(たいなか)薫(かおる)である。今日も今日とてちょうどよい可愛らしさの見た目に、ショートカットが似合う勝ち気な瞳、絶壁ではないけどあるとは言えない中途半端な胸。うん、どこからどう見ても薫だった。


「その視線はなにさ。せっかく起こしてあげたのに」

「いや、昼休みに人のことを起こす理由がわからない」

「あんたが言ったんでしょ、講義開始10分前になったら起こしてって」


 そうだった。ニコチン中毒の俺は講義の合間合間に一服しないと講義中吸いたくてたまらなくなってしまうからいつも一服タイムをとっている。


 普段であれば昼休みは食堂で食事を済ませたら喫煙室にこもりっぱなしなんだけど、今日は眠たすぎたから流石に睡眠を優先したんだった。


 それにしたって、講義開始前の1本は絶対に吸うけど。だから薫に起こしてくれって頼んでいたんだった。


「ごめんごめん、寝ぼけてたみたいだ」

「しっかりしてよねー。どうせまた飯田(いいだ)と遅くまで飲んでたんでしょ?」

「バレた? 昨日GOD引いてさ、飲み代は俺持ち」

「マジ? あたしも呼んでよー!」


「すっかり忘れてた。しかも結構夜遅かったから出不精のお前は出てこなかっただろ」

「おごりなら絶対行ってましたー」


 そう言って薫は腕組をしてそっぽを向いてしまった。わざとらしい、一目でわかるあたし怒ってますアピールだ。


「すまんすまん、次は呼ぶよ。んじゃ俺は煙草吸ってくるわ。薫はどうする? 先行ってる?」

「んや、あたしも喫煙室ついてくよ。一人で行くのはちょっとね」


 薫を連れ立って外の喫煙室へと向かった。講義開始まで後少しだというのにヤニカス達は揃って三者三様の顔をしながら煙草を吸っていた。


 美味しそうに煙草を吸う者、不味そうな顔しながら吸う者、澄まし顔だけどちょっとむせってる奴、喫煙室は見栄っ張りの見本市だ。


 俺達くらいの年代で煙草を吸っている奴なんて大抵はイキって吸ってるだけだ。煙草吸ってる自分チョイ悪でカッコいいってな具合に。


 大抵に類しない人達、つまり煙草を美味しいと思ってるのは20未満から吸ってた連中だ。数年吸ってると、ニコチンのせいで煙草は美味しいものだと身体が錯覚するようになる。そういう連中は美味そうに煙草を吸う。


 更に中毒が進むと煙草をさして美味いとは思わないんだけど気がついたら吸ってるっていう状況になる。そんな中俺は煙草を美味しいと思うけどやめたい。けどやめられないという後期中毒者に片足突っ込んだ状態だった。


「薫も吸うか?」

「一本貰おっかな」


 ボックスから2本取り出して1本を薫に渡す。口の端に咥えて火をつけて煙を吐き出すと気分が落ち着いた。隣を見ると、薫も不味そうに煙を吐き出していた。


「それにしても、恭弥もスレたよねー」

「なんだよ急に」

「昔はヒーローになるんだってあれだけ騒いでたのに気がついたら煙草吸ってパチンコして、どんどんダメな方に向かっていってる」


「せっかくのリラックスタイムに嫌なことを言い出す女だな」

「だってそうじゃん。高校まではあんなにヒーローヒーロー騒いでたのに。もう諦めちゃったの?」

「…………ふぅ」


 ため息混じりに煙を吐くと、一時的に視界が白く煙った。それが晴れる頃には、俺は軽い自己嫌悪に陥っていた。


 ヒーローになるのを諦めたわけじゃない。ただ、大人になるにつれ現実を知っていっただけだ。


 俺には夢があった。俺は、ヒーローになりたかった。弱きを助け強きをくじく、そんな昔気質なヒーローになりたかった。


 昔の俺は本当になれると思っていた。だけど、大人になるにつれ、社会の厳しさやどうにもならないことをいっぱい経験した結果、いつしか俺の中には一つの諦めの言葉が浮かんでいた。


 ――世の中そんなに甘くない。


 俺の大嫌いな言葉。だけど、どうしようもなくその言葉は、ヒーローになろうとすればするほど重しとなって俺にのしかかってきた。


 わかってた。なんとなく、わかってたんだ。だけど、どうしても俺はヒーローになりたかったから、その言葉を見て見ぬ振りをしていた。


 だけど、いつしかそうも言ってられなくなって、気がつけば俺は大学に入って一人暮らしをしていて、日々をそれなりに過ごす大多数の人と同じような生き方をしていた。煙草もその過程で覚えた。身体に悪いとは思いつつも、なかなかやめられなかった。


 自分がヒーローであろうとすればするほど社会はそれを否定する。だから俺は、いつしかヒーローになるとは口にしなくなっていた。


「諦めたわけじゃないさ。だけど、現実を見るようになったってだけ」

 薫は「ふーん」とつまらさなそうに鼻を鳴らすと大して吸ってない煙草を灰皿に捨てた。灰皿に満たされた水に触れてジュッという音が鳴った。


「お前、好きでもないのに煙草吸うなよ。その内俺みたいにやめれなくなるぞ」

「あたしは恭弥に付き合ってるだけだもん、恭弥がやめたらやめれるもんねー」

「人に責任を押し付けるなっての」

「あたしは恭弥の健康を気遣ってるんだよ」


「前向きに検討して善処しますよっと」

「それ絶対やらないやつじゃん! 行けたら行くと同じレベルだよ!」

「バレた?」

「まったくもう!」


 まあでも、今の生活にこれといって不満があるわけでもない。日々をそれなりに過ごして、それなりの幸せを享受する。大多数の人間がそうやって大人になっていくんだろう。俺もまた、その一人だ。そこに一抹の後悔はあれど不満はない。


「んじゃ、面倒な講義を受けにいきますか」

「今日言語学だよ」

「ゲッ、ヒーローの講義かよ……。あれ毎回誰かタゲられて怒鳴られるからなあ」

 ヒーローこと茂木英雄教授は、毎回理不尽な理由で学生に当たり散らすことで有名な教授だった。カルシウムが足りてないとしか思えない。

「目をつけられてキレられないようにしないとね」

「あーあ、かったりい」

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