第44話

 階段の方から足音が聞こえて、ドアが開いて真昼の母親が姿を見せた。月夜は立ち上がり、彼女に軽く頭を下げる。挨拶は先ほど済ませていたが、もう一度しておいた。


 母親はお茶とお菓子を机に置くと、すぐに去っていった。変わった人間だが、月夜も変わっているから、彼女はその相違に気づかない。それは、真昼も同じかもしれなかった。真昼も、どちらかといえば変わっている。変わっている人間は、他人から指摘されないと、自分が変わっている、ということに気づかない。


 たとえば、鏡を通して自分の顔を初めて見たとき、それが、自分の顔だ、とは認識されない。なぜなら、そこに映っているのは、自分ではない「誰か」の顔だからだ。鏡に映った自分の顔を見て、これは誰か、と他者に尋ねることで、それは貴方だ、という答えが返ってくる。こうして、自分が鏡を覗き込んだとき、そこに映っているのは自分なのだ、と解釈する回路が脳に作られる。つまり、人間は、鏡があっても、自分以外の他者がいなければ、自分を認識できない。したがって、様々な角度から自分を指摘してくれる他者が、人間には不可欠なのだ。


「何を考えているの?」月夜が黙っていると、真昼が尋ねてきた。


「何も、考えて、いない」


「そんなはずはないだろう? 何も考えないなんて、普通はできないよ。生きている間は、必ず何かしら考えている。特に、君はそうだ。君が、頭をまったくはたらかせないなんて、ありえないよ。少なくとも、僕はそう思う」


「そんなに、雄弁に話して、大丈夫?」


「うん……。ちょっと、疲れたかな」


「お茶、飲む?」月夜は机の上に置かれた湯呑みを指差す。


「それ、熱いんだろう?」


「湯気が立っているから、そのはず」


「普通、熱が出ているとき、熱いお茶を持ってくるかなあ」真昼は笑った。「うちの親は、やっぱり、ちょっと、おかしいみたいだね」


「そうかな」


「うん、そうだよ。本当に、酷い」そう言いながらも、真昼は嬉しそうだ。


「君が飲まないなら、私が、頂こうか?」


「うん、どうぞ。頂いちゃってよ。二つあるから、どっちも飲んでいいよ」


 月夜は湯呑みを手に取り、お茶を喉に通す。いたって普通の緑茶だった。茶柱は立っていない。茶柱は、特定の条件を満たせば必ず立つから、それを見つけても、特に幸運とはいえない。そもそも、運というものは存在しない。存在するのは、運を信じたい人間の心だけだ。


「少し、話をしても、いい?」月夜は尋ねた。


「いいよ」


「君は、大学は、どうするの?」


「大学か……。そんなこと、まだ、全然、考えていないな……。行くかどうかも決めてないし」


「そう」


「君は、もう考えているの?」


「まだ、何も、考えていない」


「あそう……。君がまだなら、僕も大丈夫かな」


「大丈夫、というのは、どういう意味?」


「安心、安全、という意味だよ」


「何が、安心、安全、なの?」


「君の判断力は、僕のそれを上回っている。だから、君がまだ平気だ、と判断したのなら、僕もそれでいい、ということ」


「よく、分からない」


「お茶、美味しい?」


「うん、温かくて、美味しい」


「お菓子も、食べたら?」


「お菓子は、包装されているから、今食べなくても、とっておける」


「お茶も、とっておこうと思ったら、とっておけるんじゃないの?」


「もう、一度温めてしまったから、再び温めようとしたら、エネルギーの無駄になる、と判断した」


「なるほど。合理的だ。でも、そのお菓子も、持って帰っていいよ」


「お菓子は、あまり、食べない」


「僕の母親が、そうしてほしいんだよ」


「いつ、そんなことを聞いたの?」


「聞かなくても分かるんだ。僕と、彼女は、テレパスだから」


「テレパス、とは?」


「テレパシーが使える人、のことじゃなかっかな」


「その単語は、初めて聞いた」


「そう……。もしかしたら、間違えているかもしれないから、気に留める必要はないよ」


「気には、留めない」


「じゃあ、何に留めるの?」


「記憶に、留める」


「ああ、たしかに、そうだね」


「眠くない?」


「うーん、けっこう、頭がぼんやりしているんだ。もう長くはないかもね」


「死んで、しまうの?」


「冗談だよ」


「元気そうだね」


「いや、元気ではないよ。僕は、もともと元気じゃないんだ。今は、マイナス。でも、君と話したことで、将来的にプラスになるかな」

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