第13話

「さて、じゃあ、僕はそろそろ行こうかな」


 椅子から立ち上がって、真昼が言った。


 月夜は顔を上げて彼を見る。ラーメンはすでに伸びていて、柔らかくなっていた。でも、それでも、美味しいものは美味しい、と月夜は思う。


「食べ終わったら、私も行ってもいい?」


「いいよ。それは、君の自由だから」


「一緒に、行きたい」


「一緒に、生きたいって?」真昼は笑った。「うん、僕も、ずっとそう思っていたんだ」


「どういう意味?」


「ラーメンの汁は、すべて飲まなくてはいけない、と考えると、けっこう量が多いよね」


「全部、飲む必要はない、と思う」


「もったいないじゃないか」


「麺を美味しく食べるには、このくらいの量が必要、というだけで、店は、この汁を、すべて飲んで下さい、と要求しているわけではないと思う」


「まあ、どう考えるかは、君の勝手だ」


「図書室の、どこにいる?」


「どこにでも」真昼は、片手を上げて遠ざかる。「ま、適当に探してくれればいいよ」


 適当とは、どのくらいだろう、と月夜は思った。


 結局、月夜はスープを全部飲み干した。水分を摂取したのに、それを上回る量の塩分が体内に入って、余計に喉が渇く。こういうことになるから、彼女は、どうしても、食事という行為を好きになれない。はっきりいって、無駄が多い。調理して、食器が汚れると、それを洗わなくてはならない。そして、次の日には、また同じことを繰り返して、再び食器が汚れるのだ。


 人間の行動は、すべて、同じことの繰り返しで成り立っている、と月夜は思う。自然というものが、そういう性質を持っているから、その中で活動する生物も、自然と、自然の、性質を帯びることになる。生まれて、子孫を残し、死亡する。だから、自然に逆らうには、生まれないか、子孫を残さないか、死亡しないか、のどれかを実現させなくてはならない。月夜は、すでに生まれてしまったから、子孫を残さないか、死亡しないか、のどちらかを達成しない限り、自然に逆らうことはできない。死亡しない、というのはかなりハードルが高くて、今のところ、前例がないから、可能なのは、せいぜい、子孫を残さない、という選択肢だけしかない。それ以前に、別に、自然に逆らう必要なんてないじゃないか、とも月夜は思った。生まれている時点で、もう負けている。今さら逆らっても、大したことはない、と思ってしまう。


 お盆を下げて、ごちそうさま、と調理してくれた老婦人に伝えて、月夜は食堂をあとにした。扉を開けると、すぐ、目の前に、図書室がある。上履きからスリッパに履き替えて、中に入ると、暖かい空気が彼女を迎え入れた。


 図書室は、常に空調設備が作動している。夏なら冷房が、冬なら暖房が、それぞれ効いているが、春でも、秋でも、空気は人工的なものが充満している。窓が開けられることはない。それが、どうしてなのか、月夜は知らなかったが、少なくとも、彼女は、そういう人工的なものは嫌いだった。そうなると、服とか、靴まで嫌いということになるが、不思議と、そういうものは、嫌いではない。結局のところ、自分が抱く勝手なイメージによって、好みは規定されているのだ、と月夜は考える。


 なんだか、今日は、嫌いなものについてばかり考えているな、と彼女は思った。


 図書室は、床も、壁も、棚も、机も、椅子も、ありとあらゆるものが木でできている。それでも、木材の香りはすでにない。ここに存在するものは、すべて使い込まれたものだから、新鮮さは微塵も感じられない。


 自分も、もう、十七年も生きたから、どちらかというと、古い方なのだろうな、と、月夜は、意識的に、どうでも良い思考を展開する。


 それは、彼女の癖だった。


 なるべくなら、余計なことをしないで、無駄な労力をかけないで生活したいものだが、理想を掲げても、現実は何も変わらない。理想は幻想、現実は世界だから、現実にはたらきかけない限り、世界は変わらない。これは、言葉遊びだ。けれど、こんなふうに考えられれば、多少なりとも世界は豊かになる。物質がなくても、人は幸福になれる。人が傍にいなくても、それが人に似ていれば、人は幸せを感じる。


 なんだか悲しい生き物だな、と思った。


 もちろん、この思考にも、大した価値はない。


 すべて無価値。きっと、自分という存在にも、意味と等しく、価値もないのだろう。


 入り口から右手に曲がって、文庫本が置かれたスペースに目を通す。真昼はいない。彼は、きっと、文庫本には興味がない。本そのものが好きだと言っていたから、ハードカバーみたいに、如何にも本らしいものが好きだろう、と月夜は推測する。


 彼女は、小説を一冊手に取って、内容を確認する。面白そうと感じたわけではなく、なんとなく、そこに自分がいて、そこにその本があったから、読んでみた、というだけだった。


 そして、予想通り、特に面白くはなかった。


 月夜は本を仕舞い、再び移動した。

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