第3章 輝

第11話

 午前の授業が終わって、月夜は食堂へと向かった。教室は四階にあるから、一階まで階段を下りる必要がある。彼女は、こういった移動が、あまり好きではなかった。もともと運動が好きではないから、歩行も運動の内だと考えれば、特におかしなことではない。しかし、そうなると、運動とはどこまでの範囲を示すのか、という議論が生じることになる。拍動や呼吸、瞬きまで運動として含めるとすると、運動が嫌いというのは、生きるのが嫌いだ、と言っているのと等しくなる。たしかに、彼女は、どうして自分が生きているのか分からなかったし、いつ死んでも良いと思っていたから、その考えは間違いではなかった。


 食堂は比較的空いている。今日は金曜日だから、カレーを食べる人が多いかもしれない、と月夜は思った。金曜日と、カレーでは、本来何の関係もないが、彼女にはなんとなくそんな関連性があるように思えてならない。月夜は、特にカレーが好きではなかった。それ以前に、食べることがあまり好きではない。食べたとしても、美味しく感じるのは束の間で、一度食事をしてから五時間もすれば、また何かを食べたくなる。一回の食事に三十分をかけるとすると、人は一日に一時間半もの時間を無駄にしている、ということになる。そう、まさに、無駄。月夜には、食事をしたり、入浴をしたり、ということが、どうにも無駄に思えて仕方がない。それらの行為を楽しいと感じることもあるにはあるが、面白さを通り越して、面倒臭い、と感じることが大半だった。


 食券を買って列に並ぶ。適当に味噌ラーメンを選んで、適当にお盆に載せて、適当に席に着いた。周囲に人はいない。食堂自体はかなり広いから、人の少なさが余計に目立っていた。


 割り箸を割って、口にラーメンを入れようとしたとき、月夜の前の席が引かれて、そこに誰かが座った。


 彼女は顔を上げる。


 真昼だった。


「やあ」彼は挨拶をする。「今日は、ラーメンか。珍しいね」


「珍しい、というのは?」月夜は、箸で掴んだ麺を戻して、彼に尋ねた。


「頻度が少ない、ということ」


「頻度が、どれくらいだと、珍しくないの?」


「さあ、どれくらいかな……。君が、一週間に三回くらいラーメンを食べていたら、それは、珍しくはないかもしれない」


「なるほど」


「どうして、味噌味にしたの?」


「美味しそうだったから」


「本当に?」


「本当だよ」


「なんかさ、どうも、君がそんなことを言っても、あまり説得力がないんだよ」


「説得するつもりはないから、その分析は、正しいと思う」


「うん、まあ、そうだね」


「そう」


 真昼は横を向き、目だけで月夜を見る。


「……麺、伸びるよ」


 月夜は一度小さく頷いて、麺を箸で掴んで口に入れた。


 真昼がここに来るのは珍しい。そして、それ以前に、月夜がここに来るのも珍しかった。珍しい、というのが、一ヶ月に一度くらい、という頻度を示すのであれば、彼女がここに来るのは、遥かに度を越して珍しい。第一、月夜は滅多に昼食をとらない。朝も食べないことが多いから、一日一食、といった、極度に効率の良い節約をしている、といえる。一方で、真昼は、朝は食べなくても、昼は割と高い頻度で食べる。けれど、基本的に、彼は教室のベランダで昼食をとることがほとんどだから、彼がここにいる、というのもそこそこのレアケースだった。


 したがって、月夜と真昼が揃ってここにいるのは、滅多にお目にかかれない貴重なシーンだ、ともいえる。


「ラーメン、美味しいよ」


 真昼に疑われたから、月夜は、顔を上げて、彼に自分の感想を伝えた。


「そう……」真昼は食パンを齧っている。「それは、よかったね」


「君は、美味しい?」


 真昼は左手に持ったパンを掲げる。右手には食パンが入った袋が握られていて、六枚切りのパンをまるまる学校に持ち込んでいた。


「これ?」


「そう」


「うん、まあ、不味くはないね」


「美味しいのと、不味いのだったら、どっちがいい?」


「どうして、そんな当たり前のことを訊くわけ?」


「なんとなく、面白そうだな、と思ったから」


「何が?」


「君に、そんな質問をするのが」


「うーん、素直に答えれば、美味しい方がいい、という答えになるけど……、でも、不味いものを食べると、ああ、いつも美味しいものを食べられている自分は、幸福なんだな、と思えるから、たまには、積極的に不味いものを食べるのも、悪くはないと思うよ」


「私は、美味しいものは、食べたくない」


「どうして?」


「なんとなく、そう思った」


「そのラーメンは、美味しいんだろう?」


「うん、美味しい、とても」


「じゃあ、残念だったね」真昼は笑った。「君は、今日も、幸福だよ」


「君は、幸福?」


「僕は、毎日幸福だ」


「それは、どうして?」


「君がいるから」


「私が、いると、幸福なの?」


「君は、僕がいて幸福?」


「ごめん、分からない」


「いいよ、謝らなくても」


「うん」


「話していると、ラーメンが伸びる」真昼は食パンを千切り、それを口に放り込む。「話しながらでもいいから、食べなよ」


「口は、一つしかない」


「だから?」


「だから、耳は、二つある」


 少しの間、真昼は月夜が言った言葉の意味を考えてみたが、何も分からなかった。

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