幸せの日記帳
如月射千玉
第1話 ある雨の日の―rainy day―
◆
高層マンションから見下ろす外の世界は、灰色に覆われていた。
分厚いガラスの向こうから音が聴こえてくるあたり、雨が沢山降ってるんだろうなと思う。
雨に霞み、暗い雲が浮かび、先行きとか、何かそういうものが見えなくなっている。
社会人にもなって、語彙力が皆無で、少し悲しくなった。
ここから外界を見下ろすと、何もかもが小さく見えて、
今いる世界がまやかしじゃないかと思えてきて。
例えば、雨粒を弾き飛ばしながら疾走する車の群れ。
例えば、傘を差して足早に歩く人々。
どれもこれも、模型のように見える。
折角の休日が、狭い家の中で終わると物悲しさを隠せない。
因みに現在は午前8時。
だと言うのに、まだ同居人は眠りこけている。
料理もわたしが作って、家事もほとんどわたしがやるのに、文句の一つも言いたくなる。
でも、結局わたしが文句をぶつけることはないのだろう。
だって、彼女−−−−榊七海はわたしの大切な恋人だからだ。
この世に生を受け、初めて恋をしたのは中学三年生の時。
受験という人生を分ける重大なレースを前に、同じクラスの女子に恋をした。
当時のわたしはそれが異常なことだと思っていて、結局何も出来なかったんだけど。
そんなこんな紆余曲折あって、今七海と恋人関係になっている訳で、人生解らない。
そろそろ起こす時間帯だな、と小さい時計を見て思い、寝室まで移動する。
狭苦しいマンションだから、数歩歩くだけであっという間に部屋の端までたどり着く。
まだ闇の深い寝室には、七海が眠っている。
ベッドから落下した布団が地面に溜まり、枕は何故か足元に移動していた。
相変わらずの寝相の悪さに苦笑し、声をかける。
「ねえ、七海。朝だよー」
「うーむ……むにゃ……」
緩みきった顔はたまらなく愛しく、そのかわいい顔を滅茶苦茶にしてやりたいとたいう
衝動に駆られるけど、そこは鋼の心で自制。そういうことは夜だ。
一声かけても起きる素振りも見せないから、柔らかなほっぺをつついてやる。
その大きな瞳がようやく開かれた。
「いつまで経ってもお寝坊さん。おはよう、七海」
「おはよう、千尋」
ただ人一人起こすだけで何故か猛烈に疲れながら、雨が降る1日が始まる。
◆
「最近は物騒な世の中ですねえ」
とは、どこかの殺人事件のニュースを眺めての七海の言。
別れ話が縺れに縺れ、ついには命まで奪うとは理解し難い。
「別れ話で人殺しって……そういうもんなのかねぇ」
「別に、私たちには関係ないでしょ!だって、別れないもん」
自信ありげに一つ頷き、トーストを齧る七海を見て、羨ましいと思った。
わたしは七海ほど、人の絆というものを信用していない。
幼い頃からひねくれて育ったせいで、大人になってもひねくれたままだ。
いつまでも続く恋心なんてものは現実ではなく、フィクションの中のみに存在する。
いかに大切なものだって、終わりが来て、後に残るのは後悔ばかり。
「今日は何する?外、雨だけど」
「んー。散歩に行きたいな」
「雨降ってるよ」
「いいじゃん!相合い傘とかしてさ」
「えー目立つじゃん」
何事にも積極的なのが七海、消極的なのがわたし。
いつも意見は平行線、大抵どちらかが遠慮しあう。
大体、それはわたしだ。
「はあ。解った、行こう」
その時に彼女が見せる満面の笑みが、実は大好きなのだけど。
「やったあ!じゃあ早速行こうよ」
「おいちょっと待て」
七海がトーストの残りを飲み物で流し、そそくさと着替えに行ってしまう。
またため息一つ。七海と付き合うようになって、ため息を吐かない日はない。
その強引さが、時に面倒くさくなる。
夢で思い描いた理想の生活なんて、幻想に過ぎないんだって。
幸せなはずなのに、幸せと感じられない自分が嫌になった。
◆
外に出て、わたしの予想は間違いではないと確信を得た。
ドアから一歩出ただけで、雨特有の匂いがわたしを包む。
こんな日は本来出歩くべきではないのだけど、七海の希望とあらば、多少我慢だ。
黒い傘一本を持って、雨が降る世界へ向かう。
「うわあ、すごい雨だねえ」
「だから言ったでしょ、七海」
「相変わらず千尋の言うことは正しいね。でも、楽しい方が良いでしょ?」
そう言うと、すたすたと一人で歩いていってしまう。
その行動力の高さは、わたしには無いもので。
ふと目を離すと、どこかに、わたしの知らない所へ行ってしまいそう。
だから、せめて。置いていかれないように、後を追うだけ。
「エレベーターってさ、下ってるって気がするよね」
「−−それと似たような台詞、何かで聞いたことあるような」
「でも、本当にそうでしょ。落ちてる、という気になる」
「………まあね」
不承不承ながら、七海の言うことに納得する。
狭い箱の中には、何のためか姿見が備え付けられていて、七海の姿を視界の端に収める。
無駄な肉のないしなやかな身体を、ふわっとしたブラウスが包む。
やや背が足りないきらいがあるものの、逆にそれが魅力となっているのがポイントだ。
ファッションに無頓着な彼女を着せ替え人形にするのが、細やかな楽しみだったりする。
「長いねー」
「そこまで階数高くないけどな」
古いマンションな為か、エレベーターまで古く、
時折錆び付いているんじゃないのという位、何かが軋む音がする。
一分くらいそのままで、漸く一階に到着。
待っていたであろう中年のおじさんに軽く挨拶をし、自動ドアを通った。
「うわあ、雨だあ」
「そこまで驚くことでも無いと思う」
「相変わらず冷めてるなあ、千尋は」
などと話しながら、天を見上げる。
雨粒がはっきり認識できるくらいの雨量。地に落ちる雨粒を、駐輪場の屋根が弾き返す。
排水溝に吸い込まれて、雨は消えていく。
そういう何気ないところに物悲しさを感じるあたり、年をとったのかと苦笑。
でも、雨というものは往々にして人に悲しさを与える。
望む望まざるを無視して、人を憂鬱にする。
「さて、どこに散歩に行く?」
「そーだねぇ、公園かな」
「そのこころは?」
「恐らく人が、少ないでしょう」
「傘、差して」
いくらか七海より背が高いわたしが、傘を広げる。
勢いよく広がった傘が、陰鬱な空を隠す。
「では、出発」
二人の足取りは重く、上手く揃わない。
それが、わたしと七海の関係性を表しているように思える。
すぐ近くの小学校を何となく眺める。
「ねえ。七海」
「何?」
「小学生のとき、どんな生徒だった?」
「うーむ。忘れた」
からっ、と笑い飛ばしてしまう七海の様子を見て、ふっ、と笑みが溢れる。
隣を向くと、七海も笑っていた。
何で笑っているのだろう、と疑問に思っていると、
「久々に千尋が笑っているの見た」
「それは失礼な。まるでわたしが鉄仮面みたいに言って」
「でも、」
七海の笑顔が消えて、少し顔が強張る。
「いつも笑ってくれないから、私と居ても楽しくないのかな、って思っちゃう」
「……………」
「何も言ってくれないから、私が好きじゃないのか、とか思っちゃう」
言の葉の刃が、わたしの胸を抉る。
秘めた思いが、心を焦がす。
七海を好きか嫌いかと問われれば、好きと答える。
しかし、その言葉にどれくらいの確度があるのかは自分でもわからない。
付き合って一年くらい経って、日常的に言っていた『好き』は、
馴れという水に薄められ、段々と形を失っていたのだろうか。
そんなことを自問自答しているうちに、いつの間にか公園に着いていた。
いつ見ても大きい公園だ。
とは言うものの、遊具などは排他され、ジョギングするための長い道と、
申し訳程度に付け足された噴水ばかりで、すかすかな印象を抱いてしまう。
噴水から湧き上がる滴は雨にかき消され、背景になっている。
「あそこにベンチがあるから、少し話そうか」
「えー。雨降ってて濡れちゃうよ」
「いいから」
珍しくわたしが七海の手を引いて、水が溜まった砂道を突き進む。
口では否定したけど、結局七海はされるがままになっている。
時折跳ねる汚水に顔をしかめ、ただ、一直線に。
雨を切り裂き、踏み潰しながら進んでいく。
「ほらーやっぱりベンチびしょ濡れじゃん。どーすんの」
口を尖らせた七海を見て、バッグから防水仕様のシートを取り出した。
それをベンチの上に敷き、腰かける。
もちろん傘は差したままで、誰かに見られれば注目を浴びることは想像に難くない。
でも、今はわたしと七海の世界だ。
「付き合ったきっかけって何だっけ」
「さあ………覚えてないな」
先に口を開いたかは確かじゃない。些末なことはどうでも良い。
「確かね。その日も、雨が降ってて、だから」
「だから?」
途中で言葉を切ったわたしの背中を、七海が押してくれる。
いつだって、彼女は、わたしの側にいて、優しく励まして。
ある時は、わたしを癒すオアシス。
ある時は、わたしの休む家。
そして何より、あなたの隣が良いんだって、言えればいいのに。
「雨の日は、普通人を嫌な気分にする。大なり小なり人を憂鬱にさせる。
でも、わたしは。嫌な気分だと思えることが、凄く嬉しい」
七海は、何も言葉を発しない。
ただ黙って、わたしの言うことを聞いている。
沈黙の間に入り込むのは、ひたすらに降りしきる雨だけ。
「雨が降っている日に、あなたと……七海と付き合い始めて、雨はわたしの大切なものになった。雨が上がれば、晴れた空の下を、あなたと歩ける時がくるから」
「わたしは一人では生きていけなくて、七海が側にいて欲しい。
そうすれば、頑張れる。この気持ちが、好きってことだと思う。
好きだよ、七海」
感情の発露だった。
冷たい世界にいても、この胸に根付く熱があるから、暖かい。
自分が思っているより、わたしは七海が好きだったらしい。
何となく七海の表情を窺う。
涙が、光っている。
傘の隙間から漏れる僅かな光に反射して、煌めきを放つ。
「私も、千尋が大好き。ずっと側にいるから。だから、あなたも−−−−−」
その先の言葉は必要なかった。
唇を重ね合う。
今まで何回もしているけど、かつてないこの高揚は。
身体を巡って、巡って、そして−−−−−−−−。
これが、幸せってことなんだろうな、と思った。
絶対に手放したくない、と思った。
未だに雨が降っている。
傘を跳ねた滴が、時々身体を濡らす。
しかし、何も心配することはないんだと、気付いた。
どんなに雨が降って、雷に打たれ、空が、世界が。闇に覆われようとも。
いつかは、輝く空の下、あなたと歩けるんだから。
他の誰でもない、七海と。
これで、雨の日は忘れられない思い出になる。
これからも、ぶつかることはあると思うし、上手くいかない時もある。
人生なんてそんなものだ。
いつか、進む道が別れるその時まで。
あなたと共に。
音が消えた世界には、雨の音のみが響く。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます