幸せの日記帳

如月射千玉

第1話 ある雨の日の―rainy day―

高層マンションから見下ろす外の世界は、灰色に覆われていた。

分厚いガラスの向こうから音が聴こえてくるあたり、雨が沢山降ってるんだろうなと思う。

雨に霞み、暗い雲が浮かび、先行きとか、何かそういうものが見えなくなっている。

社会人にもなって、語彙力が皆無で、少し悲しくなった。

ここから外界を見下ろすと、何もかもが小さく見えて、

今いる世界がまやかしじゃないかと思えてきて。

例えば、雨粒を弾き飛ばしながら疾走する車の群れ。

例えば、傘を差して足早に歩く人々。

どれもこれも、模型のように見える。

折角の休日が、狭い家の中で終わると物悲しさを隠せない。

因みに現在は午前8時。

だと言うのに、まだ同居人は眠りこけている。

料理もわたしが作って、家事もほとんどわたしがやるのに、文句の一つも言いたくなる。

でも、結局わたしが文句をぶつけることはないのだろう。

だって、彼女−−−−榊七海はわたしの大切な恋人だからだ。

この世に生を受け、初めて恋をしたのは中学三年生の時。

受験という人生を分ける重大なレースを前に、同じクラスの女子に恋をした。

当時のわたしはそれが異常なことだと思っていて、結局何も出来なかったんだけど。

そんなこんな紆余曲折あって、今七海と恋人関係になっている訳で、人生解らない。

そろそろ起こす時間帯だな、と小さい時計を見て思い、寝室まで移動する。

狭苦しいマンションだから、数歩歩くだけであっという間に部屋の端までたどり着く。

まだ闇の深い寝室には、七海が眠っている。

ベッドから落下した布団が地面に溜まり、枕は何故か足元に移動していた。

相変わらずの寝相の悪さに苦笑し、声をかける。


「ねえ、七海。朝だよー」

「うーむ……むにゃ……」

緩みきった顔はたまらなく愛しく、そのかわいい顔を滅茶苦茶にしてやりたいとたいう

衝動に駆られるけど、そこは鋼の心で自制。そういうことは夜だ。

一声かけても起きる素振りも見せないから、柔らかなほっぺをつついてやる。

その大きな瞳がようやく開かれた。


「いつまで経ってもお寝坊さん。おはよう、七海」

「おはよう、千尋」


ただ人一人起こすだけで何故か猛烈に疲れながら、雨が降る1日が始まる。


「最近は物騒な世の中ですねえ」

とは、どこかの殺人事件のニュースを眺めての七海の言。

別れ話が縺れに縺れ、ついには命まで奪うとは理解し難い。


「別れ話で人殺しって……そういうもんなのかねぇ」

「別に、私たちには関係ないでしょ!だって、別れないもん」


自信ありげに一つ頷き、トーストを齧る七海を見て、羨ましいと思った。

わたしは七海ほど、人の絆というものを信用していない。

幼い頃からひねくれて育ったせいで、大人になってもひねくれたままだ。

いつまでも続く恋心なんてものは現実ではなく、フィクションの中のみに存在する。

いかに大切なものだって、終わりが来て、後に残るのは後悔ばかり。


「今日は何する?外、雨だけど」

「んー。散歩に行きたいな」

「雨降ってるよ」

「いいじゃん!相合い傘とかしてさ」

「えー目立つじゃん」

何事にも積極的なのが七海、消極的なのがわたし。

いつも意見は平行線、大抵どちらかが遠慮しあう。

大体、それはわたしだ。


「はあ。解った、行こう」

その時に彼女が見せる満面の笑みが、実は大好きなのだけど。

「やったあ!じゃあ早速行こうよ」

「おいちょっと待て」


七海がトーストの残りを飲み物で流し、そそくさと着替えに行ってしまう。

またため息一つ。七海と付き合うようになって、ため息を吐かない日はない。

その強引さが、時に面倒くさくなる。

夢で思い描いた理想の生活なんて、幻想に過ぎないんだって。

幸せなはずなのに、幸せと感じられない自分が嫌になった。


外に出て、わたしの予想は間違いではないと確信を得た。

ドアから一歩出ただけで、雨特有の匂いがわたしを包む。

こんな日は本来出歩くべきではないのだけど、七海の希望とあらば、多少我慢だ。

黒い傘一本を持って、雨が降る世界へ向かう。


「うわあ、すごい雨だねえ」

「だから言ったでしょ、七海」

「相変わらず千尋の言うことは正しいね。でも、楽しい方が良いでしょ?」

そう言うと、すたすたと一人で歩いていってしまう。

その行動力の高さは、わたしには無いもので。

ふと目を離すと、どこかに、わたしの知らない所へ行ってしまいそう。

だから、せめて。置いていかれないように、後を追うだけ。


「エレベーターってさ、下ってるって気がするよね」

「−−それと似たような台詞、何かで聞いたことあるような」

「でも、本当にそうでしょ。落ちてる、という気になる」

「………まあね」

不承不承ながら、七海の言うことに納得する。

狭い箱の中には、何のためか姿見が備え付けられていて、七海の姿を視界の端に収める。

無駄な肉のないしなやかな身体を、ふわっとしたブラウスが包む。

やや背が足りないきらいがあるものの、逆にそれが魅力となっているのがポイントだ。

ファッションに無頓着な彼女を着せ替え人形にするのが、細やかな楽しみだったりする。


「長いねー」

「そこまで階数高くないけどな」

古いマンションな為か、エレベーターまで古く、

時折錆び付いているんじゃないのという位、何かが軋む音がする。

一分くらいそのままで、漸く一階に到着。

待っていたであろう中年のおじさんに軽く挨拶をし、自動ドアを通った。


「うわあ、雨だあ」

「そこまで驚くことでも無いと思う」

「相変わらず冷めてるなあ、千尋は」

などと話しながら、天を見上げる。

雨粒がはっきり認識できるくらいの雨量。地に落ちる雨粒を、駐輪場の屋根が弾き返す。

排水溝に吸い込まれて、雨は消えていく。

そういう何気ないところに物悲しさを感じるあたり、年をとったのかと苦笑。

でも、雨というものは往々にして人に悲しさを与える。

望む望まざるを無視して、人を憂鬱にする。


「さて、どこに散歩に行く?」

「そーだねぇ、公園かな」

「そのこころは?」

「恐らく人が、少ないでしょう」

「傘、差して」

いくらか七海より背が高いわたしが、傘を広げる。

勢いよく広がった傘が、陰鬱な空を隠す。


「では、出発」

二人の足取りは重く、上手く揃わない。

それが、わたしと七海の関係性を表しているように思える。

すぐ近くの小学校を何となく眺める。

「ねえ。七海」

「何?」

「小学生のとき、どんな生徒だった?」

「うーむ。忘れた」

からっ、と笑い飛ばしてしまう七海の様子を見て、ふっ、と笑みが溢れる。

隣を向くと、七海も笑っていた。

何で笑っているのだろう、と疑問に思っていると、

「久々に千尋が笑っているの見た」

「それは失礼な。まるでわたしが鉄仮面みたいに言って」

「でも、」

七海の笑顔が消えて、少し顔が強張る。

「いつも笑ってくれないから、私と居ても楽しくないのかな、って思っちゃう」

「……………」

「何も言ってくれないから、私が好きじゃないのか、とか思っちゃう」

言の葉の刃が、わたしの胸を抉る。

秘めた思いが、心を焦がす。

七海を好きか嫌いかと問われれば、好きと答える。

しかし、その言葉にどれくらいの確度があるのかは自分でもわからない。

付き合って一年くらい経って、日常的に言っていた『好き』は、

馴れという水に薄められ、段々と形を失っていたのだろうか。

そんなことを自問自答しているうちに、いつの間にか公園に着いていた。

いつ見ても大きい公園だ。

とは言うものの、遊具などは排他され、ジョギングするための長い道と、

申し訳程度に付け足された噴水ばかりで、すかすかな印象を抱いてしまう。

噴水から湧き上がる滴は雨にかき消され、背景になっている。

「あそこにベンチがあるから、少し話そうか」

「えー。雨降ってて濡れちゃうよ」

「いいから」

珍しくわたしが七海の手を引いて、水が溜まった砂道を突き進む。

口では否定したけど、結局七海はされるがままになっている。

時折跳ねる汚水に顔をしかめ、ただ、一直線に。

雨を切り裂き、踏み潰しながら進んでいく。

「ほらーやっぱりベンチびしょ濡れじゃん。どーすんの」

口を尖らせた七海を見て、バッグから防水仕様のシートを取り出した。

それをベンチの上に敷き、腰かける。

もちろん傘は差したままで、誰かに見られれば注目を浴びることは想像に難くない。

でも、今はわたしと七海の世界だ。

「付き合ったきっかけって何だっけ」

「さあ………覚えてないな」

先に口を開いたかは確かじゃない。些末なことはどうでも良い。

「確かね。その日も、雨が降ってて、だから」

「だから?」

途中で言葉を切ったわたしの背中を、七海が押してくれる。

いつだって、彼女は、わたしの側にいて、優しく励まして。

ある時は、わたしを癒すオアシス。

ある時は、わたしの休む家。

そして何より、あなたの隣が良いんだって、言えればいいのに。


「雨の日は、普通人を嫌な気分にする。大なり小なり人を憂鬱にさせる。

でも、わたしは。嫌な気分だと思えることが、凄く嬉しい」

七海は、何も言葉を発しない。

ただ黙って、わたしの言うことを聞いている。

沈黙の間に入り込むのは、ひたすらに降りしきる雨だけ。


「雨が降っている日に、あなたと……七海と付き合い始めて、雨はわたしの大切なものになった。雨が上がれば、晴れた空の下を、あなたと歩ける時がくるから」


「わたしは一人では生きていけなくて、七海が側にいて欲しい。

そうすれば、頑張れる。この気持ちが、好きってことだと思う。

好きだよ、七海」

感情の発露だった。

冷たい世界にいても、この胸に根付く熱があるから、暖かい。

自分が思っているより、わたしは七海が好きだったらしい。

何となく七海の表情を窺う。

涙が、光っている。

傘の隙間から漏れる僅かな光に反射して、煌めきを放つ。


「私も、千尋が大好き。ずっと側にいるから。だから、あなたも−−−−−」

その先の言葉は必要なかった。

唇を重ね合う。

今まで何回もしているけど、かつてないこの高揚は。

身体を巡って、巡って、そして−−−−−−−−。

これが、幸せってことなんだろうな、と思った。

絶対に手放したくない、と思った。

未だに雨が降っている。

傘を跳ねた滴が、時々身体を濡らす。

しかし、何も心配することはないんだと、気付いた。

どんなに雨が降って、雷に打たれ、空が、世界が。闇に覆われようとも。

いつかは、輝く空の下、あなたと歩けるんだから。

他の誰でもない、七海と。

これで、雨の日は忘れられない思い出になる。

これからも、ぶつかることはあると思うし、上手くいかない時もある。

人生なんてそんなものだ。

いつか、進む道が別れるその時まで。

あなたと共に。

音が消えた世界には、雨の音のみが響く。

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