傍観者

ぼさつやま りばお

第1話

 いつからここに居るのか。

 そう聞かれれば、覚えている時からここに居る。そういう返答が正しいのかもしれない。それ以上もそれ以下も無い。

 何故ならば、私には過去の記憶がない。それは、皆同じだろう。

 生まれた時、生まれる前、そんな曖昧で空のような記憶を持つ者は、

 極少数と聞く。

 ……なので、私に過去の記憶がないと言うのは、凄く真っ当な事なのだ。


 ◇


 一番最初の記憶と言えば、殺風景と感じるガランドゥの部屋から始まり、次に目を覚ませば、少し寂し気な面持ちを浮かべた若い女性が目の前に居た。

「うん。じゃあ、ありがとう」

「体に気を付けるのよ」

 若い女は小さく手を振った後、独り、部屋に残されていた。

 その背中は小さく華奢で、肩を落としているかのようにも見える。

「さて……と」

 少し顔にあどけなさが残る彼女は小さく嘆息すると、梱包された箱から次々と物を取り出して部屋の彼方此方へ配置していく。

 どうやら彼女は、此処で生活を送るらしい。

 とんだ同居人が唐突にできた訳だ。

 しかし、悲しいかな。私に声を届ける術はない。

 私にできる事と言えば、彼女の密かな呟きと小さな涙を、見守ってあげる事である。

 

 それから……。

 泣いている時も、笑っている時も、落ち込んでいる時も嬉しい時も、病める時も……。

 私は常に彼女と共にあった。

 あどけないと感じていた彼女は、いつの日か髪が伸びて、服装や様相も変わって行った。

 沢山の友人と呼ぶ人が来た。沢山の彼女を見てきた。沢山の声を聴いた。

 たまに帰らぬ日は心配もした。長い事帰ってこないと思いきや、ある日大泣きしながら大荷物を抱え込んで帰って来た日もあった。

 沢山、机上を見つめて何かを書きながら嘆いていた。

 鼻歌を交えながら台所に立っていることもあった。

 顔色悪く、布団から出ない日も多々あった。

その度、友人等が訪ねてきた。

 

 そんな、彼女は今……ようやく、私に面と向かっていた。

 直ぐ、私の目と鼻の先に彼女の顔が見える。

 こんなにもはっきりと彼女の顔を見つめたのは、これが初めてだった。

 ほんの一瞬だった気がするし、長い時間見つめっていた気もする。

「よし、いいかな」

 そんな曖昧な時間に意識を傾けていると、彼女は独白して立ち上がる。

 いつしか、可愛らしく並べられた小物類は無くなり。

 いつしか、彼女がいつも向かい合っていた机は何処かへ行き。

 いつしか、衣類の詰まったタンスは壁から退き。

 いつしか……彼女は帰って来ることは無くなった。

 あの日、一番最初に覚えているあの日と同じ光景。

 殺風景な空間が、ただ目の前にある。

 此処は冷たく、常に暗い。

 ならば……また再び眠るとしよう。


 ◇


 次に、目を覚ました時、部屋の様相は大きく変わっていた。

 いつの間にか、寡黙な男がベッドに寝そべって天井を見つめている。

 照明の灯りを見たのはいつ以来か、そんな事を考えるほど、私の意識と記憶はとても抽象的で、曖昧なものだった。

 部屋には、ベッドと机と本棚のみ。彼女と比べれば、随分と質素だと感じる。

 少しばかり寂し気な男の背中は、度々と本棚を眺めてはベッドに寝そべり、本を見つめていた。非常に寡黙である。

 時折、何かを独白したかと思えば、ただの自問自答で終わる。

 そんな彼の生活は実に単調なものだった。

 起きて、何処かに出かけたと思えば、夜に帰宅して床に就く。

 起きて、何処かに出かけたと思えば、夜に帰宅して床に就いた。

 つまらない。と思ったことは無い。

 何故ならば、私にできる事はただ傍観のみ。

 一つ屋根の下に居る以上、私も寡黙な男に尋ねたみたい時もあったが、それは出来ない。

 しかし、彼が寂しいと独白したことは無い。

 私がそんな事を思う頃には、彼女と過ごしていた日々の喧騒など忘れ、静けさに漂う外の微かな音や、彼の本を捲る音が当たり前になっていた。

 そして、何処かに出かけたと思えば、夜に帰宅して床に就き。

 床に就いたかと思えば、日が昇る頃には何処かに出かける。

 単調な日々だった。変化はなく、特に誰かが訪ねてくるわけでもない。

 同じような日々を送っていた。

 だが……そんなある日の事だった。

「もういいや」

 と、男が独白してたのを、私は耳にする。珍しい独り言だった。

 いつもならば「そうか」とか、「なるほど」とか、何かを納得したように小さく呟いていた彼が、朝日が差し込むカーテンを珍しく全開にし、ハッキリと部屋中に響かせるほどの音程で喉を鳴らしていたのだ。

 そして、いつも通りの身支度を済ませ、男は何処かへ出かけていく。

 私がその男を見たのは、それで最期だった。

 

 ……それから、しばらく部屋の灯りが灯らない日が続いたある日。

 ぞろぞろと人が部屋に入ってくると、男が使っていたベッドや机や本棚を、外へと運び出していく。なんだ、友人は居たのかと、思いつつ、私はその様子を眺めていた。

 しかし、私はその光景を知っている。

 私は再び来るであろう空白の時を予知し、静かに眠る事にした。

 静かなのは慣れている。どうってことは無い。

 少し眠って目を覚ませば、また次の住人に出会えることだろう。


 ◇


 私は壁である。名前などない。

 そこに居て、傍観するだけの壁である。

 私は、人の手の温もりを知っている。背中から脈打つ鼓動を知っている。

 人は、私の目の前で平気で泣くし、平気で怒るし、平気で嘘を付く。

 壁である以上、人を咎める事はおろか、慰めることもできない。

 あれから、様々な人が私の元を訪れ、共に暮らし、様々な理由で居なくなった。

 一つだけ分かった事は、人が居なければ、私は脆くなって行くと言う事だ。

 どれ程の月日が立ったかは、定かではない。だが、私が私である以上、此処に居て、ここに来る人々の生活を傍観する他無い。

 やがて、人の出入りする頻度は減り、私も眠る事が多くなった。

 どれくらい眠っているのだろうか、しかし壁である以上、それを知るすべは無い。

 時折、自身から軋む音がするのが分る。

 喧騒に満ちた日々や、静けさに包まれる日々も、今や懐かしく感じる。

 

 あ……。


 初めて見る光景に、考える事をやめた。

 天井が轟音を立てて崩落し、そこから青々と広がる空が見える。

 窓の一角でしか認識できなかった空は、こんなにも広いものだったのか。

 何て、綺麗なのだろう。

 これが、私と共に暮らしていた人々が言う、

「晴れ」という奴らしい。



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傍観者 ぼさつやま りばお @rivao

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