79話 だから
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武田が2人の男性に絡まれている。更衣室から出てすぐに状況を理解した。
話しかけている彼らは路上ナンパをするようなチャラい格好ではないけれど、やってる事は同じだ。高身長のお兄さんはグイグイと話しかけているが、もう1人は付き添いのようで何もせず立っている。
絡まれている武田の顔は無だった。表情筋が垂れた腑抜けた顔でも、引き締まって固まった緊張顔でもない、ただの無。電源を抜かれたロボットみたいに。
あんな顔をした武田は初めて見た。私は似たような表情を一つ知っているが、それは物寂しいく感傷に浸るような、胸がチクリと痛むような顔。あれとはまた違う。
今の武田には、何も無かった。まるで空っぽのコップを見ているようだ。ただ、そのコップは反射などせず、光も影もなく、あってもなくても変わらないような、デッサンしても意味のない無色透明なコップ。
無視をしているというよりかは、空気になっている。完全に自分の世界に入り込んで、周りの世界とは関わらないように、否定も拒絶もせず、どちらかと言えばロボットというより動くことすら無い人形のようで、綺麗な姿勢でただ座っているだけ。
それを見た瞬間、足がくすんだ。
決してナンパ野郎に絡まれるのが怖いというわけではなく、そんな事はどうでもよく、私はあの状態の武田と、関わる事それ自体が怖かった。
なぜ怖いのかはわからない。ただ怖い。原因不明の恐怖が、私の背中に張り付いている。わからない事だらけだが、それだけはわかった。
そしてもう一つ、わかった。
それでも、私は前に進みたいと思っていること。
あいつを見捨てるなんて、そんな選択肢はないこと。
恐怖の前に、その前に、私は別の感情を抱いていた。
この状況を一眼見た瞬間、私が感じたのは。
純粋に、ただ純粋に。
怒りを感じた。
♤
自分は器用な人間だと思う。
同時に、嘘つきだとも。
他人の心が読めるようなメンタリストになったつもりも、なるつもりもないけれど、相手の表情や仕草を見て「こうすると良くない」というNGゾーンがわかる。
だから円満、円滑なコミュニケーションとして、そのNGゾーンを踏まない為、俺は時に思ってないことも口にする。
たとえ意見が違ったとしても共感し、時にはどうでもいいことに「わかる」と、何もわかってなくても言う。面白くもないのに笑う。何もなくても笑う。
それが一番、人生を歩む上で、楽で手っ取り早く、そして確実で、必要な能力だと思ったから。
あるいは、誰も傷つけないように、誰からも傷つけられないようにする為に。
でもそれは逃げだ。
それは自分が「無い」のと同じだ。自分がいないのと同じだ。
彼ら彼女らは俺と話しているのかもしれないけど、目の前の話し相手である俺は、どこにもいない。そんな武田后谷は存在しない。
「……………………………」
男性が何か話している。耳は働いていても脳は働いていない。聞き取った日本語が、どこかの国の言葉に聞こえる。
今、目の前にいる彼らも、多分俺と話しているのだろうけど、俺は誰とも話していない。
俳優、声優、役者。
劇とか芝居とか詳しく無いけれど、ましてや彼らプロと自分を一括りにするなんて恐れ多いことだけど、彼らは俺と同じく、仮面を被っているのだろうか。
だとしてもその仮面は違う。たとえ嘘でも芝居でも、その根本には他人を楽しませるための演技の仮面と、傷つけることを恐れ傷つけられることを嫌う、卑屈と虚言に染まった仮面。俺はもちろん後者。
「…………………………………」
こんなことを言うのは、虫がいいと思う。自分でもそう思っているから、そう思ってもらっても構わない。
被りたくて被ったわけじゃない。それだけは言っておきたい。信じてもらえなくても。
最初からこんなんじゃない。生まれた時から嘘つきの詐欺師じゃない。そんな薄気味悪い人間じゃない。
あの頃は、あの頃までは、多分。
あいつの隣にいた頃の笑みは、嘘じゃない。
それだけは、嘘じゃない。
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