第2話 月とスッポン。過去に夢見た理想郷

 オタク君の告白を聞いた後、今の自分に何ができてオタク君に何をしてやれるのかを模索していた。


 模索していたこともあって、今日の授業は全く頭に入ってこなかった。授業内容を深く理解する気にはなれなかった俺は黒板より少し上に掛けられた時計を確認する。


 今はもう四時限目まで進んでいたようで、その自覚からお腹を空かせている事実への意識をより強めた。ぐぅーっと鳴るお腹を、誤魔化すように腹まで手を持っていき優しく撫でる。



 そこからはもう早く授業終わらないかなと唱えながらも時計を何度も眺めていた。時が早く刻むよう念じながらも秒針を睨む。それでも時間だけは誰にでも平等に働く。誰かの為に急ぐことも緩めることもしない。


 左隣のオタク君の方はと言うと授業を真面目に受けているように見える。


「ぐぅ…。…ぐぅ…。…ぐっ…ぅう…。」


 実際、真面目に見えるだけで、よく見てみれば目をつぶって眠っているのだ。よく耳をすませば規則的なリズムのもとに鼻息が聞こえる。

 俺はいつも、静かに目立たないようにして寝るその姿勢に俺は感動する。本当に器用なやつだ。


 自分もこの永遠とも思える時間とおさらばしたく、眠ろうかとも考えたが睡魔が襲ってきている訳でもないので、変わりに別の事をする。

 机の上でシャーペンをクルクルっと回す練習をしていたが、何度も物音立てて落としてしまえば気が滅入る。結局はぼーっとすることにした。


 秒針が長針を追い抜かす数が12を超えた辺りで、授業中の張り詰めた空気が緩んだ。


 いつの間にか先生は今日の授業の内容を終えていたみたいだ。しかしまだ四時限目終わりの時刻の訪れには早く、少し時間は残っていた。


 そういえば俺らのクラスは他クラスと違って進行度合いが桁違いにはやいとか言っていたような気もする。


 板書が終わった生徒も居るようで残り時間を思い思いの過ごし方で迎える。食堂の席を取るためにいつでも教室から出れる準備をしている者。ダラダラと板書を続けながらも喋るもの。机に突っ伏して寝ている者。


 その中に、普段は大して気にもとめなかったわけだが、右斜め前方に 南朱里あかりの姿を捉えた。

 俺はそっと、バレないように盗み見た。


 彼女は机の下でポチポチと手馴れた様子でスマホを弄る。SNSアプリでも開いているのか、もしくはお洒落な服やアクセサリーのチェックかもしれない。

 何をしているかなんて俺に知る余地もない。


 机にはスマホを弄っていることを紛らわすカモフラージュなのか教科書やノート筆箱等わざとらしい程に広げて居る。しかし目線は机の上、ではなく引き出しの方だがな。スマホ触ってんのバレバレだろあれ…。


 あまりしっかりと彼女を観察することは無いので、改めて様子を見てみることにした。


 着崩した制服。はだけたワイシャツの上にベージュのセーターを着込んでいる。そのワイシャツから覗く白い素肌は少し挑発的で攻めすぎな気がする。手入れの行き届いた長髪の煌めく金髪がやけに目立つ。染めているのだろうか?恐らく染めている。髪が丁度肩位の高さまで伸びている。


 スカートは紺のブレザーを少し濃くした色にチェック柄だ。そのスカートから伸びる程よい肉付きの足は凄く魅力的に映る。ワイシャツ同様攻めすぎだと思う。自重してほしいねうむ。


 他の女子生徒を見習え。基本膝下くらいまでスカートが伸びてるのに南はと言えば膝上5センチ位だ。男子は怖いんだ、もっと注意した方がいいに決まっている。ほら、今だって俺がこうやって観察してるんだからさ。


 あ、やべ、こっち見てる。見てたのバレたか?


 突然スマホを見ていたはずだった南の顔がこっちを向いた。凄く睨んでいる。注意しろよと心の中で文句を垂れていたが、言われるまでもなく視線に敏感なのだろう。


 少し怖くて目を逸らした。


 にしてもやっぱギャルとはいえ、遅刻魔といえ、成績最底辺といえ、整った顔は凄く可愛く綺麗だ。


 まさかオタク君…、一目惚れ、か?それ以外に彼女に惚れる理由がいよいよ見当たらなくなってきたぞ。


 余談だが、我が高校では夏用のワイシャツが用意されており、男子はそれ1枚にネクタイなのだが女子はワイシャツにリボン呑みだとダサいとか言って大半の生徒がセーターを上から着る。いつも思うが暑いと思う。




 オタク君との朝の会話の後、教室に南の姿はなく、遅刻かと思っていたら、やはりというべきか南は堂々とした様子で教室の戸を派手に開け、椅子に座った。


 遅刻だった。誰がなんて言おうが、正真正銘の遅刻だった。


 しかしクラスの誰もそれを気にとめなない。

 理由は至って普通で、南がもう何度目か分からない程の遅刻を数多と繰り返し、誰もが認める遅刻魔だと言う話が広がっているためだ。


 だからどれだけ遅刻しようが俺達からすればそれはおかしなことではない。

 常識的に考えればおかしな所だらけではあるのだが、普通はギャルの彼女に通用しない。ギャルの辞書に普通は存在しない。


 普通が通用しないことを先生も理解しているのか無理に注意をしようとしない。責任を逃れられる為としか思えない程度の注意をする。

 その注意は自分の立場を守るための信号のようなものかも知れない。


 だがしかし、しっかりと遅刻のペナルティはあるのだからいくら注意がされないからと言って遅刻していい訳では無いのだが、誰もそこに突っ込むことはないらしい。


 髪染めてるのも南くらいなもんだと思う。他に金髪で目立つ髪色してた人を俺は知らない。もしかして先生は弱みでも握られているのだろうか?!その可能性を考えると南さんがより怖く見えた。



 その問題児の南を含めた、クラスの大半の生徒に緊張感は感じられず自由に過ごしている。

 四時限目の次は昼休み兼お昼ご飯だという開放感もまた、彼らの気の緩みを促進させていると言えるだろう。勿論この俺もその1人だ。


 先生も疲れているのか、授業態度に似つかわしくない様子の生徒を咎める雰囲気はまるで感じられない。どちらかと言えば先生がもう1番ダウンしているように見える。


 ダラダラと残り時間を過ごす生徒も目立つがその中にはしっかりと板書している生徒が居ることを忘れない。


 自分も時計ばかりを見ていて(エッチな目で生徒を見てなんていません断じて)ノートに何も書き写していないことを思い出した。


 先程、指の上でスピンさせるための練習で使っていたシャーペンを改めてしっかりと握る。


 黒板を確認すると、新しい内容がビッシリと書き込まれていた。そのことにげんなりしつつも仕方がないと自分に言い聞かる。


 黒板から机の方へと目線を下げ、覚えている限りで書き写す。そして黒板を見ての繰り返し。

 この作業の何とも言えない徒労感に苛立ちを覚えるのが普段の俺だ。

 しかし今はそれが丁度いい。快く俺は板書する。


 板書を終える頃には、もう後1分もすれば昼休みの時間を告げるチャイムが校内を駆け巡る事だろう。


 あれだけ遅く感じていた時間の速度は、気がつけば瞬き程のものに変わっていた。


 チャイムが鳴る。けたましいとも感じるが、これが我々学生にとっての自由を知らせる鐘だと考えると心地よく感じるものだ。


 俺とオタク君はシンクロしているのか同じタイミングで引き出しに教材やらノートやらを突っ込み、席を立つ。

 既に食堂組は財布を持って、風を切るように教室を出ていった。


 俺達はと言うと、教室で弁当組なので特別急ぐわけでもない。なら何故席を立ったのか。

 答えは一つ。真実は一つ。

 トイレだ。WCだ。ワールドカップだ。


 授業と授業の合間にトイレに行くのがほとんどかもしれない。が、そこでよくウェイウェイと煩い輩がたむろしていたり騒いでいたりと、とりあえずやかましい。


 そして1番利用時間が少ないとされるこの四時限目が終わってすぐの昼休みに俺達は決まってトイレに駆け込むのだ。


 オタク君と俺の2人で歩幅を合わせながらも同じ目的地へとつま先を向ける。

 そしていつもは授業がしんどいや先生がうるさいや、課題が面倒だとダラダラ続ける他愛もない高校生トークを持ち出すのだ。が、今日はしない。

 他にもっと大事な話があるからだ。


 お互いにどう踏み込んだものかと悩んでいる内にトイレを済ませ、教室へと戻るための道をゆっくりと帰る。

 このままでは拉致があかないと感じ、自分から声をかけることにした。


「なぁ」


「…なんだ相棒」


 ぶっきらぼうに呼び掛けると反応してくれた。いつものタカナ氏と茶化すことをしなかったのは、彼なりに真剣に返答した証なのだろう。

 しかし何から聞こうかと今更になって考える。考えてから聞けばよかったと後悔した。

 自分が今一番気になっていて、聞いておきたいことを素直に聞くことにした。


「具体的に、あいつの何処がいいと思ったわけ?ぶっちゃけ良いなと思える箇所ないんだけど」


「うむ。好きだと言った女子のこと否定しちゃう?それ言っちゃう?酷くない?」


「あぁ、そうだな。すまん。で?どこなんだよ。まさか一目惚れか?」


「それもあるが…。いやそれだけでないぞ?まぁ、そう急かすでない、急かすでない」


 話題のネタが想い人だからか機嫌が良い。普段の学校への愚痴の時間を、今は幸せな時間と様変わりだ。まるで冬から春へと季節が変わったようにすら感じる。


 まぁ夏に入ろうとしている頃だし蒸し暑いのだがな。

 夏の暑さに焦がされる中、恋に焦がされている者がここに1人。


 彼をここまで変えることが出来る人。

 恋とはこれまでとは違う別人格を形成させることも厭わない。

 彼を変えた存在。

 想い人…。それが、あの 南 朱里…。



 気になっていた。ずっと考えていた。朝聞いた時からずっと。

 別に価値観は人それぞれだからそれにとやかく言うつもりは微塵もない。


 漫画の世界と違ってノンフィクションでギャルとオタクに接点が生まれることは果たして有り得るのだろうか?

 どこに惚れることがある?

 ギャルという存在は、平穏な日々を脅かす恐怖の対象そのものだろう、と。それこそ不良の一グループ過ぎない。


 どれだけ疑問の念が生まれようと応援を怠るつもりは無い。数時間前も決意したことだが、覚悟を決めた男への冒涜は許せない。


 だからこそ、俺は知りたいのだ。

 何処が好きになったのか。何処を気に入ったのか。

 何処へ向かうのか。



 オタク君は楽しそうに南 朱里の話をする。

 彼女の惚れたとこや、出会いはないけどずっと前から追いかけてた。とか、俺が知らなかった事を次から次へと。決壊したダムのように止めどなく。


 俺の方を見ながら話す彼は、もうその視界の中に俺は居ない。

 正確に言うなら俺はそこにいる。

 でもそこにいる俺を見ているようで、別のものを瞳に映しているようだった。



 彼は俺とは違って、手が届かないと分かっていても、それでもずっとその先に手を伸ばして、更に伸ばし続けるのだろうか。理想を描き続けるのだろうか。



 スッポンは月を夢見て、その短い手の代わりに首を伸ばした。それでも届かないと悟ったスッポンはきっと理想を捨て去り、空を見上げるのを辞め、代わりに底へ底へと下に沈んで行ったのだ。ここでも良いかと妥協して、納得した。


 君はきっと、傍に居る俺がもう見えてはいないだろう。捉えているのはそのずっと先かもしれない。

 君が前を見えなくなった時に、また俺がそこに映るはずだ。

 

 彼はきっと悩んでいる、迷っている。

 童心に帰ったからこそ、自分に何ができて何ができないのか、色々と困っている。



 それなら、前進できないなら俺が背中を押してやろう。

 倒れそうなら、俺が支えてやろう。

 立っているのかどうかも分からないなら、俺が教えてやろう。

 それでもダメだと君が言うのなら、その時は共に転んでやろう。

 支えていることも、声をかけていることも、押し上げていても、それに例え気づかなくても、彼が望むその理想を、諦めるか叶えるかのその瞬間まで、俺は、付き添ってやろう。

 理想を現実にするその刹那を、俺がしっかりと傍で見届けてやりたい。

 そう、思った。



 気がつけば教室の前に着いていた俺達は時間が無くなる前に昼飯をさっさと食べるため、教室の後ろ扉を開き、入ろうとする。


 しかしそこで起こった出来事は、まるで遠く遠くにあって届かないと思っていた月が、僅かながらにこちらに近づいてきているように、スッポンは感じたのだった。

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