第5話 「胃袋を掴まれてしまった……」
エントランスで偽物ソフィアさんとの邂逅を終えたノアは、そのままエレベーターで上がり、鍵を開けて自宅の扉を開ける。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
開けた途端、スカートを摘まんでカーテシーをするリースに出迎えられ、声が詰まる。
「え、あ、はい。ただいま、です」
呼び鈴すら鳴らしてないのに、どうやって僕が帰って来たってわかったの? まさか、ずっと玄関で待っていたわけないし。
ノアが驚愕していると、リースが学生鞄へと手を伸ばす。
「お預かりいたします」
「あ、いや……」
その程度と拒否しようとしたノアだったが、にこりと微笑まれ「はい」とおずおず渡してしまう。
うぅ、どうにも笑顔に負ける。
奉仕をさせろという笑顔の圧力に、ノアは敗北することが多い。断ることに罪悪感を覚えてしまうのだ。
パウダールームにて手洗いうがいを済ませたノアは、リースを伴い自室に戻る。制服から着替えようとするのだが、学生鞄を仕舞ったリースが部屋を出て行かないのだ。
「あの、着替えたいんですけど?」
「お手伝いさせて頂きます」
恥ずかし気もなく、淡々と口にするリース。ノアにとってはたまったものではない。
「無理! 早く出て行って下さい!」
「かしこまりました。着替えについてはいずれ慣れて頂こうと存じます」
「慣れないから!」
一生、着替えを手伝ってもらうことなんてないから!
リースの背中を押して部屋から追い出す。まだ、帰ってきたばかりだというのにノアの体力的と精神的は擦り減り続けていく。
リースに着替えを手伝ってもらう自分という場面を想像するだけで、ノアの顔は羞恥で赤く染まる。
――上着を脱いで下さい。ご主人様。
「ない、ない、ないない! 早く着替えよう」
遅くなればなるほど想像が現実へと足音を立てて近付く気がして、ノアはいつも以上に手早く部屋着へと着替えるのであった。
――
部屋から出るのに若干の抵抗を感じつつも、ノアはリビングへと足を運ぶ。
既にテーブルには夕飯の準備が進められており、元々なかったはずの白いテーブルクロスが敷かれている。テーブルの中央にはキャンドルランプが設置され、高級レストランのような様相となっていた。
夕飯というよりもディナーといったほうが、印象は近いだろう。
席に案内されたノアは自宅のリビングとは思えない変わりように、お尻がむずむずして落ち着かない。
リースはワイングラスをノアの前に置くと、見た目ワインにしか見えないボトルから紫色の飲料を注ぐ。まさか学生に飲ませまいと思いつつ、ノアはリースに問う。
「あの、これは……?」
「ワインでございます」
「ちょっとぉ!?」
「くす。冗談でございます。ワインを取り扱っている有名店が販売しているぶどうジュースになります。未成年のご主人様に法を破れなどとは申しません」
「ですよね……。良かった」
「ただ、イギリスであれば十六歳で飲酒ができますので、もしかすると、間違えてワインを出してしまっているかもしれませんね」
「止めてね、ほんと」
「もちろん、冗談でございます」
ほんとかなぁ?
ノアが疑いの眼差しを向けるも、リースはすまし顔で給仕を続ける。笑顔の裏に隠された感情を、ノアでは読み取ることはできない。
心理戦では勝てないことを悟ったノアは、注がれたぶどうジュースに口をつける。
あ、おいしい。
コンビニなどで売っているような安価なものとは違い、甘さよりもぶどう本来の渋さが強い。けれど、飲みにくいということはなく、ノアは注がれていたジュースをあっさりと飲み干してしまった。
やっぱり、ワインも扱っているところだと、ぶどうジュースもおいしいのかな?
感心していると、リースが軽くボトルを傾ける。
「お代わりはいかが致しますか?」
「……いただきます」
がっついているようで少々恥ずかしくなったノアだが、素直に追加を頂くことにした。
ワインのようにグラスを回し、香りを楽しんでいるとリースが料理を運んでくる。
「本来であれば、前菜などを準備し、フルコースを提供したかったのですが……」
「止めて下さいね? おかずとご飯があれば十分ですからね?」
「無念でございます」
悔しそうにしたリースが出してきたのは、ブロックのようなお肉や野菜が黒いソースの下部に漬かっている食べ物であった。
……? なにこれ?
肉料理だろうかと思っていると、リースが驚くべき料理名を口にする。
「こちら、本日のメインディッシュ、ビーフシチューでございます」
「うそ!? シチューの要素ほとんどないけど!?」
「本当でございます」
ホワイトシチューのようにスープの多い物を想像していたノアは驚いた。
そもそも、シチューっていうの、これ? ほぼ具材がメインだけど? スープというよりはソースだけど?
疑問に思っていると、リースが簡単に説明してくれる。
「そもそもシチューというのは煮込み料理全般を指す言葉です。ご主人様のイメージは恐らくホワイトシチューでしょう。家庭で簡単に作れるような固形タイプのルーを使った物は、スープが多い物もありますが、料理としては肉じゃがに近しいものです」
「知らなかった……」
自身の記憶の常識は本当に一般常識なのか。実は大きく乖離しているのではないか。
料理一つでノアは十六年間生きて来た人生を疑い始めつつ、ナイフとフォークでビーフシチューを食べ始める。
スプーン以外でビーフシチューを食べるという発想もなかったんだけど。
とはいえ、ナイフとフォークの扱いは慣れたもの。器用に肉を切り取り口へ運ぶ。
繊維など感じさせず、舌の上で溶けるようになくなる柔らかい牛肉。しつこさを感じさせない濃厚なソースに、瞳をキラキラと輝かせる。
「おいしい……」
知らず零れた言葉。以降、ノアは黙々と食べ続ける。なにより、その行動が美味しいと雄弁に語ってた。
主が自身の料理を喜んでくれたことが嬉しく、リースの頬が緩む。主人の喜びこそ、メイドであるリースの喜びだ。
故にこそ、もっと楽しんでもらいたいとリースはパンの入った小さなバスケットをテーブルに乗せる。
「残ったソースに千切ったパンを付けて食べるのも美味しいですよ。いかがでございましょう?」
「食べる!」
元気良く返事をするノアを、慈しむように見つめながら、リースは給仕を続ける。
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