汚泥に咲く2輪の華

崎田恭子

第1話

「今日もこれだか…」

「仕方ないだろ。今はどんな状況か解ってるだろ」

「そうだよ。贅沢なんて許されない」

俺達、兄弟はほんの微量の米と数欠片のさつま芋という粗末な夕食を終えた。

今は太平洋戦争の真っ只中で軍事優先の時代だ。俺達、一般の貧困層は少量の配給での食材で賄う事しか許されない状況だった。大黒柱の父親を戦地に送り出した俺達は尚の事、貧困を余儀なくされていた。


そのようなある日、俺は稼ぐ術を見つけ出した。どうやら俺は世間で言われる美少年らしくたまに大人の男性に金銭や食い物をやるから床を共にしないかと声を掛けられた。要するに世間で変態と言われる輩達だ。こいつらを利用すればきっと家族にまともな物を食わせてやれると思った。

そして、俺はそのような変態共を相手に性行為をして様々な物を得られるようになった。最初の頃は激痛で悲鳴を上げたくなり歯を食いしばって耐えた。しかし、徐々に受け入れられるようになり俺自身も多少の快楽を与えられる事もあるから悪くないと思うようになっていった。

中には卵を10個もくれる気前の良い奴もいた。通常では貧困層が食える代物ではなかったから俺が持って帰ると家族は皆、驚愕をした表情をしていた。母さんも薄々、気付いていたようだったが見て見ぬ振りをしている。まぁ、男子だし妊娠の心配が無いからなのだろう。

 

「兄さん、最近は色々な食料やお金を持って帰ってくるけど…それってどうやって手に入れてるの…?」

母さんは次男の清の問いに顔をピクリと引つらせ聞き耳を立てていた。

「心配するな。普通に労働で得た賃金だ。何もやましい事なんてしてねぇよ」

3男の茂はまだ9歳で幼いせいか俺が食い物を持って帰ってくると喜んではしゃいでいるが12歳の清は社会情勢を少しは解っている。勘も良いせいか俺が帰ってくるといつも複雑そうな表情をしている。多分、母さんと同様で俺が何をして稼いでいるのかおおよその検討がついている様子だった。

 


あれから一年程が経過して俺も15歳になった。学徒動員で軍事工場で労働をするようになりその賃金も合わせるとそれなりの金額になった。

そう…俺はまだ、例の仕事を続けていた…


しかし、俺がそのような事をしているという噂を工場の一部の人間が聞きつけていた。大した娯楽も無い世の中がそうさせているのか人の噂を餌に楽しんでいる輩が多いらしい。工場もそんなに広くないせいか俺の噂は瞬く間に広がっていった。

「こんな所で働くより娼婦になった方が稼げるんじゃねぇか?」

「一度で幾らくらいの稼ぎになるんだよ?今度、紹介するから少し俺にも紹介料をくれよ」

中傷とも取れるような声掛けが凄まじい。中にはやっぱり変態も一人はいるらしく「金をやるから」と肩を叩きながら尻を触ってくる上官もいた。

 

その噂は自宅の近隣にまで広がりいたたまれなくなった俺は精神的に追い詰められていった。

自業自得だ…しかも家族にまで迷惑を掛けている…高い賃金を手にした代償なのだろうが被害を受けるのは俺だけで良かったのに…

俺は家族の顔をまともに見る事が出来ず毎日、俯きながら飯を食うようになった。黙認していたであろう母さんは俺を責める事はしなかった。

 

 

そのような渦中で一人の男が家を訪ねてきた。

「急だが交渉にきた」

母さんが玄関で対応している声が聞こえる。そして、二人分の足音が近付いてきた。きちっとした身なりで如何にも金持ちですっていうような雰囲気だ。

「俺は羽生龍之介だ。お前の名は何と言う?」

入るなりその男は俺に近付き突然、名を聞いてきた。

「中嶋英男です…」

「歳は?」

「15歳です」

「そうか。突然だがお前、俺の養子になれ。それなりの謝礼はする」

俺の身は売られるんだ…きっとこの男も同じ輩なんだろう…でも、これで家族には金が入り厄介払いも出来て一石二鳥じゃないか…

「謝礼をくれるなら別に構いませんよ」

今のご時世、食い減らしで子供に身売りをさせる事など珍しくはない。しかし、いきなり養子に貰いたいなど不自然過ぎる。

目的など最初から解りやすくて笑えてしまう…

「交渉成立だ。これは小切手だから受け取れ。改めて明日、迎えに来るから支度をしておけ」

「ありがとうございます!」

母さんはあっさりと頭を下げ小切手を受け取ったが清がそこに割り込んできた。

「母さん!兄さんを売るなんてこの男の目的は解っているんでしょ?!母さんは平気なの?!」

「仕方ないだろ。食いぶちを減らさなきゃならないんだよ。お前も解っているだろ」

母さんは清に対し体の良い理屈でねじ伏せた。

「兄ちゃんは何処かにいっちゃうの?そんなの嫌だ!うわぁぁん」

「茂も泣いてるじゃないか!僕も働けば生活なんて何とかなるよ!」

茂は泣き叫び清は母さんに苦言を叫び物凄い騒動になったが男は見ぬ振りをしてそのまま立ち去り母さんも後に続き男を見送っていた。

「清、あんたもいつ赤紙が届くか分からないんだよ。一人でも食いぶちを減らさなきゃ食べていけなくなるんだよ。なんたも日本男子なら少しはお国の為になる事を考えて聞き分けな」

母さんはまた、体の良い理屈で清をねじ伏せようとしている。

「母さん、それこそ日本男子の兄さんに身売りなんて…」

「はぁ…あんたも解ってるだろ。こうするしか無かったんだよ…母さんにそこまで言わせないで!それに茂だって近いうちに学徒疎開で地方に行く事になっているしあんたに赤紙が届いたら母さんは一人になるから再婚を勧められてるんだよ…父さんからはなしのつぶてで生死なんて分からないしね…」

「ごめんなさい…」

状況を飲み込んだ清は仕方ないとばかりに押し黙った。

「茂、清、兄さんは大丈夫だから母さんと一緒にいられる日まで母さんを二人で守ってくれ」

俺は弟二人を宥めるようにそして、母さんを二人に託すように言い聞かせた。

「兄さん…兄さんばかりに…辛い想いをさせて…ごめんなさい…」

清はこの時、初めて涙腺を緩ませた。。それに吊られ茂も再び泣き出し俺自身も家族と別れて暮らす事が辛くない訳ではなく本音は俺も泣きたかった。しかし、日本男子が泣くなどもっての他で流れそうな涙をぐっと堪えた。母さんの表情もいつになく悲しげでじっと耐えている事が見た目にも解る。そして、俺は清に長男として一喝飛ばした。

「清、日本男子がいつまでも泣いているんじゃない!泣いていいのは女、子供だけだ!」

「兄さん、そうだよね。日本男子が泣いてはいけないよね…」

「俺も日本男子だからもう泣かない!母さんは俺が守るから大丈夫だ!」

茂は鼻水と涙でぐちゃぐちゃになった顔を袖で拭き立ち上がると仁王立ちになり突然、叫び自分自身に発破を掛けていた。それを見た清も手の甲で涙を拭っていた。

そして、今日の夕飯は以前、俺が貰ってきた白米で母さんが握り飯を作ってくれた。いつになく豪華な夕飯に茂は目を見開き瞳を輝かせていたが清だけは複雑そうな笑みを浮かべていた。

 

 

翌朝、早い時間から羽生と名乗っていた男が迎えに来た。

俺は家族に玄関で挨拶をして荷物を担いぎ踵を返した。

「英男!ごめんね…」

母さんは悲痛な声で叫んでいた。玄関を見ると母さんが今にも泣き崩れそうになっていた…

「母さん…俺の方こそごめん…」

俺は再び向き直りこの場を離れた。家の前には運転手らしき男が自動車の扉を開け待ち構えていた。この人は相当な金持ちらしい。

家の中からは母さんが嗚咽する声が聞こえてきた…

気丈に振る舞っていた母さんもやはり女だったのだと今更ながら気付いた…

俺は少しの間、立ち止まり2度と帰れない我が家を見詰めていた。

母さんとの会話や清と兄弟喧嘩をした事、甘ったれな幼い茂との思い出が走馬灯のように流れていく…

「早く乗れ」

羽生は何時までも立ち尽くし動かない俺に業を煮やしたらしく訝しげに声を掛けてきた。

しかし、俺は初めて乗る自動車という乗り物に気分が少し浮上してきた。あいつらにも乗せてあげたいなぁ。きっとはしゃいで喜ぶだろうなぁ…再び、清と茂の事が甦る…そのような想いに更け俺は終始無言でいた。

 

羽生の家…いや、屋敷に辿り着くと運転手はドアを開き羽生に「お疲れ様でございます」と言い深々と頭を垂れていた。羽生も「ご苦労」と一言だけ告げると玄関へと向かっていった。辺りを見渡すと初めて見る光景が広がっていた。

庭には大きな池があり一匹幾らするのか予想も出来ないような鯉が数匹、気持ちよさそうに泳いでいる。塀も高級そうな石造りで地面には玄関に沿って石畳が並んでいる。それに綺麗に整えられた植木や盆栽も並べられていたがそれよりも目を惹いたのは見た事も無い立派な灯籠だった。俺が庭の光景に見惚れていると羽生はそんな俺を目を細めながら眺めていた。

「立派な庭に驚いたか?だが、もうそろそろいいだろう。中に入るぞ」

「はい」

俺は羽生に促されるまま家の中へ入った。そして、羽生の背後に続き廊下を歩いて羽生の自室であろう座敷へ入った。

「あの…俺は、何をすればいいんですか…?」

最初から解っている問いをしてみる。

「お前は俺と床を共にすればいい」

やっぱりな…養子とかって体の良い口実だったんだ。最初から解ってはいたけど…俺の身体はこの人に買われたんだ…

「お前は今日から羽生英男だ」

「何で俺を養子なんかに…」

そして、再び核心に迫るように問う。

「俺には子供がいねぇ。という事は跡取りがいねぇ。だから、お前を養子にして俺の息子にした。」

本当にこの人は俺を養子にしたかったらしい…そうか…もう二度と会えなくなるからあの時、母さんはあんなに嗚咽していたんだ…

「どうした?母親が恋しくなったか?」

「はい…」

俺が思わず本心を口にしうつむいていたら羽生は…いや、父親になる人は俺の身体を両腕で包み込んだ。

「これからは俺の事を実の父親だと思え。まぁ、年齢はお前の父親よりかなり若いがな」

父親は俺を包みながら優しく囁いた。久し振りに何か暖かいものを感じていた…そういえば俺は父親になるこの男の事は名前しか知らない事をふと思い出す。

「あの…俺、貴方の事は名前以外何も知らないんですけど…」

「そうか…何も聞かされていないのか…仕方ねぇ、全て教えておく」

この人の年齢は28歳で俺とは13歳しか変わらない。父親って言われてもなぁ…そう考えていると彼は煙草と言われている乾燥させた葉を細長く紙に包まれた物に火を着けそれを吸いながら話しを続けた。彼は若手の実業家で今の資産は俺が一生掛けても恐らく稼げない程の膨大な額で聞いた途端、俺は目眩を起こし頭がくらくらした。この屋敷で働いている女中も10人以上いてお抱え運転手までいる。そうか…さっき、自動車を運転していた人か…

「今日はお前が我が家の跡取りになった報告を兼ねて祝いをする。そのみすぼらしい格好をどうにかしなければならねぇ。女中に適当に見繕ってもらうからお前は着替えろ。俺はこれから商談に行く。お前の事は女中に任せておくから安心しろ」

彼は…いや、父さんと呼ぶべきか…は、俺にそう告げると座敷を後にした。女中達の「いってらっしゃいませ」という言葉が飛び交いその後、一人の女性の「失礼致します」という声と共に襖が開いた。

「英男様の事は女中の取り締まり役である私が旦那様に承っております。先ずは風呂を炊きましたのでお体をお清め下さい。お召し物はその間に準備致します」

「はい…えっ…でも…」

「風呂場の場所でございますね。私がご案内致します」

いきなり、英男様…?!こういうのを何ていうんだっけ…?棚からぼた餅って言うんだっけ…俺は自身が置かれている立場の急展開に戸惑いながら風呂場へと女中に促され歩みを進めていった。女中が風呂場の扉を開けるとやはり高価な木材で作られた浴槽があり何か見た事も無いような物が置かれていた。女中は一つずつ丁寧に俺に説明していった。

「それではごゆるりとなさって下さいませ」

すっげぇ…辺りを見渡しながら服を脱ぎ捨て恐る恐る浴槽に入った。すっげぇ、いい香りだ…確かこれって檜ってやつなんだろうなぁ…母さんやあいつらにも入らせてやりたいなぁ…きっと喜ぶだろうなぁ…また、俺は家族の事に想いを馳せていた…いかん、いかん!日本男子とあろうものが何時までも意気地が無いぞ!最終的に養子になる事を選んだのは俺自身じゃないか!俺は身を引き締めるように湯で顔をばしゃばしゃと洗った。そして高級そうな石鹸と手拭いで頭から足の爪先まで洗い、桶で湯を掬い一気に頭から湯を掛けた。風呂場から出ると俺の為に用意されたであろう浴衣で身を包んだ。廊下を歩いていると数人の女中が俺に深々と頭を下げてくる…その光景に俺は再び戸惑いそそくさと座敷へ急いだ。

「失礼致します。お昼食の準備が整いました。旦那様からのお達しで英男様が空腹だろうとの事でお持ち致しました」

えっ…今度は昼食とか言ってるぞ?!そんなもん初めて食うぞ?!

「あっ、はい、どうぞ」

俺がそう返すと女中は襖を開け様々な食い物が乗せられた四足のお盆のような物を置いた。

「食べ終わりましたら襖の前に置いて下さいませ。では、失礼致します」

「あっ、はい、頂きます」

えっ…俺はお盆に乗せられた食い物を見て再び驚愕をした。白飯がデカい茶碗にてんこ盛りだしこんな分厚魚の開きなんて初めて見たぞ…豪華すぎるだろ…俺、夢でも見てるのか…俺は右の頬を強く捻ってみた。いってぇ!どうやら夢ではないらしい。俺は誰もいないのに仰々しく正座をして独り言のように「頂きます」と手を合わせて飯を食い始めた。

うっめぇ!何だこれ?!俺は一口食うとあまりの旨さに次から次へと味噌汁や煮物や漬物にも食いついた。そして全てを食い尽くした頃には腹がぱんぱんになっていた。食い終わったら確か、ここに置くように言ってたな…俺は食い尽くしたお盆のようなやつを襖の前に置いた。

こんなに腹一杯食ったのは初めてかもしれない…何か眠くなってきた…漸く落ち着いた俺はそのまま横になり寝落ちしていた。

 

「おい、寝てんのか…英男!帰ったぞ!」

あれ…誰かの声が聞こえる…羽生さん、いや、父さんが帰ってきた!

「ごめんなさい!寝てしまいました…」

「いや、それは別に構わねぇ。ここはもうお前の家だ。好きにしろ。そろそろ宴会が始まる時間になるから起こしただけだ。女中に準備をさせているからお前は袴に着替えろ。それと敬語は使うな。親子なのに可笑しいだろ」

「はい…分かりました…いえ、父さん、分かった」

「父さんか…悪くねぇな…これからもそう呼べ」

そのような会話をしていると女中の呼ぶ声が聞こえてきた。

「失礼致します。英男様、身支度の準備が整いましたので部屋へお越し下さいませ」

「行ってこい。俺は大広間で待っている」

「はい、行ってきます」

「敬語は止めろと言ったはずだが」

「ごめんなさい…」

いきなり敬語を止めろと言われてもなぁ…普通に話せば良いのだろうけど如何せん俺は育ちが悪い…敬語無しで上手く話せる自信が無い…

廊下を歩いていると女中は座敷の並びにある小部屋の襖を開いた。

「此方でございます着付けはこの者が致しますので私はここで失礼致します」

部屋に入るとおばあちゃんのような年齢の人か立っていて俺に頭を下げている。此処には着物簞笥が一つだけ置かれ他には何も置かれてなかった。

「着付けは私がさせて頂きます」

「はい…」

俺は羞恥から少し戸惑ったが浴衣は脱いだ方が良いのではとふんどし一丁の姿になった。そのおばあちゃんのような人は即座に着付けを始めあっという間に俺は袴姿になった。おれが襖を開け何処に行ったら良いのか戸惑っていると再び女中が小走りになり駆け付けた。

「申し訳ございません!直ぐにご案内致します。さぁ、此方へ」

「あっ、いえ…」

何か調子が狂うなぁ…俺は女中に促されるまま歩みを進めたが女中の対応のしかたなど無縁で未だ終始、緊張しっぱなしだ。まぁ…昼寝を除いてだが…


「英男、なかなか風格があるぞ」

「いや、父さんの方が格好いいよ」

父さんの言葉に俺は照れながら頭を掻きしどろもどろの状態になっていると父さんから一言告げられた。

「おどおどするな。堂々としてねぇと足元掬われるぞ」

「はい!日本男子たるもの堂々とします!」

「それでいい。その心意気を忘れるな。お前はなかなか度胸がありそうだ。俺が見込んだだけの事はある」

「はい!分かったよ、父さん。堂々としていればいいんだね」

俺はふと父さんの姿に見惚れていた。長身で肩幅が広く袴姿がよく似合っていて格好いいなんてもんじゃない。

「何だ、じっと見詰めて。俺の顔に何か付いているのか?」

「いや、格好いいなぁって」

「そうか…お前も俺くらいの年齢になれば今以上に風格がどっしりとしてくるぞ」

父さんの顔を再び見ると口角を上げ笑みを浮かべていた。父さんの笑った顔って初めて見た…

 

辺りを見渡すと大物であろうそうそうたる人物が顔を並べていた。そのなかには俺も新聞紙で見た事がある政治家もいた。俺が緊張から正座をして身を固めていると再び父さんから叱咤された

「おい、日本男子が正座などするな。堂々とすると自分で言ったばかりじゃねぇか」

「はい…」

俺は父さんに言われた通りに足を崩しあぐらをかき背筋を伸ばし正面を見据えた。

「ほう…見違えたな。なかなかの男っぷりだ」

父さんは横目で俺の姿を眺め安心しきったように顔をほころばせていた。

参加者が揃ったであろう頃にはこの場に静けさが訪れた。

「本日はご多忙な中、お集まり頂きありがとうございます。本日、お集まり頂いた件ですがこの度、養子を据え私の跡取りになる息子を紹介したく願った次第であります。私の横に座る者は羽生英男、15歳になります。今後ともお引き立ての程、宜しくお願い存じ上げます」

父さんが俺を紹介し頭を垂れると俺は雰囲気を感じ父さんと共に頭を下げた。

「僭越ながら乾杯の音頭を取らせて頂きます。乾杯!」

「乾杯!」

父さんが一声掛けると一同は盃を手に取り高く掲げた。

その後は皆、盃を交わしながら目の前に盛られた酒の肴に舌鼓を打っていた。周囲のざわめきで漸く緊張感が解れた俺は再び、目の前にある料理に釘付けになっていた。生の魚のような物を箸で取りこれが刺し身という物なのかと物珍しそうに眺めていると父さんに声を掛けられた。

「お前は酒を飲んだ事はあるのか」

「酒なんて見た事も無いかも」

「そうか、だがお前は男だ。酒ぐらい飲めなければいざという時に困る。少しずつ訓練をさせる。その盃の酒を飲んでみろ」

俺は父さんに勧められ盃に入った酒を一口だけそっと飲んでみた。

「旨いです。酒ってこんなに美味かったんだ」

「ほう、その歳で酒の旨さが解るとは上出来だ。もう少し飲んでみるか?」

「はい、頂きます」

父さんが銚子から俺の盃に酒を注ぎ再び飲んでみた。

「今日はこれで止めておけ」

「まだ、飲めそうだけど…」

「いや、良い潰れでもしたら折角の宴が台無しになる。お前はあの辺の連中に酌をしてこい。大物政治家の連中だ。お前は先ず顔を覚えてもらえ。それと忠告だが余計な事は絶対に喋るな。何か聞かれたら解らないと言ってはぐらかせ」

「分かった。行ってくるよ」

父さんが指で指し示している先を見ると確かに俺みたいなガキでも知っている政治家が顔を連ねていた。銚子を持ちその人達がいる場所に歩み寄った。

でも…風格が凄い…緊張してきた…いや、やるしかねぇ!

「あの…お酌をしにきました…あっ…えっと…」

「あぁ、英男くんだったかな?」

「はい!宜しくお願いします!」

俺は中腰になった姿勢から立ち上がり深々と頭を垂れた。

「今日は無礼講だ。堅苦しい挨拶などしなくていいよ」

「はい、どうぞ」

この人って確か大蔵大臣だったかなぁ…新聞紙で見た事がある。かなり酔ってるみたいだなぁ。そうそう、余計な事は喋るなって言われてるんだ。気を付けなきゃ…

「君は一体どういう経緯で養子になったんだね?」

「あの…以前、暮らしていた親には何も聞かされていませんのでよく解りません」

それは事実だ。本当に俺は全く解らない。

「そうか…実の父親の名は?」

不味い…!何て答えたらいいんだ!はぐらかせと言われても父親の名を知らないとは言えない!

「あの…えっと…」

「父親の名はいくらなんでも解るだろ」

余計な事を言っては駄目だ…でも、どうしたら…

「すみません。里心がつくと厄介なのでこの辺で勘弁して頂きたい」

背後を見たら父さんが中腰になりこの政治家に声を掛けていた。助かった…

「そうだな…まだ15歳だからな…里心がついたらあんたもやりにくいだろうからな」

「お前は戻ってろ。後は俺が何とかする」

「はい…」

もたついてる俺に業を煮やしたのかもしれない…不甲斐ない…

俺は料理を口に運びながらその場を濁し父さんが戻ってくるのを待っていた。


「済まなかった。だがよく耐えたな。お前にはまだ、早かったようだ。次からは俺が付く事にする。ここにいる輩は俺を貶めようとする野郎ばかりだ。そのような環境だという事だけは覚えておけ。絶対に気を抜くな」

「はい、でも俺に出来るかなぁ…」

「俺はお前の才覚を信じている。でなければお前を養子になどしていない」

「買いかぶりすぎだよ」

「お前は数年前からある手段を使って上手く稼いでいたらしいじゃねぇか。人を見極める判断能力が無いとそれは上手くは出来ねぇ。お前は自分で気付いてないだろうがどうやら人心掌握にも長けてるみてぇだ」

「何でそんな事…っていうか人心掌握ってどういう意味なんだよ?俺は学が無いから解らない…」

「人の心を掴む能力だ」

「俺にはそんなもん無いよ…大体、金を稼ぐ為に必死だっただけだし…」

「そこだ。己の力で金を稼ぐ術をお前は既に身に付けている。お前、金になりそうな奴を取捨選択していたんじゃねぇのか?」

「確かに…誰にでも声を掛けるって訳じゃなかった…」

「だろうな。だからお前の能力を見極めた。お前は己の能力を信じろ」

「はい、頑張ります!」

父さんは俺の能力を信じるって言っているけど買いかぶりすぎだ…本当に生きていく為だけだったんだ…それにしても凄いなぁ…色々と難しい言葉を知っている…きっと大学も出ているんだろうなぁ…

でも、金持ちの生活って良い事ばかりって浮かれていたけど大変な所の養子になってしまったんだ…俺は少し怖くなってきた…

何か酔っ払いの大人ばかりだ。話しに夢中になっていて気付かなかったけど芸者みたいな女の人もいたんだ。初めて見たけど綺麗だなあ…

「お前は男を相手に稼いでいたみてぇだが女の方が好きか?」

「いや、解らない…ただ綺麗だなぁってこんな華やかな人達って初めて見たから…」

「そうか、確かにそうだな。俺の嗜好とは異なるが」

「あの…父さんてお嫁さんは貰わないの?」

俺は父さんの嗜好に何かが引っかかり立ち入った事を聞いてしまった。

「俺は独りの方が楽だから嫁など面倒なもんはいらねぇ」

「へぇ、親族は何も言ってこないの?」

「言わせねぇ。余計な事を言ってくる奴は追っ払ってる」

所帯を構えて子宝って世間の常識を無視するなんて凄いひとだなぁ。世間では産めよ、育てよって騒いでるのにこの人は常識に囚われない人なんだ…でも、資産家でしかも黙ってても女が寄ってきそうな風貌なのに軒並み蹴ってるって事なのか…?

「そろそろ終いにするぞ」

そういうと父さんは立ち上がり皆に改めて挨拶をした。

「今日はお忙しい中、お集まり頂き恐悦至極に存じ上げます。そろそろ、一本締めで終いにしたく存じます」

皆が立ち上がり父さんの合図でパン!という手を叩く音が大広間に鳴り響いた。

その後は父さんに連れられ玄関で参加者を見送った。やっぱり親族からは冷ややかな眼差しを注がれ俺はいたたまれなくなり俯いていた。

「お前が落ち込む必要なんてねぇ。俺が決めた事だ。何人たりとも文句はいわせねぇ。大体、俺が立ち上げた会社だ。俺が何をしようが自由だ。暫くは風当たりが強いかもしれねぇが適当に流しておけ」

やっぱり、思っていた以上に世間は厳しい事を改めて痛感した。適当に流せって言われたけど怖いなぁ…

 

「俺は風呂に入ってくる。お前は寝巻に着替えて床を温めておけ」

「えっ…」

「先に床についておけって意味だ」

「はい…」

俺は既に用意された寝床に入り父さんを待っていた。今は冬真っ只中だ。寝心地を良くしておけって事か…

暫く待っていると父さんが戻ってきて俺が既に横になっている場所に入ってきた。何故か意識してしまい背を向けて横になっていたらいきなり腕で俺の身体は引き寄せ抱き寄せられた。俺は反射的に身体が跳ね心臓の鼓動が早くなった。

「やはり、子供の体温は温かいな」

父さんはそう呟くと何もせずに寝息を立てていた。

暖かい…何年振りだろう…俺も父さんの体温でいつの間にか眠りに落ちていた。

 

朝目覚めると何も変わった部分は無かった。本当に床を一緒にするだけだったんだ…

「今日は商談に行くがお前も連れて行く。そこでやり取りを聞いて取り引きを学べ」

「はい…でも、俺は学が無いから難しい事は多分、解らない…」

「安心しろ。勉学は俺が教える。今日は取り引き先の相手と俺の会話を聞いていればいい」

玄関の外にはお抱え運転手が既に自動車の扉を開け俺達を待っていた。俺達が後ろの座席に座ると運転手は一礼をしてパタンと静かに扉を締めた。

 

取り引き先の会社の偉そうな人と居間のような部屋で対面をする。女中らしき女性が茶を差し出し一礼をして去っていった。

緊張してきた…でも、黙って話しを聞いてるだけでいいんだよな…

しかし、この男はいきなり俺に視線を移した。

「君はこの男の後継者なのか?」

「はい…そういう事になっているみたいです…」

俺は咄嗟の言葉に何て答えるべきか解らず戦々恐々とし口から出任せのような事を口にした。

父さんが横目で睨むような視線を俺に向けている。不味い事を言ってしまったのか…俺は一度、深呼吸をして言葉を改めた。

「はい!俺…いえ、自分は羽生家の後継者です!宜しくお願いします!」

上手くいったか…父さんの表情を見るとどうやら正解だったようで微かに笑みを浮かべていた。

「15歳だったか?なかなか、しっかりしているようだな」

「ありがとうございます。しかし、至らない部分が多々ありますのでよく躾けておきます」

その後は俺にとっては難解な仕事の交渉とやらを父さんと取り引き先の人は話していた。

 

家に帰ると父さんは座敷で仰向けになり寝転んでいた。俺は少し小腹が空いて卓袱台に置いてある菓子を摘んでいた。

「午後からは現場に行くからお前はそれまでにその空いた腹を何とかしておけ。女中に頼めば握り飯くらいなら直ぐに用意してくれる」

「はい、また、俺も行くの?」

「当たり前だ働かざる者、食うべからずだ」

「はい…」


工場の現場に行くと俺と同じ位の男女が寸暇も惜しまず働いている光景を目の当たりにした。奴らは俺を恨めしそうな表情で眺めていた。俺は居心地が悪くなり伏し目がちで俯きながら歩いていた。

「おい、英男だよな?」

「えっ…?」

声がする方向に視線を向けると国民学校の同級生だった。

「あぁ、元気そうだな」

俺は今の立場でどう言葉を返したら良いのかが解らず適当に頭に浮かんだ言葉を放った。

「あぁ、お前はそんな成りをして一体、どうしたんだ?」

「養子縁組でな…」

「そうか…お前はついてるよな。俺は見ての通りだよ」

同級生は小綺麗な成りをした俺をやはり恨めしそうに見ていた。

「もう、行くぞ」

俺が同級生に対する返答に困っていると一歩先で待っている父さんに急かされ「またな…」という言葉を残して同級生の元から去った。

「お前の馴染みか?」

「うん、国民学校で一緒だったんだ」

「そうか…だが、視線が合ってもなるべく知らない振りをしろ。その方が互いの為だ」

「うん…そうするよ…」

俺も父さんの言っている事は正しいと思った。さっきも父さんに急かされて正直、助かった。同じような境遇だった人間がいきなり金持ちの養子になったなどと知ったらたまったもんじゃない。嫌味の一つでも言いたくなる。

 

あれから俺達は自動車に乗り家路へと急いだ。

「今日は風呂でお前に背中を流してもらいたいんだが」

「いきなり、どうしたの?」

「男同士、たまには背中を流し合うのもいいだろう」

本当にいきなり何だろう…俺は父さんの唐突な申し出を不可解に感じながらも返事をした。

 

あれから屋敷に辿り着くと既に風呂の準備が整えられていた。

「英男、風呂に入るぞ」

「うん、分かった」

俺は父さんの背後を歩きながら風呂場に向かった。互いに衣服を脱ぎ風呂場に入る。やっぱり、凄く逞しい体つきだ。大人の風格があり正直、羨ましいと思った。

湯船に入ると父さんは今日の俺についてあの場はこうすべきだったという教養を語り始めた。はっきり言ってよく解らないというのが本音だと言うと少しずつ身に付ければ良いと珍しく優しい口調で言ってくれた。血縁では無いが父親ってこのようなものなのかと何となく感じた瞬間だった。俺の実の父親は俺がまだ茂と同じ位の頃に徴兵され戦地に行ったきり音信不通だったから父親がどのような存在なのかイマイチ解らなかった。

その後、父さんは立ち上がり湯船から出た。

「英男、背中を流してくれ」

「あっ、うん」

俺は湯船から出ると手拭いに石鹸を擦り付け父さんの広い背中を丁寧に洗った。

「英男、今度はお前の番だ」

そして、俺が背中を向けると父さんは俺の背中を丁寧に洗ってくれた。

そして、互いに桶で湯を掬い身体を流した。

風呂場から出て浴衣を着ようとしていたら父さんの視線を感じ振り向くと俺の上半身から腰の辺りをなぞるように眺めていた。一瞬、ゾワッと悪寒が走った…だが、気のせいだという事にする…

 

夕飯も終わり何時ものように同じ寝床で眠った。俺は緊張感が解れると同時に疲労感が襲いいくらも断たないうちに眠りに落ちた。

「ひっ!」

眠っていると突然、耳元にナメクジが這ったような感触があり思わず声を上げてしまった。

えっ…?この感触…記憶にある…まさか…恐る恐る父さんの顔を横目で見ると息が掛かる程の距離に父さんの顔があり視線がぶつかった。

「どうしたの…」

「お前は商売の為だけで大人の男を相手にしていたのか?」

「何でそんな事を聞くんだよ…」

その後、首筋にナメクジが這ったような感触が再び訪れた。

「止めろ!何でそんな事をするんだよ…」

「嫌か…?」

「嫌だ…貴方も俺の事をそういう目で見ていたんだ…それが目的だったんだ…」

俺は自分が性の捌け口のような存在でしかないと感じて悲しくなり涙が溢れた。

この人も奴らと同類だったなんて…風呂場での視線は気のせいなんかじゃなかったんだ…

「済まない…だがそんなものは二の次だ。俺の本来の目的は最初言った事に相違ない」

父さん…いや、この人は俺の肩に触れようとしたが手で振り払い跳ね除けた。

「触るな!もう…顔も見たくない…俺はこの家を出ます。借金は少しずつでも返していきます」

「英男、本当に済まなかった。俺の辛抱が足りなかった…」

「そうか、だから貴方はお嫁さんを貰わないんだ。男の方が好きなんだろ?」

「まぁ、違いねぇ…最初話した事も事実だがこれも事実だ。正直に話すから聞いてくれ。実はある筋を使って英男の事を調べさせた」

「何で…?」

「お前が欲しかったからだ」

「へぇ、だったらお願いがあります」

「願いって何だ…?」

「俺の身体を買ったんだろ?何回か床を一緒にするからそれで借金をチャラにして下さい。そんなもんじゃ足りないかもしれないけど…それで俺を開放して下さい」

俺はこの人を信じていたのに…騙された…その想いばかりが頭を駆け巡った。

「英男、もう何もしないからそんな事を言うな。俺といたくなければ他の部屋を用意させる。嫌な想いをさせて本当に済まなかった…仕事も暫くは休んでいて構わねぇ」

俺は何も言わずにこの人から離れて眠る事にしたがこのような事があった後で眠れるはずもなくそのまま朝を迎えた。

「女中にはお前が里心がついたから暫く独りにさせると話しておいた」

なんて勝手な人なんだ!出たいと言っているのにふざけんな!

「失礼致します。英男様、お部屋の準備が整いました」

俺は挨拶もしないで無視をするかのように座敷を後にしたけどあの人自身も何も告げる事は無かった。部屋を用意したと言っても座敷の隣にある空き部屋で側にいる事は変わらなかった。暫く経つと俺の事が気になったのかあの人は部屋を確認するという体で部屋を除きこんだ。

「声くらい掛けて下さいよ。驚くじゃないですか」

「そうだな…済まない…だがお前を襲いに来た訳ではねぇ。これだけは信じてくれ。本当に今後は何もしねぇ」

「盛りがついた年頃の男の言葉を信じられると思いますか?この部屋、鍵をつけてもらえます?」

俺はこの人に対して今度は悪態をつく事にした。そうすれば俺に愛想をつかして開放してくれるかもしれない。

「お前、俺に愛想をつかされるようにわざとそんな事を言っているんだろ」

「えっ…」

「ガキの思考など直ぐに察しがつく」

バレていた…?やっぱり、この人には敵わないのか…ていうかこの人は大人だしガキの俺が何を考えているのかなど手に取るように解るのかもしれない…

「そうか…そういう事だったら俺にも考えがある。もう開き直る事にした。そうだ、俺はお前が欲しい」

何か…怖い顔をしている…絶対に何かされる…

この人は襖をピシャッと閉め俺に近付いてきた。

「ごめんなさい…お願いだから止めて…」

「止めねぇよ」

「大声出しますよ!」

「大声を出しても俺が躾の為に仕置きをしたと言えば済む事だ。男同士だし淫らな事をしたなど想像する奴は少ねぇからな」

「本当に止めて…」

俺が後退り逃げようとしたらこの人は俺の身体に馬乗りになった。そして、俺の浴衣の帯を外して素っ裸にされた。

「嫌だ…止めて…お願いだから…」

俺の目から涙が零れ落ちたがこの人は構わず俺の大事な部分を握り上下に動かし始めた。心とは裏腹に身体は反応し直ぐに硬くなってしまった。そして、それをこの人は口に含んだ。

うっ…!俺の中から体液が放たれた事を感じた。それをこの人はそのまま飲み込んでいた。その後はお決まりのようにこの人は俺の狭い中に入り自身の性欲を放った。久々だったが俺は受け入れられたようだった…尻からドロドロとした物が流れてくる不快感…あの頃を思い出す…

「今日からお前はまた、座敷で寝ろ」

俺は暫く放心状態になり身体を横たえていた。何か会話をしている声が聞こえてくる。

「何やら物音のようなものが聞こえてきましたが…それと悲鳴のような声も…」

「聞き分けがねぇから躾の為に仕置きをしただけだ」

仕置き…?俺は何も悪い事なんてしていないのに仕置きをされた…?おかしいだろ…俺は悲しくなりそのまま伏せて泣いていた。涙が止まらない…母さん…助けて…

 

「英男、今朝は本当に済まなかった…あのような事をするつもりは毛頭無かった。謝って済まされる事では無いが…」

「もう…いいです…好きにして下さい…俺は貴方に買われた身ですから…もし今、お望みなら処理しますよ?」

彼は俺に歩み寄り手を上げた。また…始まる…

パシッと音が聞こえると同時に左頬に痛みが走った。殴られた…?

「馬鹿野郎!てめぇを安く売るんじゃねぇ!確かに俺はお前を金で買った。だが、そんな事の為だけじゃねぇ。そのような事は二度と口にするな!」

「えっ…」

「お前、朝飯を食わなかったみてぇだな。用意をさせるからきちんと食え」

俺は打たれた頬を擦りながら呆然と襖を眺めていた。俺は彼が何を言いたいのかがよく解らなかった。金で俺を買ったと認めたくせに自分を安く売るななんて…

 

その日の夜からまた、言いつけ通りに座敷で床を共にするようになった。どうせまた始まるのだろうと思っていたが俺を腕で引き寄せるだけで他には全く触れてこなかった。そして、俺もそのまま眠りに落ちていった。

 

「あの、昨日はごめんなさい…」

俺は朝、目覚めると開口一番で彼に告げた。

「お前は何を侘びている?何も悪い事はしてねぇだろ。今日も商談に行くがお前はどうする?」

「行きます…」

一昨日の夜はあのような事があったのに心は妙に落ち着き彼に対して素直になっていた。

 

 

この日の夜も床を共にしたが昨夜と同様で俺の身体を引き寄せただけだった。

その翌日も…その翌日も…

 

ある日の夜、背中に硬い物が当たるから何気なく触れてみた。

「そんな事はしなくていい」

と手を払い除けられた。全く意味が解らない…

 

俺も男だからたまに処理をしたい時がありわざと彼に抱き付きそっと自分の唇を彼のそれに重ねてみた。するといきなり俺の後頭部を掴み唇を押し付けてきた。

「お前から来るなら俺は一向に構わねぇ。むしろ歓迎する」

彼はそう告げると再び唇を重ね舌で俺の口腔を舐め回した。快楽で俺が呆然としていると彼は俺の浴衣の帯を外し自身も裸になり身体を重ねてきた。

俺は初めて本物の堪能というものを知った。ついこの間までは金や食料の為だからと辛抱をしてされるがまま受け入れていた。皆も性の捌け口にするだけだったから乱暴に扱う奴が多かった。中には男が相手なら妊娠の心配が無いからといって受け入れ体勢など全く無い状態で入れてくる奴もいた。痛みでヒリヒリとして触れるとやっぱり出血をしていた。暫くは大便の時は痛くて苦労した。本物の変態連中もいて俺をひいきにしてくれたおじさん達もいてやっぱり金持ちが多くて高価な食料や多額の金銭を貰える事もあった。それに味を占めてしまった俺は今、考えると浅はかだった。そのせいで家族に迷惑を…そのような事を振り返りながら俺は彼に抱かれていた。それ程今の状況との落差があった。

この人は金で俺を買ったがあいつらとは違う…俺を快楽へと導いてくれて身勝手なやり方はしない…

「今更だがずっと俺の息子でいてくれ」

「でも…悪いんだけどもう父さんとは呼べない…龍之介さん…」

「そうだな…」

「でも、表向きには息子でいます。その方が貴方にとっては都合が良いでしょう」

「あぁ、済まない…」



俺の今の年齢だと本来なら国民学校で学ぶはずなのだが学徒動員で俺達、10代の国民も軍事工場や田畑の労働を余儀なくされ女子もお国の為に工場への労働を強いられていた。その為か文字の読み書きも満足に出来ない者達が多い。そのような中で龍之介さんに問われた。

「お前は文字の読み書きや数字の計算は出来るのか?」

「正直言ってあまり出来ないかも…ひらがなを読んだり簡単な足し算や引き算位かなぁ」

「そうか…明日から生きていく為に必要な勉学を俺が教える。会社経営にも必要な事だからしっかり学べ」

「はい、でも大丈夫かなぁ…」

「心配するな。お前なら出来る。お前は頭が悪くねぇみてぇだからな」

「うん、頑張ってみるよ」


 

その翌日から龍之介さんの手解きで勉学が始まった。最初は漢字の訓練で紙と鉛筆を持ち1から漢字の練習をした。それを終えると振り仮名が書いてある簡単な小説を声を出して読んだ。龍之介さんはさっきから小さな刃物で鉛筆を削っている。俺は文字を読む事になかなか慣れずつかえながら読んでいるが龍之介さんは黙って聞いている。

「少し休憩だ」

切の良い部分であった為か龍之介さんに声を掛けられた。そこで俺はふと疑問に思った…健全な男子が何故、徴兵されないのかを…

「あの、龍之介さんはお国の為に戦わないの?」

「俺は産業に携わる人間だから徴兵は免除されている」

「えっ…どういう事なの?」

「どういうって言ったままの意味だ。お前も俺の後継者として免除されるから安心しろ」

俺は徴兵され敵地へと向かった父親を思い出した。格差社会…彼は父さんとは違う人間なんだ…金持ちは国に守られている…貧乏人は捨て駒なんだ…

「何を考えている…」

「格差社会について…金持ちは守られる…」

「余計な事は考えなくていい。お前は自分のやるべき事に集中しろ」

「貧乏人は捨て駒…」

「余計な事は考えるなと言ったはずだ!」

「あいつらもいつかは徴兵されて戦地に行くんだ…そんなの嫌だ!」

「英男、近いうちに日本は負けて戦争は終わる」

「何でそんな事が解るの?龍之介さんは非国民だ!大日本帝国が負けるなんてあり得ない!」

「非国民でも構わねぇ。事実を言ったまでだ。日本の軍事費用などもう底を尽きている」

「それじゃ、何の為にみんな死んだんだよ…おかしいだろ!」

一体、何の為に父さんは死んだんだよ…俺の心の中は混乱と悲しみでいっぱいになっていた。

「英男、お前の気持ちは解らなくはねぇ。だが、殆どの日本男子は徴兵されている。お前の父親だけじゃねぇ」

「そうだけど…」

「お前だけが特別な訳じゃねぇって

事を知れ」

俺は頭では解っていたがどうしても納得する事が出来なかった。あいつらはどうしているのだろう…今も家にいるのだろうか…母さんは元気で過ごしているのだろうか…日本が負けたらこの国は米国に支配されるのだろうか…そんな事が頭の中を渦巻いていた。

「続きを始めるぞ」

「はい…」

 

今夜も俺は龍之介さんの腕に抱かれている。最近では俺からも求めるようになり自分から寄り添うようになった。快楽が頭をもたげる…この時だけは嫌な事を全て忘れる事が出来る。

「英男、お前を愛している…ずっと俺の側にいてくれ…」

龍之介さんは俺の髪を手ですきながら囁いた…普段は冷酷に感じるのにこの時だけは優しい…本来は凄く優しいのかもしれない。勉学や仕事の時は俺を一人前にする為に必死だから厳しくなるのだろう。

「俺も龍之介さんの事が好き…」

「そうか、互いに幸せになろう。戦争が終わったら外国に行ってみてぇな」

「外国…?何処に行きたいの?」

「色々な国を旅してみてぇ。その時はお前も連れていく」

「そう考えると楽しくなってくるなぁ」

「あぁ、楽しみだな」

クスクスと笑いながら俺達はまた、唇を重ね抱き合った。

 

 

翌日の夜は取り引き先との談話の為に俺達は割烹料理屋に招かれていた。

「これが我が家の愚息です」

「羽生英男と申します。15歳になります。以後、お見知りおきの程、宜しくお願い申し上げます」

龍之介さんが俺の事を「愚息」といって紹介した。

「いやぁ、立派な跡取りですな。とても15歳には見えませんぞ」

「恐れ入ります」

そして、芸者が入ってきて踊りを披露している間に「愚息」という言葉の意味をチラッと聞いてみた。龍之介さんの話しによると他人に息子を紹介する時に使う言葉なんだそうだ。

酒というものにだいぶ慣れてきた俺はほろ酔い気分になってきたが龍之介さんはこのような場面に慣れている為か顔色も変えずに素面のままだった。俺もいつかは龍之介さんのようになってお国の為に龍之介さんが経営する軍事産業を継ごうと決意していた。


それは突然、訪れた。空襲警報の低く嫌な音が鳴り響いた。

米軍の飛行機音と共に空激の音も聞こえてきた。皆が形振り構わず散り散りになって逃げ惑う。皆が外に向かって防空壕へと向かっていった。

「英男!俺から絶対に離れるな!防空壕は近いぞ!」

「はい!」

龍之介さんは俺の手を握りしめながら防空壕へと向かっていった。

しかし…防空壕の手前で空激が襲ってきた。

「英男!早く中に入れ!」

龍之介さんが防空壕に俺の身体を放り込むように投げ入れた。

その後…空激が龍之介さんが立っている場所から聞こえてきた…

「龍之介さん!」

「あんた、死にたいのかい!まだ外は危険だからここにいな!」

フラフラと外に出ようとしていた俺はおばさんらしき人に引き留められた。

「だって、父さんが心配だから見に行きたいんだよ!俺の事は放っておいてくれよ!」

「もう…諦めな…この空襲の中じゃぁ…もう…防空壕はね、女、子供が優先なんだよ。あんたの父親はお国の為に立派な役目を果たした。あんたはこれからお国の為に精一杯、働かなきゃならない若者なんだよ。だから、あんたの父親は自分を犠牲にしてあんたを助けたんだよ。本当に立派だよ。日本男子の誇りだよ」

「そんな…だって、父さんがいなくなったら軍事産業はどうなるの?俺はどうすればいいんだよ!」

「あんたが父親の意志を継げばいいんだよ。しっかりしなよ!あんたも日本男子だろ!」

「父さんの意志を…」

俺は日本男子として今は泣くべきではないと堪えて空襲が治まるのを待った。

 

空襲が治まり地上に出ると辺り一面が焼け野原になっていて家屋の殆どが全焼し空襲が起こる前の光景とは全く違い見る影もなかった。逃げ遅れたであろう丸焦げになった死体が焼け野原と共に転がっていた。だが防空壕の近くにも死体が何体かあったが俺は直感的にどれが龍之介さんなのか分かった。

「龍之介さん…戦争が終わったら一緒に外国へ行くって言ったじゃないか。何で俺を残して死んでんだよ…日本男子の誇り…そんなもん関係ない…俺も龍之介さんも一人の人間なんだよ!」

そして、俺は人目も憚らずにしゃがみ込んで嗚咽をしていた。

 

俺はフラフラと俺達の家屋を探した。何処に何かあるのか分からない…俺は方角だけを頼りに進んでいった。

 

あれからどれくらい時が経ったんだろう…漸く辿り着いた家屋を見たがやはり、跡形も残っていなかった…俺は泣き崩れそうになったが俺を呼ぶ声が聞こえてきた。

龍之介さん…いや、違う…

「兄さん!無事だったんだね!」

懐かし清の声だった。何でこんな所にいるんだろうと不思議に思いながらも声が聞こえる方へ視線を向けるとやはり清だった。

「清も無事だったのか!良かった…母さんと茂は?!」

「茂は学徒疎開で地方にいるから無事だよ。母さんは…空襲に巻き込まれた…」

「俺の大切な人達が皆…」

「そういえばあの男の人は?」

「母さんと同じで空激で…クソッ!」

俺は悔しくて両手の拳を何度も地面に叩き付けていた。俺には何の成す術も無くただ悔しさを胸にしまい生きていくしかない…


 

あれから程なくして龍之介さんの親友だという人物と出会った。

「俺の名は本多隆雄。俺が万が一、この世を去るような事が起きたらこれを渡してくれと頼まれていたんだ。君の所在はその中に入っている写真で容姿を確認して探していた」

本多という人は俺に封筒を差し出してきた。その中には手紙と龍之介さんと撮った写真、それと銀行の手形が入っていた。手紙の内容は俺を初めて見た時の事やその後の俺への想いが綴られていた。手紙の最後にはこう記されていた。

「英男、もし万が一、俺の身に何かが降りかかりこの世を去るような事があったら本多という男を頼れ。俺は彼に全てを託しているから何も心配する事などはない。

最後になるがお前との約束を果たせなくて済まなかった。俺はお前を愛している」

俺はその場で泣き崩れ再び龍之介さんを想い嗚咽をしていた。

「英男くん、君の気持ちは解るが今はまだ泣く時ではない。それと君達の意思に任せるが良かったらうちにこないか?俺達夫婦は子宝に恵まれなかった。君達を我が家の子供として迎え入れたい」

泣き崩れている俺の肩にそっと両手を置いて彼は告げた。俺は顔を上げ封筒に入っていた手形を差し出した。

「お世話になるといってもただでお世話になる訳にはいきません」

「いや、これは君が持っているべきだ。生活費の事なら気にするな。俺は家内と二人きりで余裕があるから心配しなくても大丈夫だ。この資金を元手に産業を起こしてもいいし大学へ通う事も出来るのだから」

「はい…ありがとうございます。お世話になります」

清も俺と一緒に彼に対し頭を垂れていた。

 

 

あれから半年程が経過し広島県と長崎県に原子爆弾が投下されて多くの国民が犠牲になったと聞いた。8月の暑い夏の日だった。

あれから数日後に天皇陛下の玉音放送が流れた。俺達は地べたに座り頭を下げ放送を聞いていた。天皇陛下直々の声に皆、何があったのかと耳を傾けているとすすり泣く声が辺りから聞こえてきた。俺達も大粒の涙を流しながら聞いていた。

 

龍之介さんが言った通り日本は負けて終戦をした。

 

そして、また数日後に茂が疎開先から戻り茂も本多さんのお世話になる事になった。

「茂、お前も無事で良かった」

「兄さん達も無事だったんだね。本当に良かったよ。これからはやっと兄弟三人で暮らせるようになるんだね」

「そうだ!母さんの分まで俺達は頑張って生き抜くんだ!」

俺はまだ幼い茂に告げ強く抱き締めた。

「今後の日本は復興の為に産業革命に入り高度成長期になっていく。俺は本多さんに手伝ってもらい産業を起こす。それが母さんと龍之介さんに対するせめてもの供養だ。清、お前も手伝ってくれるか?」

「勿論だよ!その為には沢山、勉学を学ばなければね。茂もしっかりと学べよ?」

「うん!兄さん達の役に立てるように頑張るよ!」

俺達、三人は将来に向けて語り合っていた。

そうだ…戦争で犠牲になった人達の為にも俺達は歯を食いしばって生き抜いていくしかない…

 


あれから五年の月日が流れ俺は本多さんの勧めである女性と見合いをし彼女と俺は夫婦になった。龍之介さんとの事は胸に閉まったまま…

俺は龍之介さんからの手紙と写真を今でも大切な宝物としてきちんと保管をしている…

あの悲惨な時代を二度と繰り返してはならないと世界平和を訴えながら

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汚泥に咲く2輪の華 崎田恭子 @ks05031123

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