第9話 君が犯人、僕は猟犬
どうせ、あと少しで福沢と難波の馬鹿がきてくれるはず……である。
みずるはしばらくの間、状況を見守ることにした。
男二人は、灰色の事務机を挟んで向かい合っていた。どちらも椅子に腰掛けもせず、立ったままだ。酒井は作業着ではなく、アウトドア用品ブランドのジャケットを着ている。
「おれは違うんだ。決めつけて、恥ずかしくないのかと思うよ。みんな馬鹿の集まり。あんたもか」
叩きつけるように酒井が言うと、
「シスコン説についてはわたしも取らない」と宇藤木は返した。「マザコンとかシスコンとかは便利すぎる概念で、あまりに説明に便利だから信じない。馬木と、浅羽あたりが君をからかったのかな。俗物に囲まれて、さぞかし不愉快だったたろうね」
酒井はいったん黙り、しゃべる宇藤木をじっと睨めつけている。
しかし、好青年との印象があったのに、あらためて見るとなかなか目つきがよろしくない。宇藤木にイラつかされているせいだろうか。
「馬木を痛めつけたのは、君。だが彼の事件がはじまりじゃない。君のこだわり、執着の対象はほかにある。そして馬木がお姉さんを裏切った件は、後押しにはなったが、きっかけではない。やばい道楽は、それを知る前にはじまっているからだ。一年以上続いている例のかまいたち事件、あれも君」
宇藤木が断言したのを聞いて、みずるはいまさらながら、へえーっと思った。いま難波が入ってきたら目の色を変えそうだ。
「馬木が、君の自慢のお姉さんの婚約者づらをするから、イライラはつのった。だが、それはまず君が彼と合わないせいもある。趣味の車についてトラブルでもあったのかな。もちろん、君は仕事に真面目に取り組んでいるから、ストレスはたまる一方だ。馬木みたいな、商取引の実務経験に乏しい、口先だけの人間には理解しがたい苦労だ。その憂さ晴らしをはじめた君は、次第に夢中となった」
なんとなく、みずるも首の後ろがスースーする気がしたが、酒井瑞樹は不機嫌な顔をしたまま黙りこくった。言いがかりをつける宇藤木をさっさと叩き出さないのは、体格差を警戒しているからだろうか。
「お姉さんの復讐よりなによりも、君は隠れて人を痛めつけるのが好きなんだ。最高の憂さ晴らしになる。難波刑事を犠牲に差し出しておけばよかったかもしれないが、ああいうのは好みじゃないのかな」
酒井が小首をかしげ、「それについては、まあいい」と宇藤木は言った。
「あ、無理に自供しなくていいから。わたしは録音機を持っていない」
「だれがするもんか。さっきから言いがかりばかりつけて、なんのつもりだ」
「これがわたしの仕事だ」
工場に乗り込む前の顔つきから、胸ぐらを掴んで罪を認めさせたりするのかと心配したら、やはりピエールはピエールだ。武器は腕力ではなく舌先だった。
「ここの整頓ぶりをみたら、日頃から注意していたのはわかる。工作機械だけでは証拠になりにくいし」といって宇藤木は周囲を手で指し示した。「突入はやめて、こっそり監視カメラでもしかけておけばよかった。しくじったな」とうつむいてから、
「まあ、いい。わたしは君が罪を認めて心から悔いようが、どっちでもいい。いや、多少はあるか。まあいい」
なにを言うたはりますのや、おちつきなはれ、とみずるは片隅で顔をしかめた。
「さて、これまで君はなかなか慎重だったが、やめ時を誤った。和気さんに車を見られてしまったのも、歯車の狂い出したあらわれだよ。焦りへの自覚は自分でもあるだろう」
酒井の顔に動揺は浮かんでいないが、小さく目をしばたたかせた。
案外効いてるじゃないの、とみずるは思った。
「君は内心、こんなに早く私が現れたのに驚き、先ほどの行為を悔やんでいるだろう。たまたま和気さんを見かけて後を追い、防犯カメラ網の手薄な駐車場と見て装置をしかけた。あの車はバットモービル並みに目立つから。でも急だったし、君の監視カメラはセットしなかったのかな、そのあたりはわからない。でも、わたしを見てそれだけ動揺したということは、駐車場での様子や和気さんのその後は知らないのだな。良かったな、成功だ。彼女は足に重傷を負って病院だよ。二度と歩けないかもしれない」
「あら残念。足はまだありまーす」
みずるは闇にささやいた。宇藤木がなぜあんな見えすいた嘘をついたかのは分からないが、油断を誘う作戦かもしれない。顔を出すのは、しばらく待とう、と思った。
「そう、君は先日の渓谷での捜査状況説明にも腹を立てていた。お姉さんがこけて、膝と肘と額に怪我をした。お気の毒に。でも、あの的外れで不愉快な説明会はわたしや和気さんのせいじゃない。だいたい、君の仕業であることはわかっていたから、あとでもう少しスマートに指摘の予定だったんだ。いや、嘘じゃない。初対面の君の顔と背中に、犯人と書いてあったからね」
「……あんた、ばかか」
「よく言われる。なぜ黙っていたかといえば、いくらわたしでも、ばかばか言われるのはつらいから」
「え、そんなに繊細かよ」暗がりでひとり突っ込むみずるは放置して、宇藤木は続けた。
「ばかにされても、わたしは仕事が早いんだ。こんな仕事をしていて、一番手間のかかるのは刑事や関係者を納得させるため、それらしい動機とか証拠をひねり出す作業だよ。犯人探しはさほど苦労しない」
「あんた本当におかしいな、狂ってる。まさか警察が、こんな狂った奴を雇うとは思わなかった。誰が雇ったのか知らないが、あとできっちり責任を、」
そこまで聞いて、宇藤木は楽しそうに笑った。「わたしが狂人ということは、すばらしく理性的ということだ。なんならこの理性によって、君の精神が壊れるまで追い詰めようか。あと少しというところだし」
その笑顔に怯えたかのように、酒井はいったん口を閉じた。
「とにかく、もう少し聞いてからにしてくれ。せっかくきたのだから。あとは、もう少し動機について語ろうかな」宇藤木はまた話をはじめた。
「世の中の捜査に従事する連中は、動機が大好きだ。ところがわたしは、動機にそれほど執着はない。あとで必ず聞かれるから用意しておくだけだ。犯人にはいろんなのがいて、立派な動機の割にケチ臭い悪事で終わるのもいれば、動機もなくどえらい犯罪をしでかすのもいる。世の中には、犯罪者が抱いた動機の熱量を測定したがり、まるで出身校のようにランク付けに使うやつがいる。だがわたしはそれに与しない。安心してくれ。動機なんてほどほどでいい」
「だから」酒井は焦れたように言った。「さっきから意味がわからないと言っているだろう。一体、なにがしたいんだ」
きっと普段は、真面目な人柄なんだろうな、とみずるは酒井に対して思った。宇藤木に引っ張り回される彼が、だんだん気の毒に思えてきた。
「仮に百歩譲って、仮にだよ」と酒井は言った。「あの騒ぎが犯罪だったとして、どうしてあんたにその犯人がわかる。一足飛びに断言ばっかりして、超能力者か」
「あ、そうね。いちおう説明すると、わたしには、力の流れのようなものが見えるらしい。犯罪という結果を見て、生成の理由がおおよそ掴めるんだ。そしてひとの内側にある心の変位というか、活断層が見える。だから、わかる。もし、わたしに願望があるとすれば、身に備わった機能を、楽しく使いたいということ、それだけかな」
「あーもう」酒井瑞樹は頭を激しく掻いた。「妄想だ。それはあんたの、妄想。もう、いいかげんにしてくれ。力づくで出て行かされるか、それとも警察を呼ぶか選べ」そして酒井はヤスリと思われる鉄棒を握った。
宇藤木はにっこりして、「繊細な君に直接的な暴力は似合わないよ」となだめた。そして、
「じゃあ言い換えよう。わたしは歩く暗号解読機みたいなものだ」と言い出した。
「道で見知らぬ暗号を目にすれば、解読にかかる。答えはわりにすぐ出る。しかしそれで明らかになる陰謀や、背景となる国家間の争いには関心は及ばない。飽きるから。わたしはただの猟犬、走って獲物をガブリと捕まえて、次の犯行を防いだら満足して、おわり。ほかはみんな面倒だ。なので、面倒な雑務に営々と取り組む警察官を尊敬するし、君のように経営者の道を選んだ人間もまた尊敬する。ずっと社員の生活を支えて行くなんて、すばらしい忍耐力だ。そして、その忍耐と努力が、この機械を産んでしまった」
すると宇藤木は、さっきの小さなメジャーのような装置を机の上に投げ出した。酒井の顔から表情が消えた。しかし、顔色は赤みを増した。
「これが断層から漏れ出たマグマだ。君の家業への献身は認める。だからといって、顔出しパネルから突き出した間抜けの顔を、すっぱり切り落とすなんて愉快なことを本気で実行してはいけない。憂さ晴らしのしすぎだ。そのうち、おたくのおいしいカツ丼に、人の肉が混じっていると噂が流れるぞ」
ひどいことを口走ってから、宇藤木は一瞬だけみずるのひそんだ暗がりを見た。存在に気づいているのだろうか。なにかさせたいことがあるのだろうかと考えたが、思いつかない。
怒るかと思った酒井も、よそに視線を動かした。みずるに気づいているのか、宇藤木に引っ張られたのか、まだわからない。
「では最後に、世間が理解しやすいようまとめてみよう」今度は、朗らかに宇藤木は笑った。みずるに説明しているつもりなのかもしれない。「公式見解というやつだ。君は学校やクラブに強い帰属意識は持てなかったが、機械いじりは嫌いではなくセンスもあった。なのに親の都合でやめた。それで君に負い目を感じているらしい父親を利用し、放置してあった工場設備を確保、好きに機械いじりをして楽しんでいた。そして、尻ペン装置というか、かまいたち機械を思いついた。ほかに原型があったかは、まだわからない」
怒りより、うらめしそうな顔をして宇藤木を見ていた酒井の視線がふいに泳ぎ、みずるの潜んでいる、事務所スペースの暗がりを見た。
ぎくっ。
「最初のきっかけ、犯罪に踏み込む飛躍の真実はわたしにはわからない。だが明らかなのは、君は馬鹿じゃないから、巧妙に人目と監視カメラの少ない場所を選んで装置を仕掛けては、誰かをぶっては喜んだ。小型化にも精を出し、装置の速やかな回収も心がけたから、当初は傷害事件とすら思われなかったほどだ。そのプロセス自体も楽しんだのだろうか。そしてだんだん大胆になり、装置も進化した。そう」
宇藤木は胸を張って演説するようになった。「機械と変態性のコラボなんて、ありそうでなかった、いうならばベンチャー精神による犯罪だ、すごいぞ」
県庁のベンチャー支援にあたる連中が聞いたら怒るだろうなあ、とみずるは思いながら聞いていた。
「ところで、和気さんの指摘にもあったように、県の北部で車上荒らしをやっていた奴が、指を飛ばした事件があったと記憶する。泥棒用の道具で自傷したと解釈されたが、君の装置が見事に人体を切断した第一号例ではなかったのかな。そしてその成功体験が直接の過激化したきっかけかと思う。君は斬ることに、面白さを見出した。それが馬木への怒りと結びついた」
また酒井は、みずるがひそむ方角に視線をやった。うしろに誰かいるのかと思って振り返ったが、誰もいない。もしかして、気になるのはこの奥にある隣の部屋だろうか。
「あんた、どうしてもおれを、化け物だと決めつけたいようだな」
「いーや。そんな格好のいいものじゃない。ただの変態。それもだんだん抑制が効かなくなってきているのを指摘したい」宇藤木は余裕の表情で切り返した。酒井を苛つかせようとしているのは間違いない。
みずるは自分のスマホの着信を確かめた。難波からの連絡はない。そのままこっちに向かっているから連絡がないのであってほしい、とスマホに向かって祈った。たとえあんな間抜けでもバッジはあるから、みずるが体当たりするより、相手はうろたえる。
「昔、ヒューマニズムにあふれたフォトエッセイで一時代を築いた写真家がいて」宇藤木はまだ喋り続けている。「その人物は建物に隠れこっそり人を覗き見するような変態っぽい写真もたくさん残した。でもそれは、なんていうか才能のベクトルの向け先として理解できるし、首尾一貫していると思う。けど君は違う。昇華できずに変態性だけが増す一方だ。」
気に入らない台詞だったのか、期待通り一挙に酒井の眉間が歪んだ。
「ただ、放置しておけば遠からず自滅したろうね。今回だって機械を回収してない。それとも誰かに見つけさせたかった、止めて欲しかったのかな。そんな殊勝には思えないが」
「いいかげんにしろよ」酒井瑞樹の声が掠れていた。
「うん。そろそろ終わる。あと確かめておきたいのは馬木との関係だ。さっきも言ったが、車以外にも不快なことがあった。そして、きみがお姉さんを大事なのは嘘じゃなくて、あんな裏表のひどい男を義理の兄にしたくはなかった。調査の結果、浮気と自撮り好きを知った。特に鬼津野渓谷のパネルは定期訪問していた。よし。ラムちゃんなら大型化した装置に耐えるし、それでギロチンの採用を決めた。便利な時代になったから、監視とか遠隔操作システムは金さえあれば中学生でも構築できる。そして肝心のギロチン装置の開発に、君の機械知識は使用快をおぼえた。楽しかっただろうな」
「過去最大の力作だったラムちゃんギロチンの成功は、君に新しいやる気を与えた。警察がウロチョロするのも、ほどよいスリルだし。それで目下の狙いは、地域おこしプロジェクトの浅羽じゃないかな。次は装置をがらっと変えるのだろうね、前回とまったく関連を感じさせないような」
「ばかじゃないか、おまえ」酒井は言ったが、しかし声に力がなかった。
「君は彼も嫌っている。頭が悪く、君が抱いている居心地の悪さや悲しみを、まったく理解できない。馬木と一緒に君をからかったりしたのかな、苦労知らずだとかなんだとか。あのデブを痛めつけるという案にはわたしも反対じゃないから、もう少し放置しても良かったんだが、気が変わった」
酒井は、もう隠せないほど繰り返しみずるの頭上の空間を見た。
「和気さんの車に装置を仕掛けたのは許せない。あれで穏便に済ませる気がなくなった。カツ丼屋の看板に傷がついても知らん」そう言いながら、宇藤木は唇に指をあてた。
「動機はともかく、なぜわざわざ彼女を選んだのかは気になるな。姉の件で我々に不満を持った、難波は変態だが警官だし、私は見た目が怖い。だから一番反撃しなさそうな彼女を狙った……いや、違う」宇藤木は首を振った。
「君は自分より年上の女性に、性的に強く引きつけられる。そうだ、かまいたち事件の初期の被害者は、いわゆる熟女ばかりだった。あれは偶然ではなく、狙った。馬木の件だって、君はあの水口さんが気に入っていて、それが怒りに油を注いだ。熟女好きだったか。和気さんを熟女と分類するのには異論があるが」彼は一拍おいてから続けた。「公務員とか研究所員とか、固いとされる仕事の年上女性にも、ぐっとくるのだな。知人にNHK専門の女子アナマニアがいてね。民放や芸能事務所所属ではダメなのだそうだ」
「ふざけるな、名誉毀損で訴えてやる」
「どうぞ」と言ってから宇藤木は甲高い声をたてた。
「おとうさん、ぼくはあの警察の手先の男、許せないんだ。名誉毀損で訴えたい」
「そうか、瑞樹」こんどは低い。「さっそく顧問の先生に専門の弁護士を手配してもらおう」
宇藤木は一人芝居をはじめたようだった。(ついに狂ったか、ピエール!)
「ありがとう、とうさん」
「ははは、なあにいってる。親子の間に遠慮はあるか。しかしな」
「なんだい、とうさん」
「まさかとは思うが、お前に弱みや隠し事はないだろうな。つまり、あの工場跡のことだ」
「えっ」
「おまえにせがまれ、そのままにしておいたが、これを機に整理したらどうだ。まだ誰も気付いていないとは思うが、いつまでもあそこで機械いじりばかりしていたら、今度みたいな変な噂がまた起こる」
「そんな、とうさん、気にしすぎだ」
「いや、お前のためを思って言っているんだ。それともなにか、わしに見せられないなにかが、隠してあるのか」
「いきなり何をいうんだ、とうさん」
「たのむ、お母さんに知られる前に、一度見せてくれ」
「なんてことを、息子が信じられないのか」
「あっ。みずき、おまえ、どうしてこんなものを隠し持ってるのだ?よりによって、みんな熟した女性ばかり。若い子のは、ないのか」
「うるさいっ、親しき仲にも礼儀あり、えいっ」
「うわあっ、がらがらどっしゃん……てなことにならないためにも早期の相談がおすすめだよ」
「ふざけんな」怖い顔をした酒井は、またヤスリをつかみ直し、宇藤木につめよろうとした。ヤスリといっても十分凶器になるほどごつい。
「舐めやがって、限度があるぞ、このいかれ野郎。お前なんかに、何がわかるか」
宇藤木はにんまりしてから、冷静に酒井の手を指差し、首を振って見せた。凶器はだめだ、とでもいうかのように。
二人の身長差は、30センチはある。宇藤木は、ほっそりしているが貧弱ではなく、痛めつけるのは大変そうだ。みずるも、すぐに止めに入ろうという気にはならなかった。
酒井はヤスリを持った自分の手を見て、
「くそっ」と言ってヤスリを放り出し、目の前の事務机を思いっきり蹴飛ばした。机はずずっと動いた。
しかし、酒井は突然、前方に飛び出し、机の上にあった例の装置をつかもうとした。
あわてず宇藤木は机ごとつかんで、自分の方に引きよせた。さすが大男だけあって事務机は酒井の時よりはるかに威勢よく移動した。
酒井は「付き合いきれるかっ」と吐き捨てると、つかつかとまよいなく扉を出て、そのままドアノブを操作した。鍵をかけたようだ。
中で宇藤木がぼそっと言った。
「しまった。ひっかかっちゃった」
ひとりになった酒井はさらに急ぎ足になり、みずるの隠れている隣の部屋へ足を向けた。
(まずい)彼女は焦った。
宇藤木は、みずるのいる暗がりに目をやりつつ、ドアノブをつかんでガチャガチャやっている。閉じ込められてしまったようだ。
しかし酒井はそのまま、みずるの潜む部屋をさっさと通り過ぎ、隣室も抜けて工場スペースとの境になっている扉までやってきて、立ち止まった。そしておもむろに周囲を見回したが、けげんそうな顔になった。
せわしなく周囲を探る。だんだん、顔が焦ってきた。
「くそっ」と、電動工具の置いてあった椅子を蹴飛ばすと、見当違いのところを探している。みずるが棚におき直したウエスをとりあげ、その下を見たが、なにもない。
「あのー、もしかして……」
ついにみずるは立ち上がると、近づいて声をかけた。
あの箱をお探しですか、と言おうとした。だが、酒井はみずるの顔を見、彼女が何者であるかを理解したとたん、言葉にならない悲鳴を上げた。
そのまま彼女にウエスを投げつけると、上体を捻り、みずるの出てきた場所とは反対側に逃げ出そうとした。ウエスを顔にぶつけられたみずるは、避けようとして尻餅をついてしまった。ガシャっと金属の落ちた音がして、倒れ込んだみずるの肘に何かがぶつかった。
「いたっ」
しかし酒井もまた、逃げ出すのには失敗した。さっき自分で蹴飛ばした工具の置いてあった椅子につまずくと、派手な音をたてて扉の影に倒れ込んだ。
そして一瞬、盛大な叫び声を上げたかと思うと、沈黙した。
「さ、さかいさん」みずるはようやく立ち上がると、動かなくなった酒井に近づいた。
さいわい眼鏡はそのままだが、肘が痛い。服地も切れている。
見ると酒井は、薄暗い工場の床に倒れたまま、動かなくなっていた。
どうやら例の黒い金属の箱につまづいたようで、彼の足の膝裏あたりに、あの黒い刃付きの棒が乗っていた。
酒井の履いているカーゴパンツは横一文字に裂けていて、そこから血が滲んでいた。
彼はあまりの激痛に気絶したようだった。
「どうしよう…わたしのせいかな」とみずるがうろたえていると、
「ぼくもこれ、どうしよう」
宇藤木が、ぬうっとあらわれた。
「とれちゃった」
彼の大きな手のひらには、もげたドアノブが乗っていた。
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