第5話 殺人未遂もくせになる
【鬼津野渓谷展望台】
「ええ、ちょっと待ってくださいね。十分、いえ五分で送りますから」
和気みずるは懸命にスマホに話しかけていた。「もう、できてるんです。通信が不安定で、送れなかっただけ。はい。はい。ではまた、ああ、メールで結構ですよ」
怖い顔をして、みずるは鬼津野展望台の、売店のあった建物の中にいる。冷や汗をかきつつ、薄くて小型のパソコンを操作している。
ふと顔をあげると、ガラスの向こうでそっくり返った姿の難波刑事が、人々を集めてなにやら演説している。
–– あいつ。調子に乗りやがって。
ムッとなったが、怒っている時間すら惜しい。
よりによって、どうしてこんな日に……と、小さく呪いつつ作業を進めた。
冷や汗をかきかき、ひとまず書類を送信し終わると、宇藤木海彦の長い体がこちらへやってくるのが見えた。きりんが悠々サバンナを横断しているようだった。
彼は、変な節回しをつけた英語の歌らしいのを、いかにも日本人的な発音で口ずさみつつ、建物に入ってきた。どうやら、「yo ho ho and a bottle of ram」と唄っていたようだ。
そしてみずるに小声で、「お仕事、ご苦労様です」と言って頭を下げた。
「まだ、もうちょっと」と言う間に着信があった。
「はい、和気です、はい、はい」見ないような顔をして、宇藤木は様子をうかがっている。
通話を終え、大きく息を吐いたみずるに、宇藤木はぽつりと言った。
「どうして、電話口で謝る時、相手がいないのに頭を下げてしまうんだろうなあ。ついつい、やっちゃう」
「え、宇藤木さんが人に謝ることはあるの?」
「ごく、たまに」
「あー、なんとかとりあえず、任務は終了。づがれだー」汗をぬぐう仕草をしたら本当に腕に汗がついてしまった。
「やだなあ、もう」我ながら焦ったものだ、と思う。
タオルハンカチを取り出してからみずるは、わざわざ小型の望遠鏡ごしに集会を観察中の宇藤木に様子を聞いた。あいかわらず変な奴だ。
「それで、あっちはどうなりましたか」
話しかけながらノートパソコンとスマホ、外に出していたペンやノート類をカバンにきちんとしまう。放り出したまま自分だけ移動できる性格ではない。
「難波氏が、独演会の真っ最中」と宇藤木は答えた。
「独演会。それで観客の反応は?」
「いまひとつ。こんなに天気はいいのに」と、彼は外を手で指し示した。「聴衆の気持ちは曇りのち雨」
明るい日差しの下、難波はこっちに背中を向けている。今日は先日のような強い風のないのが救いだが、好天ということは外に出たら日焼けしてしまうではないか。今日は内勤のつもりだったから、UV対策が不十分なのだ。
「あんなに関係者が必要なの?ただのギャラリーでしょ。まったく」
警察組以外では、酒井姉とその仲間など合計8人ほどの姿があって、誰もが難波の方を向いている。
「みんな暇なの?わたし、こんなに忙しいのに。すべて難波のせい?」
日光の輝く外に出たくなくて、みずるはからんだ。
「世の中の不愉快な事象のほとんどに難波の影がうごめいているのは事実でも、これについてはやや違うと思う」あまり気の無い様子で宇藤木は言った。
「元凶はあのビューティ酒井、そして市会議員だという馬木氏の叔父さん。揃って現状報告を求めに庁舎にきたそうだよ」
「あれから、まだ一週間もたってないじゃない。あいつら賭けでもしてるの?」
「さあ」宇藤木は首を傾げた。「福沢氏によると、不幸なことに来庁時にたまたまえらい人たちが複数名お茶をしていて、やってきた二人を交えて話が盛り上がった。そして、なら現場で非公式に解説させましょうって安請け合いしたそうだよ、担当の『刑事』にって。だから難波くんはチャンスを利用しようと張り切っているだけ」
展望台にいる人間のうち、こちらに背を向けているのが二人いた。難波と、彼の先輩にあたる福沢だ。歳は四十半ばだろうか。温厚かつ世馴れていて、みずるや宇藤木も上手にあしらってくれる。
「ホントだ、福沢さんだ。あのひとが担当なら、いいのに」
「そうね」宇藤木はうなずいた。「でも、難波氏みたいにいじれないよ。キャリアに傷がついたら気の毒だし」
「難波は、いいの?」
「あれは、マゾだから」
「でもしつこいようだけど、私たちいなくてよくない?いきなり連絡があって、宇藤木さんの現物をかならず連れて来いって言われた。まだ報告には早すぎるって抵抗したのに、なんなのあれ」
宇藤木は、みずるの顔を立てるつもりか単に面倒なだけか、単独の呼び出しには言を左右に逃げることが多い。
「来てくれるだけでいい、あとは自分が責任を持って説明するとか、言ってたね」と宇藤木はうなずいた。「和気さんからの連絡のあと、わたしも直接、難波に電話したんだ。調べさせたいことがあって。そしたら、うわごとのように自分で説明しますって言い張るんだよ。上からの命令だって。それを聞いたわたしは親切な人間だから、ならばと現状を伝えつつ、しゃべりすぎて揚げ足をとられないようにと注意もした。するとあいつ、『わっかりましたあ、ご意見肝に銘じますう。和気さんと一緒にぼくを見守っていてくださあい』って明るく答えた。それで、あれ」
彼は展望台の難波を指差した。身振り手振り大きく、役人による状況説明というより、タレントのトークショーに見える。
「お店とかに客寄せで来る、テレビで見たことのないタレントみたい」
「そういや、ヤサシヤにこの前、県警のゆるキャラのぬいぐるみがきていた。なりすまし詐欺への注意を呼びかけていたのかな」
「ああ、タカっぴ」
「なんか微妙な感じだったのに、子供は喜ぶし、親とか年寄りも嬉しそうにチラシを受け取ったりするし、あいつこそ詐欺の共犯みたいだったよ。それで、わたしがあれを着て、難波の横に立ったらどうだろう。もう少しにこやかに聞いてもらえるとは、思いませんか」
「こんな大きな人間は、入らない」にべなくみずるは言った。
「ちょこっとだけ手配を手伝ったことあって、あれって小柄な人が入るようにできてるの。移動だって保管だって面倒だし、雑な扱いをしたら2度と貸してくれないし、けっこう大変なのよ」
「へえ。たしかに嵩張りそうだから、車内の広いバンがいるな。でも今日は、あれほどギャラリーがいても水口氏の軽バンはない。酒井瑞樹氏のもない」
「えー、探偵さん」みずるは指摘した。「もしやバンにこだわりが?」
「おっしゃるとおり」彼は一瞬だけ笑って見せた。
酒井美里とその仲間、馬木の仲間らは建物に顔を向けているので様子はわかる。
特に美里は難波に辟易したのか、ときおり宇藤木とみずるのいるあたりへと視線を泳がせてくる。風避けのためか難波とは色の違うトレンチコートを羽織っていて、こちらはとても格好良かった。
「見られていますよ、宇藤木さん。あっちへ行った方がよかないですか」
「難波への苦情の訴え先を探してるだけでしょ」
今日は、馬木の上司である水口事務局長は不在だった。そのかわりに、
「あれが、噂の奥さんか」と、みずるはつぶやいた。
水口の妻とされる女性は、一群の人々とやや距離を置き、遠目にも不安げに見えた。
「そう。写真より老け気味と予測したら外れた。垢抜けてるし、よほど手入れしておられる。研究者とは思えない。現役じゃないんだろうな」
「うん、素直にきれいなひとって言えるよね。とても若く見えるし、髪の毛の色だって流行をおさえている。でも、どうやって呼んだのかな。あの方だってひまじゃないでしょう」
「一応、こじつけの理由があるんだな」
宇藤木の説明によると、ここの顔出しパネルが傷んでいない理由のひとつに、表面を覆ったコート剤の効果が一定の役割を果たしているそうだった。
「エバーデモン」と名付けられたその技術は、水口妻の属する市立産業技術振興センターが、まだ工業技術試験場と呼ばれていた頃に研究に着手し、地元に工場のある企業と協力して開発・実用化に成功した技術だった。当時のメンバーのひとりが若き日の水口妻(咲江という名だった)であり、現在は管理職としてセンター全体の広報や渉外も束ねている。
「ぼくらを呼び出したのと同じように、見ているだけでいいとかなんとか騙して、連れ出したらしい。それぐらい強引になるべき相手は、他にいそうな気がするぞ、難波よ」
「でも、パネルのクリア塗装が普通と違うのを指摘したの、宇藤木さんでしょう」
「まあ、そうなるかな」宇藤木は興味なさげにうなずいた。「何年も放置してあったパネルに傷や痛みの少ない理由には、それもあるんじゃない?って控えめに伝えたら難波のマゾ、やたらと興奮してしまって。エバーデモンは希少じゃないし、別にクリア塗装のせいで馬木氏が落っこちたわけでもない。どこかに大きな誤解のある気もするけど、面倒だからそのままにしておいた」
「ひどくないですか、それ」
「まあわたしは関係ないし。水口女史を引っ張ってきた豪腕にはちょっと驚いたし」
「ところでエバーデモンって、すごい名前。そんなに有名な技術なの?」
「少なくとも、海外の企業に真似されて、揉めたぐらいには」
ふたりは建物を出た。
「ひとりだけ日傘をさすのって、嫌味かな。夏じゃないしなあ」
みずるが言うと、宇藤木は、
「持ってるなら使うべき。ほかの女性の方々は、ガッツリ日焼け止め、塗ってるんでしょう。和気さんが、いかにも紫外線に弱そうなのは見ればわかる」
「宇藤木さんの方が色白な気がする」
「これは血色が悪いだけ」
「自覚してたのか」
日傘と一緒に建物から出て、人の群れに近づくと、難波の声がキンキンと響いていた。
「と、いうことでわたしが刑事になった当時、そんなに前ではありませんが、ははは。当時はあまり写真データによる……」
「予想どおり脱線中だわ」
「電話口では彼、とても急いていたのにな」
難波は、諸治係長が復帰する前にぜひ、カタをつけて報告書を提出したいと宇藤木に協力をせがんだそうだった。係長は日ごろ、報告書の作成段階から干渉する悪癖があるらしく、
「今回だけは一人で仕上げてみたいんですうって叫んでたな。マゾのくせに。あ、そうか。いつも上司に体を好きに蹂躙されていることの暗喩なのか。自慢かよ」
下らない冗談にみずるが軽蔑の眼差しを向けても、宇藤木は眠そうな顔で見返すだけだった。昨晩は寝る前に読み始めた本が面白く、夜更かしをしたそうだった。
「ちなみにどんな本?」
「江戸時代の男娼についての本」
「あら。面白そう。けど、難波さんのその異常行動、報告書がどうこうより自分の手柄にしたいだけじゃないの。若いのに骨髄でリーマンね。でも直属の上司の確認なしとはいかないし、結局のところ報告書はチエックされて、上の手に渡る前に指導が入るわよ。悲しきリーマンだもの」
「それがね、たまたまトイレで本部長に出くわして、直々にご下問があったそうだよ。その、ピーの最中に」
「そんな詳しい状況説明、不要です」
「あ、そう。それで本部長からは、おお、奮闘してくれておるようだが、早く全体像を見たいな。モロジがいないのはわかってるからねキミ、直接もってきたまえってお声がかかったらしい。ハンコは福沢に押させたらいいよーっとも言われたとさ」
「やっぱりそう。あいつにとっては貴重な抜け駆けのチャンスなのか」
「こんなヒト迷惑なイベント開くより、内勤に精出して鬼の居ぬ間に簡易交際費とかいろいろ切っておけばいいのに。いつもぶつくさ言うくせに。どうせ彼じゃ、ろくな説明はできない」
難波の声はまだしていた。さすがに少し枯れてきている。
「ですから、問題は、馬木さんが落っこちた状況にあります。おそらく時刻は……」
「お、やっと本題に戻ってきた」
やや離れた場所に陣取って見ているうちに、いったん難波は、しゃべり終えた。
そしてしばらく黙って集まった面々を次々と見回した。
「これまで説明してきたように、馬木さんの行動には」丸い頬が紅潮している。「いくつものなぞがあります」
「まるきり二時間ドラマのラストだし」とみずるは思わず小さく口に出した。「難波さん、洋画派だから馬鹿にしていたはずでしょ」
「おれがあいつに、罪なものを渡しちまったんだ」みずるの声に振り向き、後退してきた福沢がぼそりと言った。「中古屋で見つけたゼロの焦点のDVD。橋本忍脚本のほうね。ヒロスエのじゃない」
「あー」という顔を宇藤木はした。
「なになに、それはどういう意味?」
「断崖を舞台に謎を解くシーンの元祖とされる映画。いい時代の日本映画だから、安っぽくない。このスタイルもありか、って思ったんだろうな。マゾのくせに」
「でも、すぐに真似する?それに、誰が犯人のつもりなのよ」
「さあ」
「だいたい、こんなところで解説および指摘する必要、ある?」
難波の身振り手ぶれが激しくなった。
「そこで、このパネルが問題となります。なぜついていておかしくない傷が、ついていないのか。塗装から十五年以上は経過しているのに、この美しさ。津野市発の塗装技術「エバーデモン」なら、ダイアモンドライクカーボン皮膜にひけをとらない耐久性を実現しました!」
「こんどはテレビ通販みたいになった」
「そのほうが似合ってる。そうか」宇藤木は自分の額を叩いた。「彼のときどき声が裏返るしゃべりかたって、誰に似ているのかと考えていたら、通販番組にそっくりなんだ。姫、じいは耄碌のあまり、いまやっと気がつきましたぞ」
「それは、うかつでしたね。わらわはまた、BSで健康食品を売るあきんどに似ているのかと」
二人が小声で下らない会話を続けていると、
「えー、どこで誰に聞かれたかは知りませんが、DLCを例に出すのは不適当です」
落ち着きなく聞いていた水口咲江が一転、強い調子で口をはさんだ。
「ネタ元はぼくじゃない」すかさず宇藤木が否定した。
「エバーデモンの優位性は、あくまで塗料に近い施工性や対象の幅広さを保持しながら耐久性を飛躍的に高めた点にあります。けど十五年は言い過ぎ。たしかに過去、焼き付け塗装に準ずるレベルの表面強さを持った派生モデルも製品化しましたが、結局のところ工程が複雑すぎて受け入れられず、短期間で販売は終了しました。それにDLCを褒めるなら摺動性を褒めるべきです、それにも疑問がある」
「そ、そうですか。えー、それでデモンを塗ったら、えー、下の色はほとんど変わらず、塗り直しの必要がない」
「退色については開発当時から不満があり、そこを改良した新型を近く発表の予定でいます。と、いうより、それになんの関係があるのですか、竜馬くんの事故と」
難波は言葉につまった。
「竜馬くんって言ったぞ」みずるが小声で指摘すると、宇藤木はウインクしてみせた。
ふと視線を感じ、みずるが顔をあげると、酒井美里がじっとこっちを見ている。
(うへっ、誤解よ……)美女の真っ直ぐな視線というのは、なかなか迫力があった。
「刑事さん、私も知りたいと思います」美里が口を開いた。
「仕方ないですね」難波は水口咲江と酒井美里以外の人たちに、「少し外してもらえませんか」と頼んだ。あいつ、いつかあの台詞を言いたかったに違いない、とみずるは思った。
それから難波は、ギャラリー勢が離れたのをものうげに確認すると、軽く目を瞑った。
そしてまた目を開くと、こう言った。
「はっきり言いましょう。水口さん。あなたは馬木さんと不倫していましたね」
声の聞こえる風下にいたみずると福沢は、揃って咳き込んだ。
「あ、あいつ、ついにイカれたか」
しかし、否定すると思われた水口咲江は、まさしく目玉が飛び出るほど驚いた顔になり、
「ご、ご、ご」
と言ったあと、ひいっと叫び声を上げ、くるりと振り向いて駆け出した。
一方の酒井美里は目を閉じ、絵に描いたように美しく身体を伸ばしたまま、ふらりとその場に崩れ落ちたが、仲間と離れていたため、受け止めに駆け寄るのが遅れてしまい、ごちんと大きな音がした。
「うっ」
コンクリートの床でどこかを打ったようだ。
「あっ、痛そう……」みずるは顔をしかめた。
その間に水口は、駆けて展望台を横切って駐車場にたどり着き、そのまま乗ってきた車に飛び乗り、走り出してしまった。
「これは、またぜんぜん、予想とは違う反応だったなあ」難波は途方にくれた顔をした。「ちょいマズったかな。男ともみあって、パネルにあたって落ちたと睨んでたのに」
「都合よく、告白してもらえるとでも思ったのかよ。証拠もないくせに」
みずるが、そう吐き捨てて宇藤木を振り向くと、彼は騒ぎを向こうに、顎に手をやって顔出しパネルをじっとみつめていた。
「え、パネルはまだ、あり?」
「まあね。今日の集会は面白くはあったが、これからどうしようかな。殺人はくせになるし、殺人未遂もくせになる。急くべきなのかな」
その穏やかならぬセリフに、みずるはこの事件に関わってはじめて、不安な気分に包まれるのを感じた。
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