第2話 事故のてんまつ

 資料を広げる必要があるので、宇藤木うとうぎは後部座席に座らせてある。オズの魔法使いのカカシ男を車内に入れた感じで、狭そうだが仕方ない。

 ハンバーガーショップの駐車場で、コーヒーを大事そうにすすりながら、彼はファイルに綴じた資料をめくっていく。と、いっても量は多くない。

 

 窓は開けていても、車内で二人きりになのに抵抗はないでもないが、一応は情報漏洩を防ぐための行為である。

 前にうっかりフードコートの一角で打ち合わせをして女子中学生に怪しまれ、動画を撮られそうになったことがあった。油断すると宇藤木は、カメラに向かって解説をはじめかねない。

「和気さんは、これを読まれましたか」

「ええ」みずるは即座に言った。「時間がなかったので、ざあっとだけど。解説は、いいから」

 そう、とでもいいたげな顔をして宇藤木はだまった。この男に好きにさせると、脱線のおそれが多々ある。


 実は、この事件の資料はごく簡単なものしかなかった。本格捜査などしてないのだから無理はない。三日ほど前、本部長から「頼むかもしれない」と、内々に指示があったのを受けてみずるがまとめ直し、情報を追加してファイルに足しておいた。いらぬところに鋭いピエールのことである。見抜いたに違いないが、自分から言う気になれず黙っておいた。

「それで、現場の鬼津野渓谷に、今日のうちに行く気はある?どうしますか」

 我ながら切り口上だと思うが、「よろこんで」と返事があった。

 諦めて目的地をカーナビに打ち込んだ。

 表示を見ると到着まで二時間近くかかる。いまからだと、戻りは夜になるだろうが仕方ない。宇藤木が図ったわけでもない。

 

 みずるのことが、お気に入りなのを隠そうとしない宇藤木だが、彼女の意思に反してしつこく拘束したり、必要もないのに遠方に同行させたり、といった感情を優先した行為は一切ない。

 その手の行為は、むしろ嫌っているように思える。純粋に必要があるときだけ、彼女の同行を願う。このあたりの紳士的な態度は、認めるべきだろう。

 いくらなんでもセクハラまがいの執着をされたら、本部長だろうが知事だろうが意向を一切無視して関わりを断つつもりでいるが、ピエール自身は合目的性に富んだ人物であり、謎の解明とかけ離れたことは基本、やらない。

 肝心のみずる自身の身の上だって、詳しく聞こうともしない。気まずさを感じてみずる本人から説明するほどだ。


 現在彼女らがいるのは、交通至便な県中心部に近い。ここから高速まで使用しても移動に結構な時間がかかるのは、県境に近くハイキングコースにもなっている山の中が現場のせいだ。近くにダムもあり、バスも一応、通っている。

「鬼津野渓谷って、一時やけにローカルニュースに取り上げられて、その後ばったり消えた記憶がある。かなり前に」宇藤木は言った。

 彼はテレビのドラマや教養番組は否定的に語る傾向がある一方、ローカルニュースはよく見ている。立ち回り先でよくかかっているとの説明があった。

「そう。よく知っていますね」と、みずるは返事した。「地域振興の広宣活動を手伝うプロに頼んだりしたようだけど、結局不発に終わったみたい。船頭が多すぎるって」

「ほう、広報宣伝のプロが」宇藤木がすばやく反応した。「自治体がマスコミに流すプレスリリースって、基本的に供給過多であり、一方マスコミ受けする内容の物は少なくて、両者をうまくマッチングさせることが必要だ、とわたしも教わりました。その手の人物に」

 しまった。県庁の仲の良い先輩に関わった人間がいて、考えなく口に出してしまったが、宇藤木のうんちくに付き合わされたら、まずい。

 「それで……」

 ふたたび宇藤木が口を開けた時にかかってきた電話を、みずるは天のめぐみのように感じた。運転中ではないので飛びつくように出る。

「あー、わけさん、こんちは」やや鼻にかかった若い男の声が聞こえてきた。「本部長から連絡するようにって、指示がありまして……」


 はきはきの対極にあるもっちゃりしたしゃべりかたは、県警刑事部の難波である。捜査第一課に属していて、とりあえずみずるおよび宇藤木の窓口担当であることになっている。

 役目を押し付けられた当初は、「ははあ、エレメンタリーのベル刑事みたいな立ち位置ですね」と、海外ドラマファンらしい表現とともに、まんざらでもない態度を示していたが、彼の直接の上司が再三、宇藤木をくさしたせいで、いまでは関わる時間をなるべく減らそうと図ることが多い。

 ただし、手柄が発生すれば彼の総取りになる。宇藤木がこれまで手がけたいくつかの事件のおかげで、県警の上層部や東京にまで難波という一刑事の存在が認知されたようだし、決して悪い話ではないと思うが、難波ぐらい若いと、人事権を持つ顔の見えない連中より、目の前にいて感情に任せたいやみをぶつけてくる人間の方が、よほど気になるのだろう。


「もう…もう宇藤木さんは、つかまったんですか」

「はいはい、横にいますよ。いまから現場を見てくるから」

「おや」もれた声を聞いて、宇藤木も反応した。「難波くん」

 難波の宇藤木への態度が一貫しないのにひきかえ、宇藤木の態度ははっきりとしている。みずるに対してのそれとは異なり、結構図々しく接し便利使いしたがる。理由を聞くといつも、「あれはマゾだから」の返事が返ってくる。


 宇藤木を向き、わざと声の聞こえるように、

「難波くんは、今日必要?」と聞いた。彼は長い指をひらひら否定の形に振りながら、「べつに。いてもいなくても同じ」

「どっちでもいいみたい。お忙しいでしょうから、もし用があれば呼びます」

「ええ、鬼津野渓谷の展望台ですよね。行ければ行きます」

 露骨に安心したような声が聞こえた。

「その代わり」みずるは言った。

「わるいけどエクスキューズの連絡だけ、先方にしておいてくれませんか、えー、観光協会なのか商工会議所なのか知らないけど、展望台を管理している先の担当に。ただ見るだけですから怪しまないでって。この前みたいに警察を呼ばれたらいやだから」

「はあーい」可愛い声がして、電話は切れた。宇藤木とは別の意味で掴みにくい男だ。

 まあいい。みずるは、そのまま車を店の駐車場から出した。


 宇藤木とみずるが扱うことになった事件の概要は、こうである。

 県北部に鬼津野渓谷と呼ばれる場所がある。そこには戦前から歴史のある、渓谷の規模には少々不釣り合いなほど立派な展望台があった。砂防ダムを生かしたそれは、土日祝日にはそこそこ賑わうが、普段はごく静かな場所であるという。

 およそ一月半ほど前、展望台を自家用車で訪れた男性が、谷底で意識不明の状態で見つかった。男性の名は馬木竜馬、年齢は33歳。意識は現在も回復していない。

 地元の出身者であり、5年ほど前から県の観光産業交流センターに勤めている。一見の観光客ではなく土地勘もあり、仕事の関係もあってたびたびこの渓谷を訪れていた。

 当初は事故と自殺、両方の線で捜査されたが、すぐに状況から前者の疑いが濃厚とされ、そのまま捜査は終結しようとしていた。

 近くに警察署もなく、4、5年に一度ぐらいは転落などの事故がある場所だ。捜査側としてはさっさと幕引きを図ったのは無理もない。


 ところが、ある人物からクレームがついた。名は酒井美里。馬木の婚約者とされる女性だった。彼女は、馬木が自殺するなどあり得ないと強く訴え、同時に背景に何らかの事件が存在するのではないかと主張した。

 通常なら、婚約者の事故によって動転した若い女性によるうわごと扱いされるところが、酒井の親戚には、県の公安委員だった人物がいた。同時に彼女はあるボランティア団体のスタッフという身分を持っていて、団体はある地元選出の野党系議員につながりがあった。

 さらに、母親は県内外に出店している人気丼チェーンの辣腕オーナーとして知られ、市や県の行事に招かれてはひんぱんに講演を行っている。

 さらにさらに、馬木の叔父は市会議員の安藤修造という人物だった。キャリアは三十年以上あって、県にも国にもそこそこ顔が利いた。

 彼は、これまで渓谷に転落事故はあっても、大半が強引に場所取りを図った釣り客と、沢歩き用の靴もはかずに渓流遊びをした観光客によるもので、彼のように地域を熟知した人間が事故を起こすとは不自然である、と指摘した。


「ここまで揃うと、警察も抵抗の気力を失うんだろうな」資料のその部分を読んだらしい宇藤木がまた言った。

「それでわたしが呼ばれた。幸運だったかもしれないな、このひとたち」

 キミに任せると言うのが、ささやかな抵抗だよと言いたいのをみずるは抑えた。

「いま刑事部は2件の殺人をはじめ、めんどうな事件をたくさん抱えて、どうしようもないのよ。あの連続かまいたち事件ってのも、一課でなんとかしろって声が起こっているんだって。愚痴が私まで伝わってきたわ」

「ああ。寂しい場所を歩いていると突然パチっと衝撃を受けて、時には服の破れる人までいるっていう、あれ。女性の被害者が多いから、誰かが狙ってやっているんだろうなあ」

「やっぱり、そうなの?」

「うん。呼び出しを受けた時、あれを調べろと言われるのかと思った。県をまたいでいるから、難しいのかな。ただ、今みたいなその場しのぎじゃなく、体系だった捜査を求める声はあるみたいですよ。ほらこの前、一緒に医大に行ったときに難波が言ってました。進行が鈍いので、あれも僕の課で面倒を見ろって尻を叩かれていると、嬉しそうに身悶えして」

「……」

「あ、マゾのせいもあるけど、いちおう洒落のつもりらしいよ、前にナイトシフトのおばさまばかり青痣を作っていた頃は、連続尻叩き事件とか呼ばれていた」

「あ、そう」

「あの呼び名が下らなくていい。それに、ああいったどこの課が担当するのかあいまいなケースを、こっちに振ってくればいいのに。煮詰め過ぎて焦げついたようなのばかりくる」

 宇藤木も、担当とかを考えるのだなあ、と新鮮な気分でみずるは聞いた。

「似たような話で、男が怪我をしたのがあったでしょ。指を切り落としちゃったの。模倣犯かもしれないけど。もしかしたら意外にヘビーな連続事件かもね」

 宇藤木はうなずいた。「その見方には賛成だ。さすが」

「それで」正面から褒められたのに焦って、みずるは話をかえた。「市会議員のおじさんが、宇藤木さんのことを小耳に挟んでいたそうよ」

「ほう。田舎議員にしては情弱ではない」

「最近、県警が使う怪しい助っ人がいると聞いた。こっちに根回しのなかったのは気に食わないが、忙しいのはわかってるから、この際そいつでも構わないって言ったそうよ」

「それは光栄」

 態度からは、皮肉がこたえたのかまったくわからない。

「あ、そうそう。雇用条件は前回と同じ。まず5日間の契約、一日7時間相当で計算」

 そのほか、諸条件をみずるはしゃべったが、ピエールは軽く目を閉じて頷くだけだった。雇われる条件にはずいぶん鷹揚なのに、なぜ食費や携帯電話費用をそれほどケチる必要があるのか、いまひとつ飲み込めなかった。

 それが終わり、またコーヒーを口に運びつつ資料を読んでいた宇藤木が、笑った。その中で例の馬木の叔父は、少年のころから少年サッカークラブに所属していた甥が、転落事故などを起こすのはおかしいと主張していた。

「サッカーの技術と、事故の際に転落を回避する能力というのは果たして共通か否や」

 一通り資料を読んだ宇藤木は、婚約者の酒井のページを叩いた。

「こいつがあやしい。これが犯人だ」宇藤木が人をすぐに犯人扱いするのには慣れっこになってきた。圧力?をかけてきた市会議員の叔父というのも、結局は旧知の酒井美里にせがまれて出馬したようだった。そんな人物が犯人と言うのは、いくらなんでも考えにくい。


「しかしなぜ、そんなに事故を否定したがるのかな」

 車重のあるSUVを、無事に高速道路へと合流させるのに成功したみずるは、つい口が軽くなり疑問を語ってしまった。

「事故だとおりない保険に入っている……ってことはないよね。それは自殺の場合か。あと、貸した金を請求できないから白黒はっきりしたいと考えてるとか。事故だと気の毒だから請求しにくい、とか」我ながらいい加減な意見なのに、

「それはいい推理だ」との返事が返ってきた。「案外婚約者との間は、こじれてたかもしれないよ」

 などといいつつ宇藤木は腕を組み、資料に目を戻した。

「しかしおじさんに、彼女か。狭い世界で生きているなあ。きっと犯人は弟だ。あ、いるのは妹だけか。それも北海道在住。いいな。時計台の前で逮捕だ」

「やめてよね、まだ犯罪と決まってないんだから」思わずみずるは言った。

 この男は犯人をやたらと早い段階で指摘する。むろん証拠は一切揃っていない状態において、である。そして、真犯人と断定すれば、強引に罪を被せさえしかねないとみずるは疑っていた。

 前にもあったのだ。いきなり犯人を指摘し、相手が罪を認め、供述通り死体まで発見されてから、「おや。こんな反証が。ああ、あぶない、あぶない」とつぶやいていたのを耳にしたことが。

 追求すると、「和気さんは忙しすぎて、幻聴を聞いたんだ」とごまかされた。


 鬼津野渓谷になぜ展望台があるのかといえば、年代ものの砂防ダムがあるからだ。そしてにそこからは、自然湖と人造湖が連なって見える。その光景は、完成当初はいざしらずすっかり古びた今となってはなかなかに風情があった。

 また、渓谷の近くに登山口にもあって、春秋の土日は朝夕のバスがリュックサックを背負った客によって賑わうという。

(うちの母さんなら、面白がって行くかな)と考えながら渓谷の駐車場に降り立ったが、生憎のところ今日の渓谷は閑散としていた。

 これほどの光景に二人だけなのは、もったいない気もする。


「ほどよく寂れている。廃墟マニアもくるかもしれない。たしか結構前にも一度ブームになりかけたのではなかったかな、テレビの深夜番組のせいで」

 と、宇藤木はみずるに言った。検索してほしいとの意向かもしれない。彼は自前の情報端末を持たない。

「ああ、そのようね。ネットにそんなことを書いている人がいる」話を前に進めたいので、てきとうに流した。

 今日のみずるは、外に出る予感があったので、あらかじめしっかり日焼け止めを塗っている。

 だから気にすることなく、車の外に出て歩き出せた。ただし風は強い。


 展望台につながる駐車場は、ここもまた広々とした空間だが、ところどころ舗装が剥がれ、草が生えているのが見える。

 登山客がここに車を止めることも多いようだが、今日は車が一台、ポツンと置かれてあるだけだった。ただし、みずるの関心を引く車種である。軽の四輪駆動車に社外品パーツを盛って、カスタマイズしてある。

 車に目線を注いでいるみずるに、

「あれは、特殊な車かなにかですか。いかにも和気さんの視線を浴びそうなジープスタイルだけど」と、宇藤木が尋ねた。

「車自体は珍しいものじゃない。ただ、結構手を加えてあるかな。ホイールとか荷台もそうだし、車高も少し高めてある。ずっと置いてあるなら、よく部品ドロに目をつけられないものだなーって思って」

「そうなのか。こんな山中だとヤンキーは少ないということか」

「あれ、落ちた人の乗ってきた車よね。どうして置いてあるのかな」

 置いてあるということは、警察が事件性を認めてないということだろうか。しかし宇藤木の返事は、

「生き霊が車を取りにやってきたりしなければ、そうかも」だけだった。


 駐車場の先には、二階建てと見えるひとつながりの建物がある。

 高速道路のサービスエリアと似た構造で、目的も同じと思われた。ただし、シャッターはしまっている。

 外観に落書きやガラスの割れたところはないが、もともと大した建物とは思えなかった。現在、端にあるトイレだけは辛うじて使用可能になっており、そのほかは閉店中だった。近寄ってみる。

「90年代の建物だろうな」と、宇藤木が言った。

 かつてカウンターだったであろうスペースは、ガラスがすっかり曇っており、さらに近づいて中をのぞいてみると、日焼けした椅子とテーブルが少しだけあるだけで、あとはがらんとしている。

「おにつの渓谷観光ステーション」と記された看板は残っていた。その隣のくたびれたポスターからは、「おにの里、鬼津野渓谷」と辛うじて読める。

「知らんなあ。おにの里なんてキャッチフレーズ、あったのか」と、みずるが首を捻っていると宇藤木が、「ここ、夏はかき氷、冬はどら焼きだったろうか」と、さも大事なことであるかのように聞いた。

「知らないわよ。五平餅じゃないの。ポテトフライとか」

「そうか」適当な返事をしたら、諦めてくれた。

 ちまちました売店の好きな男らしい。彼はしばらく熱心に中をのぞいていたがそのうち、大股で展望台の方に歩いて行った。むやみと長い足元に、枯れ葉が舞い上がった。その先は渓谷となっている。


「もうひと月たっちゃったから、どうせなにも残っていないでしょう」と、みずるが声をかけると、

「あっ、あの手すりに激しく擦れたあとが!」嬉しそうに宇藤木は指差した。「あそこから落ちたに違いない」

 展望台の端に、腰ぐらいの高さで手すりが作ってある。コンクリートと木製の部品を組み合わせてあった。むろん、擦れたあと云々は宇藤木の下らない冗談なのはわかっている。

 上機嫌なまま、手すりに到達した彼は、ちらりと絶壁を見下ろし、とたんに顔をしかめて離れた。

 高いところは苦手のようだった。

「そこ、じっくり観察すべきところでしょう」

 なにも答えず、顔をしかめたまま宇藤木はふらふらと歩いていった。

 あの男の場合、みずるたちの視点よりも30センチは高みから見下ろすことになり、怖さも増すというのは理解できる。しかし勇敢な探偵には、見えない。

 

 ぼんやり時間を過ごすのが苦手なみずるは、いつもたすき掛けにしているカバンからカメラを取り出し、思いつく場所を撮影して回った。

 渓谷を覗き込むと、ずっと下の方に石がごろごろと転がっていて、その横をさらさら川が流れている。水量は多いとは思えない。岩はどれも尖りかげんで、これを鬼の角と言いたいようだ。

 宇藤木からは写真撮影についての指示はないが、あとで忘れた頃に聞かれることはあって、そのための予防のつもりだった。


 風が出てきた。冷たい風に耐えて、宇藤木ごときのために写真を撮っているのがばかばかしい気がしないでもないが、まだ新しいカメラを操作するのは楽しくもあった。

 もともと、みずるは写真好きである。この探偵もどきのマネージャー役の仕事が本務に追加されたのを母親に愚痴っていたら、いつの間にかカメラを買い換えに、一緒に大型カメラ店へと出かけることになってしまっていた。

 表向き、多趣味な母親の写真を撮るためと言い訳をつけているが、いまのところ増え続ける写真データは、ほとんど事件がらみである。

 彼女の母は、なぜかこの役目を当人以上に興味を抱いているところがある。とはいえ危険な目に合いはしないかと聞くことはあった。

「ぜんぜんない」とは答えておいたが。


 メガネのレンズ面と化粧の剥がれを気にしつつカメラのファインダーを覗き込んでいると、いまどき貴重になったセダンタイプの車が駐車場に入ってきた。

「やあやあ、みなさん。はやいですね」難波だった。今日は一人で、いやに明るい。

 遠目にもにやにやしながらこちらへ歩いてやってくる。

「なんだ。きたんですか」仕方なく迎えに行った。宇藤木も何も考えていなそうな顔をしてやってきた。差し入れを期待したようだが、難波は手ぶらだった。

 風がさらに強まって、駐車場を吹き抜けた。みずるは髪を短くショートボブにしているのだが、それでも乱れないように手で押さえた。

 難波もあわてて押さえた。彼は細い髪質をして若いわりに髪のボリュームに欠けている。それが、風に吹かれるとよけいに少なく見えて物悲しい。しかし、髪量の豊かな宇藤木は、蓬髪を風がなぶるに任せている。

「いつまでも寒いですねー」薄手のトレンチコートを着ている難波は、大袈裟に震えるふりをしたが、楽しそうだ。しかし小柄でまんまるっちい彼に、長すぎるコートはあまり似合っていなかった。


「無事、出てこられたんですね」みずるがお愛想を言うと、

「そうなんですよ」難波はまだ嬉しそうに言った。「さっきの電話のあと、事情が変わりましてね。宇藤木さん、理由ってわかります?」

「諸治係長がインフルエンザ」それだけ言うと、宇藤木は吹きっさらしにふらふら揺れながら、展望台を横切り反対側へと向かって、一群の顔出しパネルにとりついた。

 難波は挙動不審になった。

「どうしたの。正解だったんですか」みずるの問いに、

「あのひと、絶対に警察内部に内通者を持っている」と断言した。「ぼくだって知ったばかりなのに」

「それだったら逆に、軽々しく言わないでしょ」

「じゃあ、署内を盗撮している」

「電子機器は、あまり得意ではないと思われるけど」

「いえ、ぜったいカモフラージュだ。ほんとうは……」

 ぶつぶついう難波を放置して、みずるは宇藤木に接近した。

 「写真をとりましょうか」と声をかけようとして、やめた。調子に乗られかねない。


 しかしここの顔出しパネルは、基本的に絵柄が明るくて可愛い。

 よくある観光地のパネルのように、素人くさい感じもしない。プロのデザイナーなり絵描きの手が加わっているのだろう。

「こんなのに囲まれて自殺する気はあまりしないわね」とみずるは言った。「東尋坊だったらもう少しは気分が乗るかも」

「あ、ぼくも東尋坊は好き。首長竜の出てきそうなところがいい」

 よく意味がわからないので、返事は返さないでおいた。

 彼は最も大きいパネルに興味を抱いたようで、思いつくまま周囲を歩き回った。長身の宇藤木よりさらに高いということは、軽く2メートルを超えていることになる。みずるも仕方なく、写真を撮っておいた。


「これはまた、大きいな。どうしてこんなのをつくったんだろう」極力関心を示さないふりをするつもりだったみずるも、つい口に出してしまった。「よほど客がくると考えたのかな。けっこう製作費、かかるんじゃないの。風雪にも耐えてるし」

 それほど、パネルは立派である。ここの顔出しパネルはどれもしっかりと補強がなされていて、ただベニヤ板を切っただけではない。そこそこ年数がたっているはずなのに、しゃんとしているのは、そのせいだった。

 パネルの表面についても、多少荒れては見えるものの、明らかに傷んでいそうなのは少なく、白い粉を吹いたりもしていない。

 設置場所が手すりに近いのは、写真へのうつり具合より、雨風のぶつかりにくいところを選んでいるのだろうか。

「これ、定期的にメンテナンスされているのかな」とみずるが聞くと、「たぶん。素性もいいのだろうね、塗装とかボードの材質の」宇藤木は彼女の言葉を肯定した。


 ようやく難波が来た。「ここ、崖下はおどろおどろしいし、顔ハメ看板は怪しいし。宇藤木さんじゃなくて金田一さんを呼ぶべきですよね」

 すると、さっきの水着姿の女の子が棍棒をふりあげているパネルの前面に回った宇藤木が、こちらに声をかけてきた。

「この絵、髪型も色も違うけど、やっぱり、ラムちゃん……」

「シッ」難波が丸っこい指を唇にあてて警告した。「だめです、口に出しちゃ。一時マジにもめてたんです、無断借用じゃないかって。洒落にならない」

「ここで言うぐらい、いいじゃないの」

「いえ、だめです。誰が聞いているかわからない。盗聴器が備えてあるかも」

 まだしつこく、疑っているらしい。「こんどPRやりなおすなら、絵柄はぜってえ変えておかねば。聞いてるか、市長に知事」

「それでこの、子鬼はやっぱりテンちゃんかな」

 しつこく聞く宇藤木に難波は困り顔で告白した。

「実はぼく、あまりよく知らないんです、あのアニメ。傑作らしいけど、若いぼくとは世代が違うじゃないですか」

「原点を尊重するなら、マンガと言うべきだ。この絵柄も原作寄りだし。後期を真似たかな」と宇藤木は訂正したが、難波はそれには反応せず、

「係長は詳しいんですけどね。主題歌が持ち歌だし。あーいはもしかしーてえーって歌うんですよ、あの顔で。ケッ」

 下手な難波の歌に興を削がれたように、宇藤木はその場を離れ、あとは風によって落ち葉の舞う展望台をふわふわと漂うように行ったり来たりした。

 観察しているのか詩作にふけっているのか、わからない。ドラマの探偵ならここではいつくばって観察したりするのだろうが、みずるが生まれてはじめて見た本物?の探偵は、細部には関心がないようにさえ思える。


 風と思わぬ寒さのせいか、急に疲労感を覚えたみずるは、色のあせた樹脂製のベンチに、手ではたいてから腰をかけた。コーヒーか紅茶でも飲みたくなった。しかし自販機までは遠く、歩いて行くのが面倒くさい。

「いま誰もいないけど」みずるは、横にきた難波に言った。「この展望台って普段はどうなんでしょう。掃除はしてあるみたいだし」

「さっき電話で聞きましたが、平日は朝に清掃が入るそうですよ、シルバー人材センター経由の。で、土日はボランティアスタッフがくる。早朝は人もいるそうだし、体操してたりするし、この先に登山口もあります」

「そうか、若い人はともかく、中高年は意外にくるのね。ちょっと歩けば人家もあるみたいだし」

「ラブホテルもあるよー」と、離れたところから宇藤木の声がした。

「ただ、めぼしい目撃者はいないそうです。あと昔は企業とか団体の研修センターって名の保養所が多くあったんです。いまは一部が残っているだけですが。ねえ、そっちの人々の話って、必要ですか」難波が戻ってきた宇藤木に声をかけると、彼は手をゆらゆら否定の形に振った。「とりあえず、いらない」


「そうだ、難波さん」みずるは刑事に聞いた。「あそこに放置してある車って、馬木さんの」

 散歩でもしているような顔つきの宇藤木が、また駐車場に回って車をのぞいていた。シルエットだけ見ると、さながら車上あらしである。

「ああ、そうです。意識不明のひとのやつ。あの馬木さんって、一人暮らしなんですよ。親兄妹は他府県にバラバラだし、ぜんぜん見舞いにこないし。持って帰る人もいなくて、職場の人がきてくれるとか聞いていたのに。まだあるな。こうなるとぼくがレッカー呼ばないといけないのかなあ。ここは途中、狭い道があるのに。もう一度とりに来るのも面倒だなあ」と、誰に訴えたいのか、もにょもにとしゃべり続けた。

「部品を盗まれたら気の毒だなと思たんです。ホイールとか、けっこう高価なはずですよ」

「うーん、そうなんですか。あとで話題の婚約者にでもどうしたいか聞いてみます。でも」難波は宇藤木を指差した。「あのおひとって、車に詳しいんですか」

「ご自身で持ってないですからね。そうそう、車の部品とか塗装とか材料については結構ウンチクを垂れたりするな。車種はそれほど知らなくても」

「ふーん。まあ、鉄道マニアだって車両を所有しているわけじゃないしな」

 車を見飽きたのか、宇藤木はやっと戻ってきた。そばに近づくと、よっこいしょとベンチに座り、

「ああ。頭を使った。糖分をとらなければ」とポケットから小さな箱を取り出した。ボンタンアメとある。

「和気さん、食べますか」

「いえ、いいです」

 難波がじっと見ているので、宇藤木は言った。「君は自分で買いなさい」

「えっ」なぜか難波はショックを受けた顔をした。

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