ほんとうのこと(2) 《支倉柚衣》


2051年8月8日 レビュアー 支倉柚衣



幸福の絶頂から死へと飛翔した兄に対し、残された者は絶望の底に叩き落とされました。とくにU君は消耗は著しく、ひたすらに自分を責め苛んでいるようでした。はこれまでの因縁はともかく彼を憐れに思うようになりました。


「おおお俺が殺したんだ」


「兄はまだ死んだわけじゃないの。どうしても殺したいのね?」


残酷な兌はさらに傷跡を抉るような台詞をU君に投げつけます。兌は自分の残酷さを抑えることができなくなっていました。U君を憐れに思えば思うほどに手荒く彼を傷つけてしまうのです。


「あれじゃ、しし、死んでるようなものだ!」


正しく言うなら兄は自死に失敗しました。展望スペースの窓を打ち砕いて虚空に身を投げた兄ですが、37.85メートルの高さでは兄の息の根を止めるには足りなかったのでした。地面に叩きつけられたダメージとして脊椎損傷・全身打撲・尺骨及び頭骨の骨折・内蔵破裂さらに脳への深刻なダメージが見られたにもかかわらず兄は命を取り留めました。とはいえ、いつ終わるとも知れぬ昏睡状態に陥っただけでなく、奇跡的に眼を覚ましたとしても高次脳機能障害あるいは遷延性の意識障害が残る可能性が大きいとのことでした。


そもそも兄が数々のハンディキャップを抱えながらも、なぜいつも幸福に満ちていたのかという問題もあります。あの言い知れぬ多幸感もディスレクシアと相関関係にある脳の状態であったのかもしれません。脳科学者のジル・ボルト・テイラーは脳卒中に襲われ、左脳を出血した時、とてつもない至福を感じたと言います。興味深いのは、彼女はその時に言語を介することが非常に困難だったことです。左脳的論理機能が停止したとき、自己と世界の分断は消えて、至福や悟りといった宗教的境地が現れることがあります。現代ではそれを宗教臭を脱臭して〈継続的非記号体験PNSE〉と呼ぶのが通例ですが、兄は常にその状態にあって世のあらゆる葛藤と苦悩から隔絶した場所に立っていたのかもしれません。


不思議なことに兄が昏睡してからは、あれほど兄を慕っていた妹よりもU君の方が兄の面倒を見るようになったのでした。自分が兄を追い詰めたという罪悪感からでしょうか、だんだんと兄の病院から足が遠のいていった兌に対しU君はまるで熱心な信者が聖人の身を回りの世話するようにかいがいしく付き添ったのでした。元はと言えば、恋の邪魔者とした排除しようとしたはずなのに、兄がこうなってしまうと兌のことなどそっちのけです。奇妙な三角関係と言えばそうなのですが、そうなると我がままな女心がむくむくともたげ、兄とU君の間柄が小憎らしくなってきました。まったく三者三様の愚かさです。


ちなみに前レビュアーの方の投稿は真っ赤な嘘です。兄の自殺未遂以来、東山給水塔は立入禁止となりました。年に二度のもなくなり、一般の観覧は一切できなくなったのですから、彼らがそこに行ったという記述は、違法に忍び込んだのでないかぎり真実ではありません。とはいえ東山給水塔の描写はあながち間違ってはいなかったです。よくできていると言ってもいいでしょう。ポンプ所の煉瓦造りの小さな建物もネットの写真から調べたのだとしたら感心するほど精確でした。


さて脱線しました。三人の距離感は変化しつつもそれなりの関係を保っていたのでしたが、ついに復活の日がやってきます。とうとう兄は目覚めたのでした。恥ずかしながら、これは兌ではなくU君の熱心な世話のおかげかもしれません。彼は、眞淵祭文の書いた小説を音声朗読ソフトで病床の兄へ聞かせ続けました。またU君自身も彼の肉声で読み上げました。


「目を覚ませ。続きを書くんだ。起きたらびっくりするぞ。これを待ってる人間がたくさんいるんだ」


数年に及ぶ献身の中でU君の吃音はじょじょに影を潜めました。兄への読み聞かせが克服の鍵になったのかもしれません。これもまたU君の兄への信心を強める結果となりました。目覚めの瞬間に立ち会ったのも家族ではなくU君でした。白雪姫のようにロマンチックな一場面をのちにU君はこう語ったものでした。


「まず、あいつの指先が動いたんだ。寝静まった世界でただひとつ動くモノがそれだった。俺にはあべこべに見えた。あいつ以外の世界全部がグラグラと揺れたように見えたんだ。あの指先だけが北極星みたいに巡り続ける宇宙の不動の中心だった」


いささか大げさな物言いですが、そんなものかもしれません。


奇跡はさらに続きます。覚醒した兄にはディスレクシアも失声症も、その症状の片鱗も残っていなかったでした。病室の名札にある自分の名前を見た兄は、輝く刃物を直接脳に突きこまれたようだったと述懐しました。兄は理解の洪水に押し流されたのでした。退院までの数週間に兄は、日本語だけでなく、無数の外国語から成る書物・メディアを読み漁り、六つの言語の読み書きをたちまちの内に習得したのでした。視覚を通して脳に突き刺さる活字の群れに兄は飽和状態となり、全身はいつも熱を帯びていました。生まれてこのかたほとんど理解することのできなかった文字たちをとてつもない勢いで吸収していったのですから当たり前です。


「どうしたの。やけに深爪じゃないか。得意のイカサマポーカーにそれは不向きだろ?」


目覚めて開口一番に兄が放った言葉はそれでした。U君は薬指を曲げて中指を立てたそうです。


退院した兄は、図書館に通い詰めて膨大な書物を平らげるかたわら、ほんの余技のようにフーリダヤムを再開しました。もう兌の助力も〈口パク野郎の戯言lip-sync:BS〉も必要としません。たったひとりで数時間のうちに完成させたうえに以前の文章を修正までしたのでした。


以前は滔々と流れる川のようだった兄の言葉は、ブロックをひとつひとつ積み上げるようなリジッドな構造へと変わりました。兌は前の文章が好きでしたが、U君は圧倒的に新しい文体を支持したのでした。恢復した兄は、遅れていた学業を再開すると小説の執筆には見向きもしなくなりました。欧州の大学で分子生物学の学位を取るとアメリカで職を得て、ほとんど日本には戻らなくなりました。


U君と兌もそれぞれの道を歩みました。その後の三人の人生に突飛なところはありません。それなりに平凡で間が抜けていて、時にちょっぴり崇高です。ただ一つ残念なのは、ハンディキャップを克服した兄は周囲までもを明るく照らし出すようなあの幸福感を失ってしまったことです。子供のような笑顔も透明な無垢も全部、あの給水塔の中に置き去りにしてしまったみたいでした。兄は今も昔も変わらず天才ですが、不変の幸福からは見放されたのです。


隠された宝があの場所にあるとしたら、それでしょう。決して手に取ることはできませんが、もしかしたら静かな気配を感じることはできるかもしれません。それはアクセスされることを待っているただならぬ神聖さ、そして自由です。胸の内を世界全体に開いてためらわなかった兄の心。それがあの場所には秘められています。


いまでも夢見るのは、兄の誕生日にあの塔へ上ることですが、きっとそれは叶わないでしょう。膨大な電子の言葉が張り巡らされた図書館に閉じ込められた兌は、職員権限を私用して、アーカイヴにこうしてささやかな爪痕を残すくらいしかできません。そう、これはフーリダヤムに寄せられた最後のレビューとなることでしょう。


これはレビューにふさわしい文章でしょうか。もちろん、と兌は胸を張って言いたいと思います。「review」とは、re(再び)view(見る)という意味ですから、何かを振り返って省みるという原意にふさわしいものであるはず。


よい眺めを得るには、必ず高い場所が必要とは限りません。


あなたのフリダヤムにはまったき自由フリーダムがあります。それは、そこにあって永遠に発見されることを待ち続けています。どんな時どんな場所にいようとも。ただ再び見ればいいのです。

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