おねがい、手を握って
けいひら
最初の行ってきます
「行ってきます。」
母がいるリビングに向かってそう言いながら私は玄関で靴を履いていた。愛犬のダックスフンドが「行ってらっしゃい」と言わんばかりに、私のそばへ来て顔を見上げている。なるべく犬と同じ目線の高さまで姿勢を低くし、「行ってくるね」と優しく呟いて頭をいつもより長めに撫でる。家を出ようとドアを開けると、眩しいほどの太陽の光を全身に浴びたチューベローズが咲き誇っているのが目に入った。そして家から一歩出ると、後ろを振り向いて、ドアが閉じるのを最後まで見届ける。キラキラとした愛犬の眼差しが、ドアが閉まりきる最後の瞬間まで、まっすぐ私の顔を捉えていた。できることならもう一度ドアを開けて、愛犬を撫でてやりたかった。
でも、できない。
自分で決めたことだもん。
もう悔いはない。
行こう。
私が乗る電車は7:40着で今の時刻は7:39。ホームでは白線の内側にいるように注意喚起するアナウンスが響き渡っている。それに従い多くの通勤・通学者と思われる人たちは接触の危険がない場所まで下がっている。今、電車が到着した。ドアが開いたが、ほとんど人は降りてこずに、逆に人がたくさん乗り込んだ。私はいつもとは違い、その光景をホームの椅子に座りながら見ていた。この電車を逃せば学校には遅刻することは確定。でも、今日はもういいの。
それから何本かの電車が過ぎていくのをその場でじっと見ていた。時間にしておよそ3時間半。何もすることなくただただじっと。特に神経を集中させる必要がなかったからか、うるさいセミの鳴き声だけが記憶に残っている。反対側のホームの上に見える大きな入道雲に、3時間半経った今、ようやく気付いた。ホームを見渡してみると、買い物袋を腕から下げた老人が2・3人いる程度。人がいるのは仕方ないけど、もうそろそろチャンスかな。人がたくさん来るとまずいからね。
よいしょっと。あイタタタ。さすがにずっと座ってると、若くても腰が痛くなるもんなんだなぁ。さてと、もうじきかな。
「まもなく、2番乗り場に、桑ヶ谷行の電車が6両で到着いたします。危険ですから...。」
来た。
振り返ってみると、私の人生、やっぱりそんな楽しくなかったなぁ。もっといっぱい、笑えると思ってたんだけどなぁ。でも、もうやっぱり、悲しくとも何ともないや。どうせ気にしても、同じこと。お父さん、お母さん、迷惑かけてごめんね。澪、もっと遊んであげればよかった。マロン、あと一回でいいから撫でてあげたかった。おじいちゃんも、おばあちゃんも...ありがとう。
ー待って!!!
ガタンゴトン...ガタンゴトン...。
痛てて...。一体何が起こったの?私、轢かれてない...?もしかして君が助けたの?そう...。ごめんだけど、もう決めたことなの。キツイ言い方するけど、邪魔しないでくれるかな。
ーダメだ!やめてくれ!
イヤ、もうこの世界にはいたくないの。なんて言われても変えないよ。遺書ももう書いたし、何よりこれ以上生きていてもいいことないもの。
ー嘘だ、さっき少し後悔したでしょ!
...どうしてそのことが分かったの...?
ーだから、考え直そう!
.....ごめんね、やっぱり死にたい。でも、ちょっと付き合ってくれないかな?
ーどうして?
私の今まで話せなかった辛いこととか、楽しかったこと、全部話せる人なんていなかった。聞いてくれるだけでもいいの。そうすれば、私は悔いなくあの世にいける気がする。だから、ちょっと時間くれないかな?
ーもちろん。いつまでも付き合うよ。全部吐き出せば、気持ちが変わるかもしれないしね。
それは、ないと思うけど。じゃあ、話すね...。
ーそっか、そんなことがあったんだね。
それが私の死にたい理由のすべて。これでちょっと肩の荷が下りた気がするなぁ。
ー本当に?ならよかった。
本当だよ。これで、何も後悔せずに死ねる。
ーそんな暗いことなんか言わないでよ。そうだ、妹さんに会わせてよ!一回でいいからさ!
ん~、でも澪は人見知りだからなぁ。いきなり人連れてきたらびっくりしてしゃべれないだろうけどね。
ーハハハ、そうなんだ。
あ、もう2時40分。だいぶしゃべっちゃったね。君は、制服だから学生じゃないの?学校はよかったの?
ー平気平気!一日くらい大丈夫!
ダメだよ、学校にはちゃんと行かなきゃ。まぁ、私が言えたことじゃないんだけどね。
ー確かに!ハハハハ。
アッハハハハハ...。なんかさぁ、他人と、ましてや齢の近い男の子とこんなに気楽に話し合えたの、すごい久しぶりな気がする。ありがとうね、私の都合につき合ってもらって。
ーううん、全然いいよ。なんなら、このまま夜が明けるまで話してもいい。
それもいいかもね。
「まもなく、2番乗り場に、桑ヶ谷行の電車が...。」
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