感情のない希死念慮、とは

その日は夕方まで雨だった。

授業時間がずれている関係で、通っている大学は所属サークルのある大学より5限の終わりが10分ほど遅い。自転車を飛ばせば例会に問題なく出席できるのだが、今朝は土砂降りだったので自転車は諦めた。おまけに5限後はほとんどの生徒が大学を出る時間である。喋りながらのろのろ歩く学生たちで歩道が使い物にならない。仕方なく、所属サークルのある大学近くまでバスに乗った。

最寄りバス停で降りると、マフラーを忘れた首元を、乾燥で少しひりつく喉を、形の崩れたリュックと背中の間を、少し湿気た冷気が通り過ぎた。バス停の目の前にある交差点は、僕より何倍も何十倍も頭のいい人たちでごったがえしていた。頭のいい人たちにまぎれて、間抜けもまた例会に急いだ。

夏ごろから、例会の場所に近づくと動悸がするようになった。回を重ねるごとに酷くなっているのは薄々気づいていたが、どれだけ蔑ろにされても、振り回されても、存在が空気になっていても、辞めるわけにはいかなかった。既に同回生の3分の2が辞めていた。これ以上誰も辞めないように、誰も寂しがらないようにと、見かけだけ気丈に振る舞う間抜けはどれだけ滑稽だったろう。

例会まであと5分。いつもなら小走りで向かうか、遅刻連絡を入れる時間。今日は後輩に色々教えなきゃ。だけど僕に教えられること、いくつあるかな。彼らは優秀だから、僕がいなくてもうまく回せてるんだよね。むしろ僕邪魔かも。先輩たちのおかげだ。先輩たち、そろそろお忙しい頃だろうか。あ、そういえば引継ぎ書類任されてたんだった。試験もあるし早いうちに終わらせなきゃ。あとは・・・

あとは・・・?

コンビニの横で足が止まった。急いでいるのに、思うように動かない。

はらわた辺りから質量を持った概念がじわじわとあふれ出し、身体を満たして胃や肺や心臓を圧迫した。動悸はいつも通りだが、息苦しさと軽微な吐き気は慣れない。さっき何考えてたっけ、などとぼんやりしていると、概念を喉元に感じた。息苦しさが増し、地面に顔を向ける。背中にPCと小型六法がのしかかり、危うく往来のそこそこ激しい道端を見苦しい光景にするところであった。

呼吸を整えて、顔を上げる。携帯を見る。18時30分。

頭の中で、綿が引きちぎられるような感覚があった。


「一度、轢かれるつもりで電車を見よう」

紆余曲折の末、こんなことを思いついた。

大学近くの駅には準急と普通しか停まらない。もう少し大学から離れてもよかったのだが、飛び込んで電車が止まったときに使えない駅が増えれば増えるほど、賠償金が高くなるのを知っていた。この駅の下り路線に飛び込めば、使えない駅は2つで済む。バスもあるから、そこまで振替輸送に手間取ることもなかろう。

ホームに降りる階段に、列車風が舞い上がった。いつ浴びても涼しい。頭周辺の火照りが冷めて、心なしかすっきりする。

ベンチに腰掛け、推定3-4kgのリュックを横の席に置いた。

念のため、この駅での人身事故を調べた。無傷1名、軽傷2名、死亡3名。まあ大丈夫でしょう。

さて。

顔を上げると、普通列車が停まっていた。知らぬ間に来ていた人々が乗り込む。

準急と普通しか停まらないが、列車が到着する直前にはそれなりにホームが人で満たされる。他人からすれば人身事故はただの遅延原因だし、親族以外の人の死を間近で見たくはないだろう。ましてや上手くいけばそこそこ流血沙汰になるのである。他人のトラウマの原因にならないよう、できるだけ人がいないタイミングにしなければならない。

反対側の線路を通過する列車を見た。磨き上げられた車体が照明で輝く。

多分、ホームの最も手前から飛び込むのが確実なんだろうが、その場合血はどのぐらいの範囲で飛び散るのか?広範囲なら清掃に手間がかかりそうだ。何よりきれいな車体が僕の血で汚れることに引け目を感じる。パンタグラフが水分でダメになる、なんてことがあればかなり面倒ごとになる。

こんなことを小一時間、来ては去る電車たちを眺めながら考えていた。


ふと、身体の冷えと空腹を感じた。1月中旬の大学周辺は冷え込む。ホームは地下ゆえ多少温かいが、長時間外に居座るには辛い気温だ。そして、今日は食欲がなかったからか、食べるタイミングを失ったかでたしか昼食を食べていない。

思い返せば、死なない理由を探してばかりだ。今日は、いや、しばらくは、本気で死にに行くのは難しいだろう。

面倒だったので、家の最寄り駅まで電車に乗ることにした。さっきまで轢かれようと必死に考えていたものに。自分の身の変わりように少し笑みがこぼれる。

せっかくの機会なので、最寄り駅のハンバーガー店で夕食を済ませた。いつもは脂で胃がやられるので忌避しているが、今はわりとどうでもいい。帰路に着くころには、サークルを無断欠席したお詫びを後輩にラインで送る程度には正気を戻していた。


ここまで友人に喋ったところで、怖いとか痛そうとかなかったの、と聞かれた。

その視点は、聞かれるまで全くなかった。


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