牛乳乱舞【4】
空の半分がオレンジ色に染まり始めていた。夏ならばまだ太陽が権勢を示す時刻だが、冬は星空の独壇場だ。天空はもう少しで闇に占拠されるだろう。
夜の気配が一足早く
男は全身に傷を負い血まみれだったが、死んではいない。必死の抵抗の甲斐あって損傷は七割程度に抑えられたらしい。
「訓練ご苦労様です、句曜さん」
男を冷たい目で見下ろした静音はそう声をかけた。男のケツがピクリと動き、落ち葉の山から顔が出る。
「げほっ、全部、お前の仕業か」
「さあ、どうでしょう」
「若手やらマッドやらならいざ知らず、長兄様の付き人や次兄様までどうやって――!」
句曜は起き上がろうとするが、できずに地面へ倒れ伏す。見た目の滑稽さとは違い傷が深いらしい。普段の静音ならば立ち上がるのに手を貸したろうが、そんな素振りはない。むしろ冷えた目つきで見下すだけだ。
「教える義理はありません。ですが……そう。未だあなたがそうして正常な思考で息ができていることは、慈悲と知りなさい」
句曜は身震いした。冬だから、裸だからというだけではない。風はないはずなのに冷気に全身を舐められるような寒気がした。
「たかが上級戦闘員ごときが真信様を侮辱する。それはあってはならないことです。彼はご当主様の御子息。それを軽視するなど、躾の不十分な駄犬が
卑劣な陰口ならば弱者の不理解と流しましょう。ですがこの私にそれを口にする愚かさは
静音が屈む。間近で顔を覗き込まれ句曜は息を止めた。表情こそいつもと変わらぬ無表情。だが句曜を見つめる瞳の奥に、確かに怒りの炎が見えた気がした。
「今度は潰します。お覚悟を」
淡々と、だが鋭く言って、静音は立ち去った。
残された句曜は動かぬ身体で目じりに涙をためる。
「静音、怖えぇ。げほっ」
◇ ◆ ◇
「というわけで、この件が広まって静音の名前を知らない門下はいなくなったんだ」
めでたしめでたしと言うように真信が両手を叩く。聴いていた奈緒は全くめでたくない。
「静音さん、怖ぁ。何が怖いって静音さんが相手に一発も直接入れてないってとこが怖ぁ」
震える奈緒に真信がにこやかに頷く。
「うん。トドメ刺せたのに刺してないからね。余裕が見えるよね」
「他人事みたいに言いますけど、先輩の付き人でしょう?」
「僕は怒らせたことないから。本人も『あれは……やり過ぎたと反省しております』って言ってたし、あんなことはもう起きないんじゃないかな」
どこか嬉しそうに笑う。確かに静音は自分の主に対してなら決して怒ったりしないだろう。
それにしても少年が無駄ににこやかだ。この人まさか自分の付き人のこと自慢したかっただけでは? 奈緒の中でそんな考えが鎌首をもたげた。
玄関で風鈴が鳴る。涼やかな音色に真信が腰を上げた。玄関が開き、ただいま戻りましたと声が響く。静音が買い出しから帰ってきたようだ。
アイスだけ買いに行ったはずなのにたくさんの荷物を抱えた静音が病室(仮)に姿を見せる。
「大人しくしていたようですね奈緒さん」
「あたしはいつでも良い子ですよ~。ねえ真信先輩」
「えっ…………どう、だろ……」
「そこはノってくださいよぉ」
「奈緒さん、真信様。アイスを買ってきましたから、溶ける前にどうぞ。味のご要望を伺っていませんでしたので上から順に取ってきました。好きな物をお選びください」
取り出したるはダッツが三種類。チョコとミルクとイチゴ味だ。しかしミニテーブルに置かれたそれを二人は取らなかった。静音が野菜類を仕舞って帰ってくるのを待つ。
手を付けられていないアイスに静音が首を傾げるので、二人して笑った。
「せっかく三つあるなら、静音も食べようよ」
「そうですよ。どの味にします?」
真信が椅子をもう一脚持ってきて置くと、彼女の驚いていた顔がほころんだ。
「ではご厚意に甘えて、ご相伴に預からせて頂きます。私は余ったもので構いませんのでお好きなものをお取りください」
けれど静音の対応は奈緒を撃つ前よりも少し硬い。奈緒に遠慮しているのが透けて見える。だから奈緒は真信とアイコンタクトを交わし、アイスに手を伸ばした。
奈緒が迷わずチョコを取り、真信が自然な動きでイチゴを取る。
余ったリッチミルクに、静音が一瞬だけ唇をキュっと引き結んだ。
「ぶふっ」
奈緒は思わず吹き出してしまう。なぜ笑われたのか理解できず当惑する静音に、奈緒は涙を拭いながら笑いかけた。
「いや~冗談ですよ。あたしはこっちが良いです」
言って手にしたチョコをミルクと交換する。静音がハッとして真信へ視線を向けた。
「まさか、アレを話したのですか」
「うん。ごめん」
「ご無体な……」
静音はよほど知られたくなかったらしい。暗い顔で
「やっぱり飲み過ぎて牛乳系苦手になっちゃったんですか?」
「別にそんなことは……ないとは言えませんが……苦手と公言するほどでもなく……少しだけ見たくないと言いますか……」
渋い顔で口ごもる。そんな彼女を奈緒は始めて見た。
「まあまあ、誰にだって苦手なものくらいあるよ」
静音の落ち込み具合に自責を感じたのか、真信がやんわりとフォローを入れる。
しかし静音の機嫌は直らない。むしろ俯いたまま何かをぼそりと口走った。
「………………………………ブルーチーズ」
「うっ」
小さく呟かれた単語に真信の顔がさっと青くなる。
それを見逃す奈緒ではなかった。
「あっれ〜? 真信先輩まさかとは思いますが、ブルーチーズ苦手なんですか〜?」
背けられた頬を指先でつつく。執拗に責められた真信はぷるぷる震えたかと思うと、開き直るように拳を握った。
「だって! カビじゃないかアレ! 食べ物に見えないんだよっ」
「まぁそういうチーズですし。納豆とかは平気なくせにどうして……」
「理解はしてるよ。でもやっぱり実際に見るとカビキラー噴射したくなって……!」
「真信先輩って潔癖症のけがありますよね」
予想外の理由にちょっと引いてしまう。食物に洗剤を持ち出してはいけない。
「ていうか静音なんで知ってるのさ。静音の前でブルーチーズの話題出たことないはずなのにっ」
「付き人になる前から存じておりましたが」
「あー! やっぱり弱み握られてた……!」
「なっ、何の話でしょうか?」
真信側の話を聞いたことがない静音が首を傾げた。奈緒はアイスをすくいながら面白そうに話を聴いている。
(主従そろって乳製品が弱点って……おもしろ過ぎるから黙ってよう)
そう奈緒が思ったことは二人には内緒であった。
◇ ◆ ◇
女性陣を残して部屋を出た真信は、空のアイスカップを小さく潰して廊下を進んだ。少し進んで部屋を振り返る。
以前ならどんな状況にあっても、静音が真信の不利になる情報を洩らすことはなかった。それが今では軽口をつけるまでなっている。
それはきっと、平賀から解放されたことだけが理由ではない。
かつて静音の関心は真信一人で占められていた。彼女には真信しかいなかったのだ。
だがここに来て、特に奈緒と出会ってからは、その比率が少しずつ変わってきているように思う。
奈緒は静音の印象を『真信先輩の付き人』と言った。それを言うなら、真信だってその彼女しかほとんど知らない。
そしてその彼女をずっと見てきたからこそ分かる。静音が奈緒へ向ける視線や態度に含まれるのは遠慮だけではない。本人ですら自覚していないかもしれないが、その視線はむしろ盟友か、それこそ主人に向けるそれに近いものだ。
静音の中の尊敬の念が、真信以外にも向き始めている。
それは真信にとって嬉しいことであり、またどこか寂しくも感ぜられた。
(これが親心というものだろうか……)
年上の女性相手に誤った父性を発揮しつつ、真信は無言でまた歩き出した。
変わるべきは恐らく、自身も同じなのだろうと。心のどこかで感じていたのだ。
牛乳乱舞 了
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