スタート

柚月ゆうむ

スタート

 私の名前は、亀浜誠一四十四歳、どこにでもいる普通のサラリーマンです。この会社言勤めて約二十年、毎日同じようなことの繰り返しですが、私は、愛する妻と子供たちに囲まれ、幸せな毎日を送っています。

 ある朝、私は、いつものように駅のホームで電車を待っていました。いつもと同じ時間、いつもと同じ車両の場所です。            

サラリーマンにとって、この朝の電車というのは戦いです。そう、椅子の争奪戦、いわば椅子取りゲームです。私は地方に住んでいるため、椅子に座れるチャンスがあるのです。電車が私の駅に着くころには、いつも大体一から三ほどの席が残っています。

 実は、私はこの駅を使って約二十年、負けなしです。つまり、空いている席がある状況で私が椅子に座れなかったことはないということです。私の足に追いつくものはほとんどおらず、いたとしても私のタックルの前に皆跪いていました。

 さあ、電車が来ました。ドアが開いた瞬間が、勝負開始の合図です。

 私は、開いたと同時に、空席めがけて、走り出しました。目の目まで迫り、今日も楽勝と思いきや、突然私の体に衝撃が走り、その場に倒れました。さっと、顔を上げると、そこにはスーツを着た、私と同年齢くらいの男が座っていました。         

初めての敗北に呆然としていると、その男は私を見下ろし、口の端をふっと上げて笑いました。


 その夜、布団に入った私は、今日のことを思い返していました。この私が負けた……、何度も「負け」という言葉が頭に浮かび、あの男の見下した顔が何度も蘇ってきました。長年防衛してきたチャンピオンの座を奪われたボクサーのような気分です。

 自然と目から熱いものが流れてきました。明日もあの人はいるだろうか。もしいたら次こそ勝ってやる。そう誓って、瞼を閉じました。


 そして、次の朝、そのまた次の朝とあの男と対決することが出来ましたが、いずれも勝つことが出来ませんでした。私のタックルは一切通用せず、「引退」という言葉が私の頭の中に浮かび始めた時、課長と飲みに行くことになりました。

 行きつけの居酒屋のカウンター席に座り、とりあえず、ビールを注文。この一週間の敗北の影響か、自然と酒が進んでしまいました。元々酒に強くない私は、すぐに酔っぱらってしまいました。

「あー、もうだめだ―。私は椅子にも座れないゴミ野郎です! 仕事も大して出来ません。課長さん、私なんかもう首にしてください」

 課長は、グダグダと管をまく私を、まあまあと受け流しながら聞いてくれた。やはりいい上司だ。

「亀浜くん、そういえば明日からゴールデンウイークだね」

「へ? まー、そうですねえ。それがどうかしたんですかー?」

「いやね、俺ももう年だから、この前の健康診断で色々引っかかっちゃってねえ。いい機会だし、ちょっとこれに行ってみようと思って」

 課長はそう言って、鞄からチラシを出した。そこにはワイザップの文字があった。

「一人で行くのは心細いし、なんか恥ずかしいから、君も一緒に来てくれないか」

 ワイザップは、近年知名度を上げてきたスポーツジムの名前だ。もしかして、課長はあきらめている私にもう一度頑張れといてくれているのか。

 私の体から何か熱いものがこみ上げてきた。

「はい、課長、ご一緒させていただきます。……ちょっとトイレ行ってきますね」

 こみ上げてきた熱いものを放出した。


  そして、ゴールデンウイーク、私は、とにかく特訓しました。すべてはあいつに勝つために。もう一度チャンピオンに返り咲くために。


 ゴールデンウイークが明け、やってきた運命の日、私は少し早くホームに到着しました。そして、奴を待ちます。しかし、いつもの時間になっても彼の姿がありませんでした。どうしたのだろうと思いながら、辺りを見渡すと、彼と一緒にいる部下と思われる男がいたので、彼に尋ねることにしました。そして、彼の居場所を聞き出すことができました。


 ガラガラと、病室のドアを開けると、そこには点滴をつけて横になる宿敵―佐々木さんーがいました。彼は私に気づくと、驚いた顔で体を起こしました。

「あなたは、朝の電車でよく合う……」

「亀浜と申します」

 そう言って、私は名刺を渡しました。

「ああ、亀浜さんっていうのか。自分は佐々木と申します。すみません、今名刺持ってなくて」

「いえ、気にしないでください。それよりも体大丈夫ですか」

「ええ、ただの盲腸ですから、それよりどうしてここに、それに誰から聞いたんですか」

「場所は部下の方から聞きました。そしてここに来た理由は、宣戦布告をするためです」

「宣戦布告?」

「はい、私はあなたに椅子を取られてしまったのが悔しくて、この一週間みっちり修業しました。だからあなたにはもう負けないということです」

 彼はふっと笑って言いました。

「なるほど大きく出ましたね。いいでしょう受けて立ちます」

「ではまた、駅のホームで。早く治してくださいね」

 彼と固い握手を交わし、私は病室を出ました。


 一か月後、佐々木さんは無事退院し、私との運命の試合の日がやってきました。彼の顔を見ると、こちらに気づいたらしく、少し笑いました。どうやら準備は万全のようです。

 いよいよ電車が近づいてきました。ゆっくりと車体が止まり、ドアが開きます。

 その瞬間二人の侍が空席に向かって駆け出します。スピードはほぼ同時、席の目の前でぶつかりました。そして、私の体ははじき返されました。やっぱりだめかと顔を上げると、佐々木さんも倒れていました。私たちはゆっくりと立ち上がり、お互い歩み寄りました。

「……引き分けですね」

「どうやら、そのようですね」

 私たちはそう言って笑い合いました。

「いい勝負でした」

 そう言って、握手を交わしました。

「また明日よろし――」

 言いかけた時、私たちの肩に、ぽんと手が置かれました。見ると駅員さんが立っていました。

「こういうの、危ないからやめてくださいね」

 私たちは、苦笑いしてうなずいた。

 まあ、そうですよね。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

スタート 柚月ゆうむ @yuzumoon12

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ