Turn131.友人『囮と罠』

「勇者様〜、勇者様〜。どこですか〜? いい加減に隠れるのはやめてくださいよ、勇者様〜」

 歌うように声を上げながら、精神科医は屋敷の中をウロウロと歩いていた。

 手には金属バットが握られ、不必要に壁や床に打ち付けてカンカンと音を鳴らしている。


「おんや〜? そこですか、勇者様〜!」

 視界の隅に動く者を捉え、精神科医はソレを追って廊下を走った。

 ところが、ソレは足を縺れさせて床に転げてしまう。ソレは──不知火だった。

「ひ、ひぃ〜っ!」

 金属バットを振り上げ、迫って来る精神科医に対して不知火は悲鳴を口にする。

「また邪魔者かぁっ! いい加減に、勇者様を返せー!」

 苛立ちが溜まった精神科医はバットを振り上げ、不知火に殴り掛かった。

 不知火は転げるように起き上がると攻撃を躱し、廊下を駆けて行った。

「待て〜っ!」

 精神科医もそれを追って、ドタドタと走っていった。



 ◆◆◆



 二人の姿が見えなくなると、聖愛は押し入れからひょっこりと顔を出した。

「彼には悪いけれど、また囮になってもらいましょう」

 聖愛は押し入れから出ると、人一人が入れそうな程の大きなトランクを重そうに下ろした。ゆっくりと丁寧に、中のものを傷付けないように下ろすと、キャスターを動かしながら歩き出した。

 地下室の階段前まで来たところで、聖愛はフゥと息を吐いた。どうやらここまで順調のようだ。


「見つからないと思ったら、そんなところに居たのですね」

──声がして、聖愛の背筋は凍ったものだ。

 振り返ると──不知火を追って行ったはずの精神科医の姿がそこにあった。

 しかも、その手には真っ赤に染まったナイフが──。返り血を浴び、精神科医の肌はおろか、衣服も赤く染まっていた。

「きゃあっ!?」

 驚いた聖愛は悲鳴を上げ、思わずトランクから手を離してしまう。バランスを崩したトランクは、ドタドタと地下階段を転げ落ちて行った。


 精神科医は聖愛にナイフの先端を向ける。

「なんてことをするのですか! そこに勇者様が入っているのでしょう? 勇者様に危害を加えるというのなら、本当に殺しますよ!」

 精神科医の威嚇に恐れ慄いた聖愛が後退る。

 聖愛は完全に怯えきっており、抵抗する意思はないようだ。

 精神科医の警戒心も薄れ、トランクを回収しに地下階段を下りていく。

「さぁ、勇者様。ようやくお戻りになられましたね……」

 満面の笑みを浮かべながら、精神科医はトランクの蓋を開けた。

 中は厳重に毛布や布団が入れられ、クッション代わりにされていた。

「勇者様、そのお顔を私にお見せ下さい」

 精神科医は笑顔を浮かべていたが、真っ赤に染まったその顔は不気味であった。

 布団や毛布を剥いでいく。──が、それだけだった。そこに人間の姿はなく、布団や毛布が入れられているだけである。

「はぁ? どういうことだぁ?」

──ここに居るはずではないのか?

 精神科医は首を傾げた。


 その時、上階で声が上がる。

「今だ! 塞げ!」

 不知火が叫んだ。

 途端に、頭上でガタガタと慌ただしく物音が響いた。棚やテーブル、ソファーなどの大型の家具を積まれて蓋がされた。

「なにっ!? 罠だったか!」

 精神科医は今更気付いたようだが、時既に遅し。

 無理矢理にそこから抜け出ようと力を込めたが、不知火と聖愛も必死にそれを阻止すべく上から押さえた。

「早く助けがきてくれると良いのだけれどね……」

 胸や腕などを刺され、血塗れの不知火が息を荒げながら呟く。

 命に別状はないようだ。しかし、傷は酷い。

 それでも──。

「絶対に、ここから出しちゃ駄目だ!」

 不知火は叫び、最後の力を振り絞って聖愛と共に全力で家具を押さえ付けたのであった。

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