桜と本と忘れた思い出

黎井誠

桜と本と忘れた思い出

 何かがズボンのポケットで震え、眠りから覚めた。スマートフォンのバイブレーションだ。多分誰かからメッセージが届いたのだろう。


 だが、目を開きたくない。眠い訳では無いが現実に戻りたくない。

 当たり前だろう? だってさっきまで……。


 と、そこまで考えたところでまた震えた。

 あぁもう、面倒くさいな。

 ゆっくりと体を起こしながら目を開ける。


 そこは、図書館だった。


 家の近くにある、市立図書館。その二階の閲覧室の、本棚。たくさんの本に囲まれて、俺は倒れ込んで眠っていた……らしい……。


 理解不能な状況。

 パニックになりそうなのを堪えつつ、とりあえず立ち上がって周囲を見渡してみる。

 誰もいない。本だけが静かに並んでいる。

 あ、床に何かが落ちている……自分の鞄と、この図書館に所蔵されている文庫本。


 拾い上げてみる。タイトルは『原稿用紙』。


 あぁ、そうだ。

 思い出した。


 午後四時に市立図書館の二階の閲覧室に『原稿用紙』というタイトルの本を見つけたら、その時に読みかけの本の世界に行くことが出来る。

 そんな噂を試そうとしてここへ来て、本当にあったこの『原稿用紙』という本を開いて、それで……。


 それで、えっと、どうなったんだろう。


 その後の事が思い出せない。気付いたらここで目が覚めたのだ。

 ただ、夢を見ていたような。

 そんな気がするのだが。


 ……駄目だ、思い出せない。

 多分疲れて倒れただけだろう。誰にも気付かれなかったのは多分、今日は人がここに来なかっただけだ。

 ただでさえこの図書館には、特にこの閲覧室には人が来ない。


 さぁ、帰って勉強しなければ。



 §



 家路は薄闇に包まれていた。

 逢魔が時の住宅街。オバケが出るとかなんて、信じちゃいないが。


 歩きながらふと思い出したので、ポケットからスマートフォンを取り出し、さっき来たメッセージを確認する。


 二つとも恋人からだ。

 一つは、ジャングルジムの写真。古びて七色に染めていたはずのペンキの舗装が、所々剥げている。脇には桜の木も写っているが、花はまだ咲いていない。

 もう一つは普通のメッセージで「ここで待ってるね」


 このジャングルジムは帰り道の途中にある小さな公園にあるものだ。

 よし、寄って行こう。



 §



 公園に着いたが、誰もいない。

 持っていた鞄をベンチに放り、ジャングルジムに登る。

 てっぺんに腰掛け、花が咲いていない桜の木を眺めて待つことにする。


 ……あれ?

 なんで俺は公園にいるんだろう。なんでジャングルジムに登ったんだろう。誰を待っているんだろう。

 メッセージが来たから?

 いやあれは、夢の中で来たメッセージだ。


 俺にはそもそも恋人がいない。いたことすらない。

 ほら、スマートフォンにもそのメッセージは残っていない。


 でも……。


 というか、俺は何故出かけてたんだろう。

 何故図書館に行こうとしたのだろう。今はその帰りだけれど。

 図書館で俺は何をしていたんだっけ……?

 本を借りたり勉強をする以外の目的があった気がする。


 俺は何を忘れているんだろう。


 分からない。


 と、桜の花びらが一枚、ふわりと漂ってきた。

 薄闇の中、光るように明るい。

 楽しそうに、ひらりひらりと風に舞って、そして俺のくちびるに触れた。


 時が止まった気がした。



 急いで指でつまむ。危ない、落とす所だった……。

 掌に乗せた、白に近いピンク色の小片を見つめる。

 なんとなく愛おしい。そして、切ない……?

 とにかく、捨てたくない。自分で持っておきたい。


 優しく、潰さないように握り込む。

 ジャングルジムの上から飛び降りて、鞄から取り出した手帳に花びらを挟んだ。


 でも何故、花びらが落ちてきたのだろう。

 この桜はまだ、花を咲かせていない。

 ただの一つも。


 狐につままれたような心地で、俺は再び帰路についた。



 §



 風呂から上がったので、もう寝よう、と自分の部屋に入る。

 ベッドの枕元に、読みかけの『咲かない蕾』というハードカバーの本が置いてある。

 中学生の少女が主人公の児童向けミステリーで、彼女の親友と、その兄で主人公の想い人である男子高校生と共に、小さな町に隠された謎を解く話だ。


 あぁそうだ、この本だ。この本の世界に入りたくなって図書館に行ったんだ。


 あの噂もこの本に書いてあったことだ。主人公の同級生がしていた取るに足らない噂話。

 試すまでもないことなのに、何故わざわざ図書館になんか行ったんだろう、馬鹿馬鹿しい。

 どれだけ現実から逃げたかったんだよ、俺は。

 あと一年、受験生としての期間が延びただけ、たったそれだけなのに。


 まぁ倒れるほどに疲れていたぐらいだ、思考力も低下していたんだろう。


 折角だし読み終えてから寝よう。これを最後に、娯楽はもっと少なくしないと……。


 『咲かない蕾』を手に取り、最初の数十頁ページの所を一気にめくる……あれ、栞がない。

 この辺りに挟んでおいたはずなのに。


 ぱらぱらと、紙の中で迷子になった栞を探しながらベッドに腰掛ける。


 栞というか、栞代わりの折り紙だ。適当なサイズの長方形に折り畳んだ、薄いピンク色の。

 小学生の妹が机の上に放置していた折り紙の中から適当に一枚拝借したのだ。


 あ、あった。

 真ん中辺りに挟んである。

 なんでこんな所に……?


 まぁいいや、記憶違いだろう。ここから読んでしまえ。

 何度も読み返した本だし、もし元々別の所に挟んであったのだとしても、そんなに気にならないだろう。


 そう考えて頁を閉じないように指を挟んでから、栞を最初の頁に挟み直す。

 と、スマートフォンの通知音が鳴った。


 栞を元の頁に戻して本を閉じ、スマートフォン画面を確認すると、誰かからメッセージが届いたようだった。

 差出人は『ミオ』とある。誰だ……?

 不審に思いつつ読んでみる。



 §


 ちゃんと帰れたみたいだね、良かった。


 もうわたしのことは忘れていると思うけれど、これだけ、最後に言わせてね。

 ありがとう。大好きだよ。


 §



 あぁ、ミオ、未桜だ。彼女だ。

 俺の……俺の?

 俺の、なんだったんだ?

 なんで俺は名前の漢字を知っているんだ? このメッセージの差出人は片仮名なのに。


 あぁ大事なことを忘れている。

 分からない……。



 §



 布団に潜り込み、うつ伏せになって、栞が挟まっていた頁の文章を読む。


 主人公の想い人の男子高校生の、同級生に話を聞きに行くシーン。

 彼と仲が良さげなその女子生徒に主人公が嫉妬して、という描写が読みどころなのだが。



 俺はその女子生徒の動作の文と台詞だけ、そこだけを、幾度も、何度も、何回も、読み返す、読み直す。



 何故か分からないけれど、どうしても寂しくて、哀しくて、胸が痛いのだ。ずっと読んでいれば痛みを解消する方法を見つけられる気がしたのだ。


 でも、分からない。


 ただ……ただ、会いたくなるだけだ。


 会いたい。

 彼女に、もう一度会いたい。

 一度も会ったことなんかないはずなのに、架空の人物なのに。

 作者のブログにも、モデルはいないと書いてあった。

 なんで、どうして……。


 あぁ、心臓が速い。速い。怖いくらいに。

 酸素が足りない気がして、深く息を吸う。

 うつ伏せだと辛いので、ベッドの上で起き上がり、布団を被せた膝の上に『咲かない蕾』を乗せる。


 ……駄目だ。

 辛い。切ない。



 会いたい。



 ……あぁ、そうだ、この子だ。

 分かったぞ、この子が未桜だ。

 多分メッセージの差出人も彼女だし、俺の恋人でもあったんだ。

 妄想か? 妄想だろう。


 でもあの世界では、現実だった。



 §



 さっき未桜から来たメッセージを読み返そうとスマートフォンを見たが、消えていた。消してなんかいないのに。


 あぁ――帰ってきてしまったんだ。こっちの現実世界に。


 ばたん、と上半身をベッドに倒す。

 滲む視界が、俺に涙の存在を主張してくる。鬱陶しいので、目を閉じた。



 目蓋の裏で、未桜が微笑んでいる気がした。

 あ、泣いている。

 桜の木の下、桜吹雪の中で、はしゃいでいる。

 ジャングルジムの上から、手を振っている。

 風に舞う黒髪。

 至近距離にある、きらきらと輝く濡れた瞳。

 腕の中にすっぽりと収まる、細い肩、細い背中。

 俺を見上げて、にこっと笑う。



 そんな幻覚を、現実を、思い出を見ては、見たそばから、全て思い出せなくなってゆく。

 覚えていたいのに忘れてゆく。

 それが嫌で、怖くて、辛くて、会いたくて。

 涙が溢れ出る。


 ぎゅっと目を瞑って辛さに耐えようと試みて……そのまま眠りについた。



 §



 朝、スマートフォンのアラームに起こされ、身を起こした。

 腫れた目を擦りながら起き上がる。


 ふと。

 視界に鞄が入り込んだ。

 その中から手帳を取り出して、昨日挟んだ桜の花びらを左の掌に乗せる。


 じっと見つめて、なんとなく、くちづけをした。


 我に返った。

 なんでこんなことを。一人とはいえ恥ずかしい。気障キザにも程がある……。


 わしゃわしゃと、右手で頭をかく。

 勢いで左手も動いて、掌が傾く。

 滑り落ちた花びらが、風もないのに舞い上がった。


 ぴたり、と。


 俺の目の前で、静止した。


 そしてくるくると渦を描くように回転して、ふわり、とまた浮き上がり。



 消えた。



 あぁ、終わった。


 そう悟った。


 これが最後だ。

 何一つ覚えていない何かが、終わったのだ。


 ただその実感だけに寂しさを覚え、しばらく呆然と立ち竦んでいた。



 §



 その後何回か市立図書館に行ったが、『原稿用紙』なんて本は何度探しても見つからなかった。

 蔵書検索サービスを利用しても、司書に訊いてみても。


 多分もう二度と、彼女には会えないのだろう。


 あの物語にいた彼女。

 名前も、顔も、声も、髪も、目も、性格も、表情も、出会いも別れも、ちょっとしたエピソードも、何も覚えていないけれど。


 彼女は確かに俺の恋人だった。


 桜が咲く前の、まだすこししだけ肌寒い季節。

 あの日以来俺は毎年、この季節になる度に、浸れないほど仄かな思い出に胸を苦しめている。

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桜と本と忘れた思い出 黎井誠 @961Makoto

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