「大きくなったら弥生おねえちゃんと結婚する!」と宣言しながら40歳まで待たせてしまった件

「大きくなったら弥生やよいおねーちゃんと結婚する!」



 そんな大それた発言をしたのは僕が6歳の時。

 まだ幼かった僕の言葉を、当時13歳の弥生おねえちゃんは「はいはい」と言いながらいつも適当にあしらっていた。

 近所に住む弥生おねえちゃんは、僕にとって憧れの人だった。

 そのあしらい方も、まるで大人っぽくて素敵だった。



「だから弥生おねーちゃん、誰とも結婚しないで!」



 ギュッとしがみつきながら、そう懇願したのを今でも覚えている。

 弥生おねえちゃんは「よしくんのお願いじゃ、しょうがないな」と笑っていた。


 今思うと、ほんと罪作りな子どもだったと思う。





 そんな弥生おねえちゃんも今年で40歳になる。

 相変わらず綺麗なのに、浮いた話は一切聞こえてこない。

 定年退職した両親を支えるため、一人働いているという。

 今ではなんとかという大手広告代理店の課長らしい。

 まさにキャリアウーマン。

 33歳でいまだに平社員の僕とは雲泥の差だ。



 今日も僕は弥生おねえちゃんに声をかけてもらいたくて、いつもより早めに家を出た。

 案の定、弥生おねえちゃんも出勤するタイミングで、うまくかち合った。


「あ、おはようございます!」

「あら、よし君。おはよう」


 いつ見ても弥生おねえちゃんは綺麗でかっこよかった。

 ビシッとしたスーツ姿が似合ってる。


「暑いですね」

「うふふ、そうね」


 思えば僕はこの笑顔が毎日見たくて「結婚する!」と叫んだ気がする。

 夏の朝日が黒い髪をキラキラ反射させて一層眩しく感じられた。


「駅まで一緒に行こうか」

「はい!」


 朝っぱらから二人で歩くという至福のひと時。

 あの時は弥生おねえちゃんのほうが背はだいぶ高かったけれど、今では僕のほうがちょっと高い。

 横を向くと弥生おねえちゃんの顔があるというただそれだけで幸せだった。


「はあ、憂鬱だわ」


 そんな弥生おねえちゃんは、僕が見つめていることなど知らずに深いため息をついていた。

 艶のある唇から漏れ出る吐息が色っぽい。


「……なにがですか?」

「昨日、うちの若い子がポカをやらかしちゃってね。朝一で先方に謝りにいかないといけないの」

「はあ、ポカですか」

「何かあった時に責任を取るのが上司の務めだけど……気が重いわ」


 毎日何かしらのポカばかりやらかしてる僕からしたら胸の痛い話だが、憂鬱そうな弥生おねえちゃんの顔を見てると励ましてあげたくなってしまう。


「大丈夫ですよ。弥生おねえちゃんなら」

「あら、どうして?」


 どうして?

 どうしてと言われても困る。

 ろくに考えもせずに出した言葉だし。

 でも大丈夫と言ったからには何か根拠を示さないと。


「……だって」

「だって?」

「……だって弥生おねえちゃんだから」

「………」


 全然なんの説明にもなってなかったけど、僕の言葉に弥生おねえちゃんはポカンとした後「ぷっ」と吹き出した。


「うふふふふ、何それ」

「す、すいません。自分で言ってて意味がよくわかりませんでした」

「くっくっく……」


 弥生おねえちゃんは肩を震わせながら笑いをこらえていた。

 よく見れば笑いをこらえすぎて涙目になっている。


 ……そ、そんなに変なこと言っただろうか。


「そんなにおかしかったですか?」

「はあ、はあ、はあ……。うん、おかしい。すごくおかしい」

「す、すいません」

「ううん、謝らないで。逆に元気出た。ありがと」


 ニッコリほほ笑む弥生おねえちゃんは天女のようだった。

「弥生おねえちゃんだから」という言葉はあながち間違いではなかったかもしれない。


 そんなことを思いながら、僕は弥生おねえちゃんと駅に向かって歩いて行った。



     ※



 それから数日後の日曜日。


 僕はいつものように近くの公園をジョギングしていると、私服姿の弥生おねえちゃんを発見した。

 普段目にするスーツ姿ではなくて、今日はお洒落な格好をしている。


 僕は思わず立ち止まって

「弥生おねえちゃん!」

 と声をかけた。


「あら、よし君」


 ポニーテールに結った髪の毛が新鮮だった。

 いつもと違った姿にドキドキする。


「どうしたんですか? こんなところで」

「ちょっと買い物をね」

「買い物?」

「一週間分の食糧。うちの両親、腰弱いから」

「ああ」


 要するにスーパーに行く途中らしい。

 平日は仕事、日曜日は買い物とほんと忙しそうだ。いつ休んでるんだろう。


「よかったら荷物運び手伝いましょうか?」


 そう尋ねると、弥生おねえちゃんは嬉しそうに

「ほんとに? 助かるぅ!」

 と言ってきた。


「正直、3人分の食糧一週間分を買って帰るの、大変なの」


 この華奢な身体で3人分の食糧(しかも一週間)ともなると相当大変だろう。

 僕は提案してよかったと心から思った。




 スーパーでは、弥生おねえちゃんは手際よくショッピングカートを押し、上下に置いた買い物かごに目当ての食材をパッパッ、パッパッと入れていた。

 もうあらかじめ買うものを決めていたのだろう。

 さすがは大手の会社の課長様。ここでも手際の良さを発揮している。


「んー、今夜はマーボーナスにしようか、麻婆豆腐にしようか」


 と思いきや、今晩の食事で悩むところが少し可愛らしい。


「よし君はマーボーナスと麻婆豆腐、どっちが好き?」

「へ?」


 いきなり問いかけられ、変な声をあげてしまった。


「ぼ、僕ですか?」

「手伝ってくれるお礼。今夜、作った料理持って行くからよし君の好きなほうを選んで」


 まさか弥生おねえちゃんの手料理をいただけるとは。

 改めて「手伝いましょうか?」と言った数分前の自分を褒めたくなってくる。


 ……でも、なぜにその二択?


「個人的には麻婆豆腐のほうがうまく作れる自信ある」

「じ、じゃあ麻婆豆腐……」

「OK。麻婆豆腐ね」


 そう言うと、また手際よく豆腐をカゴに詰め込んだ。



 結局、買い物自体は20分もかからなかった。

 せっかく二人でスーパーに来てるのだからのんびり買い物を満喫したかったけど、弥生おねえちゃんは慣れた動作ですぐに買い物を終わらせてしまった。


「ごめんね、よし君。つき合わせちゃって」

「いいえ、とんでもない」


 大きなマイバッグ3つの中に食材がわんさか入っている。

 毎週これを一人で運ぶのは確かに大変だ。

 僕はなるべく重そうなほうを2つ持って弥生おねえちゃんの後に続いた。


「私が2つ持つから」


 弥生おねえちゃんは何度もそう言ったけど、頑なに断った。

 少しでも負担を軽くさせてあげたい、そう思ったからだ。


「ありがと。よし君はいつも優しいね」


 弥生おねえちゃんの言葉に、僕は身体中がむずがゆくなった。

 相手が弥生おねえちゃんだからだよ、なんて口が裂けても言えない。


「この前の若い子がポカをやらかした件もね、よし君のおかげで先方が許してくれたわ」

「え? 僕は別に何も……」


 ぶっちゃけ、何もしていない。

 今思い返してもわけのわからない言葉を発しただけだ。

 でも弥生おねえちゃんは「元気をくれた」と言っていた。


「あのまま憂鬱な顔で行ってたら、きっと『面倒くさがってんなこいつ』って思われて許してくれなかったと思う」


 だから憂鬱な気分を吹き飛ばしてくれたよし君のおかげ、と頭を下げられた。


「そ、そんな。やめてください。そうだったとしても、弥生おねちゃんがしっかりしてたからですよ」

「またそうやって褒めるー」


 言葉とは裏腹に嬉しそうに笑う弥生おねえちゃんを見ると、僕も嬉しくなってしまう。


「……ねえ、よし君」

「はい?」

「よし君てさ、昔……」

「………?」

「……ううん、なんでもない」


 弥生おねえちゃんは少し遠い目をした後、すぐに顔を横に振った。




「じゃあ、ありがとね」


 弥生おねえちゃんの家に着くと、僕は2つのバッグを手渡した。

 たいした距離ではなかったけど、やっぱり大きな荷物を二つも持って歩くとそれなりに腕がパンパンだった。

 弥生おねえちゃんはこれを毎週やってるんだ。本当に大変だと思う。


「お茶でも飲んでく?」


 そう誘ってくれたものの、家の中でまで気をつかわせるわけにはいかなかったので、遠慮した。


「そっか」


 気を使って遠慮したつもりだったが、弥生おねえちゃんはなぜか寂しそうな顔をしていた。


「じゃあ、またね」

「はい」


 手を振って帰る僕をいつまでも見送る弥生おねえちゃんの姿が、なんだかとても切なく思えた。


 40歳となった今でもいまだ独身で、腰が弱い両親の面倒を見ながらひとり働く僕の憧れの人。

 彼女はこれからもずっとこの生活を続けていくのだろうか。

 50歳になっても60歳になっても、ずっと一人で両親の面倒を見ながら年老いていくのだろうか。




「僕、大きくなったら弥生おねーちゃんと結婚する!」

「だから弥生おねーちゃん、誰とも結婚しないで!」




 今になって、僕はあの時の言葉がグルグルグルグル頭の中を駆け巡った。



     ※



 インターホンの音で目が覚めた。

 時計を見ると、夕方の6時。

 家に帰ってそのまま横になっているうちに眠っていたらしい。

 恐るべし、日曜日午後の破壊力。


 僕はいそいそと玄関のドアを開けると、そこに立っていたのは弥生おねえちゃんだった。

 手には大きめのタッパーを持っている。


「よし君。突然ごめんね。……寝てた?」

「あ……うん……」


 ボサボサの髪の毛を慌てて整えては見たものの、時すでに遅し。

 恥ずかしいところを見られてしまった。


「これ、今日のお礼の麻婆豆腐」

「わあ、ありがとうございます!」

「レンジもOKのタッパーだから、好きな時に温めて食べて」


 そう言って渡された僕は、帰ろうとする弥生おねえちゃんを呼び止めた。


「あ、あの!」

「ん?」


 どうしようかと迷いつつ、もらったタッパーを玄関の中にしまうと、僕は弥生おねえちゃんを連れて近くの公園まで出た。


「ど、どうしたの? よし君」


 あたりは夕方ということもあり、人はいない。

 夕日が差し込むブランコを眺めながら、そういえばここで僕はかつて「結婚する!」と弥生おねえちゃんに宣言していた場所だったと思い出した。


「あ、あの……弥生おねえちゃん」

「なあに?」

「……僕が昔言った言葉、覚えてる?」

「昔言った言葉?」

「大きくなったら弥生おねーちゃんと結婚するって……」

「……あ、うん。そういえばそんなこと言ってたね。子どもだったよね、よし君」

「あれ、今でも本気ですって言ったら、信じてくれますか?」

「………」


 弥生おねえちゃんはビックリしたような困ったような顔で僕を見つめていた。


「僕、ずっとずっと弥生おねえちゃんが好きでした。結婚するなら弥生おねえちゃんしかいない、それくらい好きでした」

「………」

「ごめん、弥生おねえちゃん。今さらこんなこと言われても困ると思うけど……僕、弥生おねえちゃんと結婚したいです。一生、一緒にいたいです」


 僕の言葉に、弥生おねえちゃんは困った顔で答えた。


「いきなりそんなこと言われても……」

「僕じゃ……ダメですか?」

「ダメじゃないけど……私もう40のおばさんよ?」

「僕だって33のおじさんです」


 若い子からしたら十分おじさんと呼ばれる年齢だ。


「それに僕にとって弥生おねえちゃんは何歳になっても弥生です」

「うふふ、言い得て妙ね」

「弥生おねえちゃん、改めて言います。僕と結婚してください!」



 心からの告白に、弥生おねえちゃんは「ふう」とため息をついて

「よし君のお願いじゃ、しょうがないな」

 と、当時とまったく同じ言葉でOKしてくれた。



「ほ、ほんとに?」

「え? ウソなの?」

「いや、ていうか、断られると思ったから……」

「ふふ、本当言うとね、ずっと待ってたんだよ? その言葉」

「え?」

「誰とも結婚しないでって真剣な目で訴えるんだもの。待つしかないじゃない」

「……え? え?」


 まさか、覚えてたの?

 弥生おねえちゃんも?


「もう! 遅すぎるよ、よし君!」


 言うなり僕の胸に抱き着いてくる弥生おねえちゃん。

 僕の憧れだった人が、まさかの僕のプロポーズ待ちだったことに驚かされると同時に、待たせてしまったという罪悪感が一気に襲い掛かった。


「ご、ごめん……」

「ううん、いいの。ちゃんと覚えててくれたから。これからよろしくね、よし君」

「……うん」


 その言葉に、僕はフィアンセとなった弥生おねえちゃんを強く抱きしめたのだった。

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