彼女たちの夏はブルー
月花
彼女たちの夏はブルー
久川葵は世界で一番綺麗な女だ。
少なくとも私はそう信じている。信じいるからこそ、証明のようにカメラレンズを向ける。夜の浜辺、ただよう潮の匂いと波の音のなかで久川は静かにたたずんでいた。靴を脱ぎ捨てた彼女の足は冷たい水の中だ。
「ねえ、矢野」
水面に遠くビル明かりが反射して揺れた。彼女は背を向けたままぽつりと呟く。飽きてしまったとでも言うように、温度のない声だ。
「水が冷たい」
「……まだ九月なんだから大丈夫でしょ。いいから黙って被写体やっててよ」
そう言って、私は数回目のシャッターを切る。彼女の黒髪が潮風になびいた。その瞬間心拍が上がって、もう一度シャッターボタンに指をかけた。
同級生の久川葵は文字通り私の被写体だ。彼女はにこりともせず立っていて、私はそんな彼女を写真に撮る。会話はほとんどない。私はつまらない話をし始める彼女が嫌いだし、彼女は彼女で、ろくな返事をしない私が嫌いだ。浜辺にはシャッター音だけが響いていた。
三十枚ほど、角度を変えながら彼女の姿を写していく。浅瀬から夜の街明かりを見つめる彼女の横顔も写した。彼女と一瞬視線が交わったけれど、久川は形のいい唇を結び、もう口を開かなかった。
時間にして三十分。私はカメラを下ろした。
「……はい、これで終わり」
久川は短く息を吐いた。
「どう、いい写真は撮れた?」
「ん……まあまあ」
「なんだ、景気悪いなあ。そんなんじゃコンテストで入賞できないじゃん」
久川は水に濡れた足でまっすぐに浜辺にあがった。足はあっという間に砂にまみれてしまって、彼女は整えられた細い眉をぴくりと動かした。私はカメラをケースにしまいながら返事する。
「コンテストにはたぶん別のを出すから、いいよ。また今度撮らせて」
「ふうん。いーよ」
彼女は目を細めた。
「でもその前に矢野、切符代ちょうだい」
差し出された右手は、夏の終わりだと言うのに白くて華奢だ。私はため息まじりに七百二十円を握らせた。数枚の小銭はセーラースカートのポケットに吸い込まれていった。
彼女はお金を受け取ると、小さなリュックを背負い、もたついている私の横を通り過ぎ、駅の方へ歩きだした。帰り道なんてほとんど同じなのに私を待つ気はさらさらない。
久川を被写体にし始めてもう一年。それでも私たちは友達じゃなくて、この関係は写真でしか繋がっていない。
私は、久川葵が世界で一番綺麗な女だと信じている。だけど私は、久川葵が世界で一番大嫌いだ。
一年前の春。始業式よりも七日前、中庭の桜は満開を迎えていた。
私は人気のない廊下を真っ直ぐに突き進んだ。昼下がり、遠くで野球部の高いかけ声が響いていた。振り払うように速足で歩く。
廊下を抜けると桜の大木がそびえたっていた。太い枝を悠々と広げていて、空は淡い桜色に染まっていた。花と花の隙間から日差しが降り注いでいる。眩しいくらいの春だ。
私は両足をピタリと止めていた。
直感で、綺麗だと思ったのだ。桜の大木ではなく、その下でたたずんでいる彼女が。
――――久川葵。私の学年の有名人。
彼女はセーラー服をまといながら桜の木を見上げていた。背筋はピンと真っ直ぐ伸ばされていて堂々としていた。スカートから覗く足は痣一つなくてすらりと長い。靴下は学校指定の校章は入っていなくてシンプルな黒だ。
身体だけでも十分綺麗だったけれど、顔は誰もが振り返ってしまいそうなほどだ。薄くメイクされた肌は陶器のようにつるりとしていたし、ほのかに色づいた唇はぷっくりと柔らかそうだ。睫毛もくるりと上を向いている。きっと何人もの人が恋に落ちたのだろう。
それでも私は、彼女の見た目そのものではなくて、その表情に吸い込まれそうだった。
彼女は上を見上げて、桜の木を睨みつけていたのだ。まるで憎いものでも見るかのように。透き通るような瞳にはじっとりとした闇が宿っている。それがいつか見た彼女の笑みとは全然違ったから、私は身じろぎもできなかった。あんな彼女を私は知らなかった。
私はほとんど本能でカメラを向けていた。気が付けばシャッター音を響かせていて、久川がはっと振り返った。
「あ――。ご、ごめ、久川さん……」
言葉が遅れて出てくる。久川は少しだけ目元を動かして、それから唇を開いた。
「なに? 今、写真撮ったの? っていうかあなたって一組の
そのどれもに頷く。久川は不思議そうな顔で小首を傾げた。
「なんでさっき、写真撮ったの?」
「コ、コンテスト用の写真、撮ってて。それで、今の、すごく良かったから、つい」
しどろもどろになって答えると、久川はにこりと笑った。屈託のない溌溂とした笑みだ。さっきまでの、桜を睨みつけていたあの彼女はどこへ行ってしまったのだろう。疑問が消えるよりも早く彼女は言葉を続けていた。
「コンテストって写真の? あ、そういえば矢野さんって去年全国のコンテストで入賞したんだったっけ?」
「え?」
「ほら、この前の終業式で表彰されてたじゃん。たまたま顔上げたら矢野さんの番だったからさ、妙に覚えてるんだよね。さっき撮った私の写真もコンテストに出すの?」
「……出していいの?」
「え、別にいいけど?」
五か月後、この写真がコンテストの最優秀賞を取ってしまったことがきっかけで、私たちの関係は始まることになる。撮る人と撮られる人――時間がたつにつれ少しずつ歪んで、お互い化けの皮が剥がれて、それでもこの言葉だけが正しく機能していた。
三年になって、久川と同じクラスになった。
予想通りというかなんというか、久川はクラスでも一番中心にいるような人間だった。発言力があるし、友達だって多い。属しているグループはちょっと派手で、クラス中に響く声で話しているような女の子たちだ。
「それでさあ、あたし、ホントにむかついたんだよね。だって意味わかんなくない? こっちはバイトなんだから知らねーよって感じ」
教室の端の方から聞こえてくる愚痴に思わず振り返る。話を振られていたらしい久川は笑いながら頷いていた。
「最悪じゃん」
「でしょ!?」
久川は相槌を打ち、ときどき反応を返しながら、他の女の子と一緒になってきゃあきゃあと笑っている。机に肘をついて、短いスカートから覗く足を組み、どこの誰ともしれない人間を話題にして。
私は久川から視線を外した。
――あれが久川葵だ、ということはよくわかっていた。嘘でなければ仮面でもない、久川そのものだ。けれどああやって笑っているのが久川の全部じゃないことを知っているのは、この教室の何人だろう。あのじっとりと暗い瞳を見たことがある人は?
想像すると身体の奥がざわざわとうずいた。私は靴の中に納まっている足の指をきゅっと丸めた。
久川にカメラを向けたい。そして久川の全部を暴き立ててやりたい。あの大きくて丸い二重の目が憎しみさえこもった視線でレンズを睨みつけるのを、私が、私のカメラでとらえて衆目に晒してやるのだ。
たまらない気持ちになって、思わず久川の方へと顔を向けてしまう。その時たまたま久川が視線を逸らせて私の方を見た。静かに視線が交わって、久川は目を細めて笑った。
「やっほー、矢野ちゃん」
あろうことか私の名前を呼びながら手まで振ってくる。久川と話していた女の子三人が一斉に私の方を向いて、視線を注いできた。彼女たちの位置からはあのニヤニヤと意地悪く笑っている久川の顔は見えないのだろう。そう思うと悔しくてしかたがない。
「……なに、久川さん」
「べっつにー?」
久川はそれだけ言うと、何事もなかったかのように雑談へと戻っていった。
「…………」
けれど久川と一緒にいる女の子の一人がまだ私の方を見ていた。疎ましいものでも見るような目で。――なんて底意地の悪い奴なのだろう、久川は。こうなることが分かっていたのだからやっぱり最低だ。
「……矢野さんってさあ、一人でいる自分カッコイイとか思ってそうじゃない?」
ほら、これだ。私は思わず笑ってしまった。
部室棟の二階。むき出しになった通路。鉄柵の向こうから可愛らしくて、悪意に満ちた声が降ってくる。
「あー、それめっちゃ分かる。あたし春とか割と声かけてあげてたんだけどさ、全然乗ってこないし。中二病ってやつなんじゃない?」
「何それ、高三で?」
「えー、絶対そうだって。間違いない。ねえねえ、葵もそう思うでしょ?」
私は部室棟の一階で、物音もたてることができずに立ち尽くしていた。どうして写真部は彼女らの部室の真下なのだろう、と建物の構造を深く恨んだ。
細く細く息を吐いて存在ごと殺す。もしここでひょっこり顔を出して意地悪そうな顔で声をかけられたなら、どんなにすっきりしただろう。私はスカートをぎゅっと掴んだ。彼女たちはぎょっとした顔で視線をさ迷わせるのだろうか。それとも何も言わずに背中を向ける?
そこまで考えて私は両手から力を抜いた。そんなのは叶わない妄想だ。高い声は止むことを知らない。
「ねえ、葵ってば。聞いてる?」
甘い声が久川の名前を呼んだ。どうやら彼女も上にいるらしい。
「聞いてる、聞いてる。矢野さんでしょ」
「返事くらいしてくてもいいじゃん。でさ、葵どう思う? あの子なんかヤバくない?」
久川は考える間もなく答えた。
「ああ、うん。そうだよね」
その言葉が自分を守るための嘘ではないことを私は知っていた。きっと彼女は笑みすら浮かべているのだろう。わかりきっていた返事に私は口角を上げた。悲しいなんて思わなくて、ただ彼女のことがもっと嫌いになった。
鉄の床を踏むような音が響いて、やがて遠ざかっていった。全員がどこかへ行ってしまったらしく、私はようやくため息をつけた。部室の重いドアを開けようとドアノブに手をかける。指先が触れたその瞬間、頭上から声が降ってきた。
「いたんだ、矢野?」
久川の声だった。わざとらしい話し方に私は真上を見上げた。どうやら私がここにいると最初から気が付いていたらしく、鉄柵から身を乗り出して私を見下ろしていた。彼女は本当に嫌な女だ。
「どーも。あんたのせいで気分は最悪だけど」
悪く思わないでよ、と久川は笑う。
「別に矢野のこと嫌いなわけじゃないからさ。友達じゃないけどね」
「あっそ」
私は彼女から不意に視線を逸らし、ドアを押し開けた。さっさと部室に入ろうとしたけれど、彼女のニヤついた顔が忘れられなくて、私は無性に頭を掻きたくなった。そわそわして収まらない。この感情は何だろう。久川が私に“意地悪”をするのはいつものことなのだから、やりすごせばいいだけなのに。
「ねえ、久川」
私は気が付けばドアノブから手を離していた。真上に首を傾けて、久川を見つめ返した。
「次の撮影場所決めた」
「もう?」
私はゆるやかに頷いた。
「長野ね」
こんなのはとっさについた嘘だ。久川は目を丸くした。
「な、長野?」
ここからでは間違いなく泊まりになる距離だ。久川は面食らったように瞬きをしていた。
もっと困ればいいのにと私は祈る。私の言うことに翻弄されてしまえばいい――私がいつもそうさせられるみたいに。しかしそんなささやかな悪意は虚しく打ち砕かれた。
「……いいよ」
「は?」
「だから、別にいいよって。私はね」
久川は鉄柵に体重をかけた。このまま落っこちてくるんじゃないか、と思うくらいに身体を傾けて、私を見ていた。
「もうすぐ三連休あるしそれでいいかな。……あ、電車とかホテルはそっちで押さえておいてよ。私はなんにもしないから。あと約束通り、お金も全部そっちもちだから」
久川は「じゃあね」と手をひらひらと振って身体を起こした。カンカンと床を鳴らす音が響いた。去っていく足音に、私はぽかんとしたまま上を向いていた。どうやら私の仕返しは、私の首をきつく絞め上げただけらしい。
三連休の日曜日、電車はすし詰め状態だったが、都会から遠ざかるにつれて人は次々に下車していった。ビルが消えて、あたりに緑がちらつき始める。気づけば席がぽつぽつと空いていて、目的地に着くころにはほとんど誰も乗っていなかった。
駅に下りて、数秒後に電車が発車した。取り残された私たちは切符を握ったまま去っていく電車を見送った。
「――で」
久川は麦わら帽子のつばを上げた。
「なんでこんな田舎なの?」
久川は手を腰にやってあたりを見回した。広がっているのは田畑ばかりだ。彼女は腕に止まった蚊をはたきながら、うんざりとした顔で振り返った。
「こんな虫だらけの田舎で写真?」
信じられないとでも言いたげに顔を歪めるから、私は仕方なく返事をした。
「あんたと都会は親和性が高すぎるの」
「……なんて?」
「だから似合いすぎるってこと」
「似合っていて何が悪いの?」
「似合うものを似合うように撮ったってなんにも面白くないでしょ」
「ふーん……」
久川はよくわからなかったのか、それ以上は何も言わなかった。私は彼女の横を通り過ぎて改札に向かった。しかしそこにあるのは自動改札ではなくてただの箱だけだ。追いついた久川は私のすぐ後ろで立ち止まった。
「……ちょっとこれ、どうしたらいいの?」
「切符を箱に入れるだけ。知らないの?」
「知ってるわけないじゃん。無人駅なんか来たことないし」
彼女がどんな顔をしているかなんて確かめるまでもない。私は首から下げているカメラの電源ボタンを押した。
「久川」
私は声をかけて振り返りざまにシャッターを切った。パシャリと音が鳴る。油断しきっていた彼女は、遅れて反応するがもう遅い。
「ちょっ――」
久川はしかめ面のまま一枚の絵に切り取られていた。私は液晶画面に映る、眉間にしわの寄った久川を見つめながら唇を吊り上げた。
「タイトル。久川、無人駅との遭遇」
「……趣味悪いんですけど」
「あんたには負けるよ」
私はカメラを掲げてもう一枚写真を撮った。久川はひどく嫌そうに唇を固く結んでいた。教室の彼女からは程遠い表情だったが、私からすれば見慣れた彼女の姿だった。
「何ニヤニヤしてんの、矢野」
「だってあんたのああいう顔、好きなの。……あ、ほら、今もした」
久川はふいと視線を逸らした。私は思わず声を上げて笑っていた。久川が隠している部分を暴くのはとても気持ちがいい。
舗装されていない土の道がずっと遠くまで続いている。久川は白いワンピースの裾を揺らしながら、道の真ん中でくるりと回ってみせた。つられて黒髪が大きくたなびく。
「矢野はさあ」
軽やかに縁石へ飛び乗る。
「なんで友達作らないの?」
「喋るな、被写体」
「それくらいいいじゃん。矢野だってさっき予告なしに写真撮ったんだから」
彼女にしては珍しく会話を続ける。
「私は矢野がどういうつもりかなんてどうでもいいんだけどね。ちいちゃんとかゆっきーが気になるみたいだから、私が代わりに聞いてあげようと思って」
「それは友達思いなことで」
「で、本当のところどうなの?」
久川はスカートをちょんとつまんだ。少女のように軽く裾を持ち上げてみせるのが少し可愛らしくて、私は液晶を覗きこんだ。
「別に……一人でいるのが趣味とかじゃない」
「いつも一人なのに?」
「結果論でしょ、それは」
久川は軽い足取りであぜ道を渡っていった。跳ねた泥水でサンダルが汚れたが、久川はちらりと見遣っただけで、すぐに大きな一歩を踏み出す。遠ざかっていく背中を私はゆっくりと追いかけた。
私たちはあぜ道を抜けて、また細い道路へと出た。民家はぽつぽつと見えるくらいで、向こうには小高い山がどんと居座っていた。空にはとんびが二羽飛び回っていた。
「……嫌いなの」
私は空にレンズを向ける。
「人の悪口で盛り上がれるような人間が嫌い」
とんびは空高くまで舞い上がった。写真に撮り損ねた私は腕をゆっくりと下ろして、飛び去って行く二羽をただ見ていた。
「じゃあ、私のことも嫌いなんだー?」
ずっと先を歩いていた久川が声を張り上げた。彼女は小川にさしかかっていて、飛石の一つ目に足を伸ばした。苔に覆われ始めた石はうっすらと緑色だ。難なく飛び乗った久川は、二つ目、三つ目と渡っていく。
久川葵のすべてを見せられて、それでも嫌いにならない人間なんてどこにいるのだろう。
私は彼女に追いついて、岸で立ち止まった。カメラを持ち上げて彼女にピントを合わせた。両手を広げてバランスを取っている彼女に狙いをすませて、すっと息を吐く。シャッターを切るのは、彼女が次の石に飛ぶ瞬間だ。
「――あっ」
声をあげたのは私か久川か、どちらだっただろう。久川の足がつるりと滑って、彼女の身体は不自然なほどに傾いた。重力に引っ張られるようにして、彼女は真横に倒れていく。宙に広がる黒髪がスローモーションみたいで、気づけば私は腕を伸ばしていた。
水が跳ね上がって日差しを反射した。
ひさかわ、と細い声が出る。
私は飛び石なんて無視して小川に足をつけ、ばしゃばしゃと音を立てながら彼女のもとまで駆け寄った。靴の中にまで水が入ってきて、足がずしりと重かった。
「久川! 大丈夫? 頭打ってない!?」
彼女は川底に手を付いて上半身を起こした。そして何が起こったのかわからない、みたいな顔でぱちぱちと瞬きをした。アイラインが少し崩れていて、目元に黒が広がっていた。
「腰、痛い……」
彼女はぽつりと呟いた。どうやら頭は打たずに済んだらしかった。私は彼女と一緒に水の中に座りこんだまま、はーっと息を吐く。
「そっか……」
安堵したのもつかの間、彼女が我に返ったように肩を跳ね上げた。
「って、矢野! カメラ! カメラ!」
「え――あっ!」
私は慌てて首から下げていたカメラを掴んだ。カメラは精密機器で、当然のことながら防水ではない。私は服に手をこすりつけて水分を取ってから、電源ボタンを押した。お願い、お願いと心の中で繰り返す。
「――ついた!」
電子音とともに液晶が明るくなった。私は安心しすぎて後ろにひっくり返るかと思った。
「よかった……」
久川が小声で言った。二人して肩から力を抜いて、しばらく脱力していた。久川がかぶっていた麦わら帽子がずっと遠くまで流されているのが見えて、石に引っかかっていた。
「ふっ……」
ふいに久川が俯いて息を零す。堪えるように身体を強張らせたが、ぱっと顔を上げた。
「ふふ、ふ……あはは!」
久川が突然笑いだした。私は何事かと思って彼女を見遣るが、彼女は顔の水滴を拭うこともなく、大きく口を開けて楽し気に声を上げていた。一度火が付いたら止まらない。久川は子どもみたいにけらけらと笑った。細められた目があんまりにも楽しそうだったから、私もつられて「はは……」と零していた。
「もう、なに、こんなの! あはは!」
久川は頬を赤くしながらまだまだ笑っていた。真っ青な空に吸い込まれていきそうなほど清々しい声だった。まだ私の見たことがない久川がいた。
私はカメラを掲げて、彼女にピントを合わせる。蝉の鳴く声に混じって、たった一度シャッター音が響いた。
「なんで、今、写真なんか撮ったのよお」
久川が荒げた息の合間に聞いてきた。
「……なんででも」
私は静かに腕を下ろした。綺麗な顔をくしゃくしゃにしながら笑う彼女がこんなに綺麗だなんて、私は知らなかったのだ。
十八歳にもなって全身ずぶぬれになった私たちがこれ以上歩き回るわけにもいかなくて、予定よりはずいぶん早かったが宿に向かった。
「はー、お風呂あったかかった」
まだ十六時だというのに風呂が済んでしまった。久川はタオルで髪の水分を取りながら、鏡の前に腰を下ろした。片手でドライヤーをつかみ取り、もう片方の手でコンセントを探す。
私は濡れた髪をタオルでくるんだまま、敷布団に寝転がって久川を眺めていた。
「矢野、ドライヤー使わないの?」
「面倒くさいから、いい」
ふーん、と言って久川はドライヤーのスイッチを入れる。古いのか、うるさい割に風はそよそよと吹いているだけだった。
「何これ、使えないじゃん」
久川はぼやきながらもドライヤーを当てて髪を乾かした。濡れた髪は肩に流され、より一層黒々としていた。私はふと呟いた。
「……あんたってさ」
「うん?」
「なんで私の被写体やってくれてるの?」
寝転がったまま肘をついて久川を見つめた。久川はドライヤーのけたたましい音を止めることなく、言葉を返した。
「何、急に? 言ったことなかったっけ?」
「言ってない。聞いたこともないし」
「ふうん……。一年もやってるのにね」
久川は何でもないふうに言って、ちらりと振り返った。
「私、矢野の“作品”になるのが結構気に入ってるんだよね」
久川はそれだけ言ってまた鏡の方へ身体を戻した。私は意味が分からなくて、しばらく黙りこんでしまった。
「……?」
「あれ? わかんない?」
久川はこちらに背中を向けたままだった。ドライヤーのスイッチを押して冷風に切り替える。幾分か静かになった部屋の中で、久川の声だけがやけに大きく聞こえていた。
「矢野はさあ、自分が死んだらどうなるかって考えたことある?」
「……はあ? いきなり何?」
「いいから」
「別に……ないけど」
私がぽそりと呟くと久川は笑った。
「私は時々考えちゃうんだよね」
久川が首を少しだけ傾けてドライヤーを器用に動かした。風に浮いた髪の間から白いうなじがちらついた。
「だって死んだら何もできなくなるんだよ。身体は燃やされて灰になっちゃうし。そしたら私がここでちゃんと生きていたこと、どこの誰が証明してくれるんだろう。……って考えたら、写真ってすごくない?」
「?」
「だって百年前の人だって、写真に残ってたら、それって生きてたってことでしょ」
「坂本龍馬とか?」
「そうそう」
私は寝転がったまま枕を引き寄せて、肘の下に敷いた。
「撮られたいだけなら別に誰でもいいじゃん」
「駄目だよ、矢野じゃないと」
私は思わず顔を上げて久川を見た。ほんの一瞬だけ息が止まったような気がした。久川はやっぱり背中を向けたままだ。
「だって私の周りにいる人で、一番上手いのって矢野だもん」
彼女はドライヤーの電源を切った。
「私が矢野の『作品』になって、それが賞を取って東京のおっきな会場に物々しく展示されて、みんなが矢野の写真を――私を見る。そうやって私は他人の記憶に残りたいの」
「……」
「だから矢野じゃなくてもいいっていうのは否定しない。矢野より上手い人がいるっていうなら、私はその人の方がいい」
久川は今さら振り返って私を見た。視線がまじわった。彼女の目は笑っていなかったし、睨んでもいなかった。久川は眉を下げた。
「今はね、私のこと矢野が誰よりも上手に撮ってくれるの。ねえ、なんでだろう?」
私は静かに肺をしぼませて、いつのまにか強張っていた背筋から力を抜いた。
「あんたのこと、よーくわかってるから」
私はごろりと横たわって、仰向けになった。木の天井を見上げながら私はぼうっとしていた。真上の照明が眩しくて視界がちかちかと瞬いた。私はすうっと瞼を閉じる。
「“久川葵”は誰からも好かれる人気者で、学年の有名人で、勉強も運動もできて、先生からも目をかけられてて――でも底意地の悪い最低な奴だってわかってるからだよ」
久川は声を上げて笑った。
「わかってて、まだ私のこと被写体にしてくれるんだ?」
「本当に馬鹿みたいだって思うよ。自分でも」
私は嘲笑うように鼻を鳴らした。
私はもう久川じゃなきゃ駄目だ。駄目だと思い知ってしまった。
久川より綺麗な女なんて、あんなに撮りたいと思わせられる人なんて、世界中探したってどこにもいやしない。最低な人間のはずなのに、そこがすごく人間らしくて綺麗だと思ってしまったのだ。汚いところが綺麗なんて、そんなのもう、逃げられない。
私ばっかり彼女を求めていて、それが悔しい。私は両腕で目元を覆った。
「ね、矢野」
衣擦れの音がして、私のすぐ近くに久川が座りこむ気配がした。
「矢野だって言えたもんじゃないと思うよ。自分じゃなんにも言い返せないくせに、勝手に人のこと嫌っちゃってさ。そういうとこ、私、本当に嫌い。吐き気がする」
「……うざい」
「でもさあ、私がこんな奴だって知ってるのは、矢野くらいなんだよね」
久川はふっと息を吐いた。
「“私”を見てるのは、たぶん矢野だけ」
「……あんたなんて、大嫌いだよ」
私は目元を覆ったまま呟いた。嘘なんかじゃない。私は今でも、これからも久川なんて世界で一番大嫌いだ。
「それでも私、あんたを世界で一番綺麗に撮ってあげる」
塞がれた視界は真っ暗闇だった。何も見えなくて、衣擦れの音しかしなくて、だけど久川がくすくすと笑った。
「私も矢野なんて大嫌いだけど。嬉しいな」
眉を下げて笑う彼女はやっぱり綺麗なのだろう。そう思ったたらどうしても見たくなってしまって、目元から腕をどかした。
そして手元にカメラを置いておかなかったことを心底後悔した。
数か月後。東京都内にある商業ビルの十四階に、写真がずらりと並んだ。私はゆっくりと歩きまわる。一番奥の一番目立つ場所には、一枚の写真が大きく張り出されていた。
「ほら、綺麗でしょ」
私は言い聞かせるようにひとり言を零した。
そこには川の中に座りこみ、真っ白なワンピースをぐっしょりと濡らしながらも晴れやかに笑う久川葵がいた。世界で一番綺麗だと信じている女が、そこにいた。
彼女たちの夏はブルー 月花 @yuzuki_flower
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