第一章 1
静かな教室に、黒板をチョークで叩く音だけが規則的に響く。クラスのみんなは必死にノートを取っているが、この右手は一向に動こうとしてくれない。
眠い。許されるならこのまま机に突っ伏して惰眠を貪りたい。だいたい六限目の一番眠くなる時間に、こんな日当たりの良い席でじっとしていて、睡魔に襲われない小学生なんていないだろう。不可抗力。これは不可抗力だ。ゆっくりと視界が狭まっていく。
「――ということで、この文章からは作者の想いが読み取れるわけなんだ。では次のページの最初の段落から……磯山、読んでもらってもいいかい?」
「はい」
目が覚めた。先ほどまでの眠気は何処へやら。彼女の座る、ぼくとは正反対の右斜め先へ目を向けた。
腰まで伸ばした黒髪の彼女はその場で立ちあがり、歌うように教科書を読み進めていく。読めない漢字に躓くこともなく流暢に朗読できる小学六年生は、ぼくの知る限り彼女だけだ。
磯山遥。覚えている一番古い記憶の時から、彼女はいつも隣にいる。いわゆる幼馴染み。近所に住んでいることと、ぼくと遥の親同士が仲良いこともあって、幼い頃からよく顔を合わせては遊びに行っていた。ぼくと違って昔から頭が良かったが、運動だけは全然ダメ。本人に言うと顔を真っ赤にして怒ってくるのがなんとも可愛らしい。ドッヂボールや鬼ごっこではいつも涙目になってむくれていたのがいい思い出だ。
遥はあっという間に一ページを読み終え、自分の席に腰を下ろす。すると教室内が僅かに騒めいた。「遥ちゃん、格好いい」とか「あいつ、いつもすげーよな」とか、いろいろと聞こえてくる。
……これ以上学力で差をつけられないように、そろそろちゃんと板書を写しておくか。
「磯山、ありがとう。では次の段落を——」
高角先生と目が合う。しかしそのまま誰を当てるか迷うように視線が教室を彷徨っていく。
絶対にぼくが当てられることはない。文章は理解できても、それを発する声を失っているから。いつもそうだ。おそらく無意識にだろうが、高角先生はぼくを当てようとしない。特にこの国語の授業の時は顕著だ。一人だけ蚊帳の外にいるようで、この授業が本当に大嫌いだ。
ただ別に高角先生が嫌いなわけではない。むしろ良い先生だ。今年の四月に赴任してきてから既に七ヶ月経つが、その持ち前の高身長と明るさ、おまけに細目のイケメンとくれば、男女や先生・生徒関係なく人気になるのは必然だ。
高角先生が誰を当てようか迷っているうちに、授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。途端に教室がざわざわと騒がしくなる。
「おや。じゃあ国語の時間はここまで。次はこの段落から始めるので、みんな教科書にマークしておくんだぞ」
ふぅ、とため息をついた。あとは帰りの会が終わればようやく放課後だ。高角先生は観察眼が鋭いのか空気を読むのが上手いのかはわからないが、いつも生徒の気持ちを汲んで行動をしてくれている。この状況であれば、帰りの会もすぐに終わらせてくれるだろう。
案の定、帰りの会は五分もせず終わった。我先に遊びに行くんだと言わんばかりに、クラスメートたちが教室から飛び出していく。そんなに急いでも何も変わらないだろうに。はしゃぎ回るクラスメートを尻目に、引き出しに入った大量の教科書をショルダーバッグに詰めて立ち上がる。
突然黄色い声が教室に響いた。声のした方向を見ると、クラスメートの女子達が高角先生を囲んでいる。左から順に、玉垣真有美、五十鈴川京子、伏見沙紀。毎回学校が終わる度に恋する乙女達にくっつかれて、高角先生も大変だな。
「先生、今日もわからないところがあったので教えてください!」
「私も!」
「私も教えてもらえませんか?」
優しく応対しているが、その顔には苦笑を浮かべていた。沙紀はまじめだしおそらく本心なのだろうけど、少なくとも他の2人は勉強を教えてほしいというのは建前で、ただ先生と話したいだけなのだろう。それはきっと先生も気付いているんじゃないか。周りを気にすることなく行動する。これが恋は盲目、というやつなのだろうか。
「いつも人気だよねー、高角先生」
ああ、そうだな。って、ん?
隣を見ると、すぐそこに遥の姿があり、びっくりして心臓が飛び跳ねた。
遥も行かなくていいのか?
「私は別にいいよー。全然好みじゃないし。そんなことよりも、早く行こうよ」
そう言って踵を返した遥の後を追う。それにしても。何も話せないぼくの思考を読むなんて、こいつにはやはりテレパシーか何かの不思議な力があるんじゃないかと疑ってしまうな。以前疑問に思い問いかけたところ「だってあっくん、ちっちゃい時からずっと友達じゃん。ここまで長く一緒にいたら何が言いたいかなんて、なんとなくわかっちゃうよー。ま、全部が全部わかるわけじゃないけどね」と、のほほんとした表情でさりげなく凄いことを言うので、あの時は開いた口が塞がらなかった。おそらくぼくの口や表情を読み取って理解しているのだろうけど、あまり腑に落ちていない。まぁ、手話を使わなくても話が通じることはぼくにとってもありがたいから何でも良いのだが。
「磯山達、ちょっと待ってくれ」
教室を出ようとしたところで、教壇で女子生徒に囲まれた先生に呼び止められた。
「なんですかー?」
「ちょっと話がある。悪いが先に職員室に行って、待っていてくれないか?」
「え、今からですかー?」
「ああ。そんなに時間はかからないから安心してくれ。この子たちの質問に答えたらすぐ行くから」
「わかりましたー」
遥が返事をすると同時に、ぼくも頷いて教室を出た。長い廊下を歩く。
「なんの用事なんだろうねー」
わからないな。何かやらかしたのか?
「あー! 失礼だなー! 私は何もやらかしてなんかないよ! そういうあっくんが何かしたんじゃないの?」
なんだろう。授業に集中していなかったことだろうか。それとも寝ようとしていたことか。
「その顔は何か思い当たることがあったようだねぇ!」
遥がにひひ、と意地の悪そうな笑みを浮かべた。全く。その顔で笑うのはやめた方がいいって言っているんだけどな。可愛い顔が台無しだ。
そんなことないさ。それは遥の勘違いだ。
「いやいや、さっきのは絶対何かあった顔だったよ! ほら、言うのだ!」
しつこく食い下がる遥を軽くあしらって階段を下りる。三階から一階まで移動する間ずっとうるさかったが、一階に着いてすぐのところにある職員室に入ると、すぐに静かになった。扉の隅で先生を待つ。それにしても一体何の話だろう。さっきふと思った、授業を聞いていなかったということが、先生の怒りを買ったのだろうか。でも流石にそれは授業中でも注意すれば済むことだし、何なら先ほど呼び止めたタイミングでも十分だろう。わざわざ職員室に呼ぶ必要もない。それにそんなことなら遥も一緒に来るというのも変だしな。
職員室の窓から見える運動場や遊具をぼーっと眺める。きっと他のクラスの帰りの会も終わったのだろう。運動場には多くの生徒が遊び始めていた。職員室の時計を見ると、既に十五分が経っている事に気がついた。と同時に隣で遥がそわそわしていることに気付く。気持ちはわからんでもないが、職員室で文句を言い出すことだけは頼むからやめてくれよ。
遥が我慢の限界だと言わんばかりに口を開きかけた時、職員室の引き戸が開いて高角先生が入ってきた。
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