第15話 岩室の「ダンナ」、高村
「……そうですか」
仲居の説明に、中里はなるべく平静を取り繕った――― つもりだった。
「ええ。ずいぶんお待ちでしたよ…… はい…… お荷物は…… はい、すぐに。一応、お客様がいらっしゃったらお待ちくださるように御伝言伺っておりますが…… お食事の後、海の方へ向かわれてから、まだお戻りでないのです」
だが全く平静でないのが、すぐに判る。彼女ののんびりとした口調がひどく苛立たしい。
「海の方」
「ほら、そこに遊歩道が見えますでしょう? あれを越えるとすぐに海岸になっておりますので」
説明されている間に、よし野の荷物が運ばれて来る。本当に学校から直行しただけの荷物しか無い。バッグ一つだけが軽々と持って来られた。
仲居はばん、と中里の背を大きく叩くと、叱咤激励する様に言った。
「あんな可愛らしい子を泣かす様なことをしちゃあいけませんよ、お兄さん」
そうですね、と中里は頭を下げる。本当に、肝に銘じたい所だった。
*
「荷物はそれだけかい」
小型の車窓から、岩室が顔を出した。
「ええ。すいません、おばさん、確認お願いします」
そう言うと、中からよし野の母親が出てきた。
午前十時を少し過ぎていた。
学校で、岩室が彼女の「ダンナ」と連絡を取ってすぐ出た彼らは、よし野が居るはずのホテル付近で合流した。
「確かに、あの子のだわ…… 哲ちゃん、何であんた、行けなかったの!」
「お母さん、それは……」
岩室は彼女の肩に手を掛ける。母親は大きく首を横に振ると、その手をぱっ、と除ける。
「いいえ先生、判ってはいるんです。ただ先生、私まだ、あなた等の言う状況が、まだ良く理解できないんですよ。信じたくないんですよ。何であの子なのか、どうして、だから、私まで、とか色々考えてしまって、収拾がつかないんです。そう、愚痴ですよ愚痴。判ります? それが本当だろうが嘘……嘘じゃないんですよね。こんなこんな、だから。……ああだから」
彼女はそうまくし立てると、荷物をぐっと抱きしめる。
「ごめんね哲ちゃん、あんたの事情は説明されたんだよ。だけど、やっぱり私には、まだなかなか信じられない」
中里は大きくうなづく。それは、そうだろう。
「でも私はあんたのことは信頼してる。お願い。よし野を助けてちょうだい」
母親は、強い眼差しで中里を見上げた。
「もちろん」
そして彼もまた、即答する。
「何があっても、あいつだけは」
いいや、と母親は大きく首を横に振った。
「何があっても、なんて言うんじゃない。あの子と一緒に、絶対戻って来るんだよ、あんたも」
母親は荷物を一度下に置くと、中里の両手を掴んだ。中里もまたその手をぐっと握り、もう一度大きくうなづいた。
「行ってきます」
*
「どうやって…… えーと」
運転席に座り、スムーズにハンドルを動かす岩室の「ダンナ」に、中里はどう呼びかけていいのか迷った。
「高村だ。
「……え、でも」
「夫婦別姓くらい、今時ありふれてるだろ?」
彼は、隣の理系中等の教師だ、と言った。
「じゃあ高村さん、えー…… と、どうして、よし野のお袋さんを先に保護できたんですか?」
「ああ、めいかから連絡もらってな」
「めいか?」
「うちの奥さんの名前。何だキミ、知らなかったの?」
知らなかった。「彼」は知っていたかもしれないが、中里は。
いや、「彼」も知らなかったかもしれない。
ふとその時、中里は一つの可能性に気付いた。
もしかしたら、自分が彼女にずっと「先生」と呼べずにいたのは。
「彼」は、岩室を「先生」とは呼びたくなかったのかもしれない。名前を知ることも呼ぶこともできないなら、せめて。
だがそれだけに、その意思は、普段の中里をも支配する程に強かったのだろう。
ちくり、と中里は胸が痛んだ。
「ウチにある発信器を二台使った、とか、今回の標的はだれそれだから、拉致組に気付かれない様に連れ出して、とか急なことで、大変だったよ」
それでも何とかできてしまうのだから、凄いものだ。中里は思う。
「でもどうやって、連れ出せたんですか?」
先程、彼女も言っていた。説明されても信じられない、と。
「そりゃあまあ、普通は信じないよな」
あっさりと高村は言う。
「俺だって、昔、こういう事態に巻き込まれるまでは信じられなかった。巻き込まれても、はっきり言って、信じたくは無かったね。……今だって、正直、信じたくはないさ」
しつこいくらいに彼は繰り返す。
「だけど事実は事実だから、仕方が無い。で、あのお袋さんにも、事実を突きつけさせてもらった」
高村の話によるとこうである。
14日の夕方、帰社寸前の母親を会社で捕まえて、話をしたのだ、という。無論あの気丈な彼女である。見も知らぬ誰かに、そんな突拍子も無い話を唐突に言われたところで信じる訳がない。
そこで高村はまず自分の素性をきっちり証し、さらにこの晩の彼女の娘の行き先、よほど親しくない限り、まず知られるはずの無いことを口にした上で、こう言ったのだ、と。
「とにかく、嘘だと思ったら、後ででしたらどれだけ俺をののしってくれてもいいし、俺の勤務する学校へ文句言ってもらってもいい。それこそ警察に訴えてもらってもいい。こんなやり方、まるでストーカーってことはよく判ってます。ただ! 今だけは、とにかく今だけは、俺の言うこと聞いてもらえませんか?」
さすがに高村のその必死の説得に、母親も心が動いたのだ、という。
そしてまず、持ち合わせる預金の全てを下ろしてもらう。
更に一度、部屋に戻って貴重品を持ち出させ、また彼の車へと戻ってもらったのだという。
「どう考えても、向こうにしてみれば危険な賭さ」
高村は言った。
「そうやって引き出したもの全てを取られる可能性の方が大なんだから。だから俺は、うちの学校にいちいち身元確認の電話もしてもらったよ」
そしてその晩、この車は、彼女のアパートが双眼鏡で見えるぎりぎりの位置に停められたという。
「双眼鏡」
後部座席にスタジアムスポーツ観戦用の高倍率の双眼鏡が転がっていた。赤外線スコープつきだ、と高村は付け足した。
「そして夜中、連中がやって来た。拉致組だ。その様子をそれで彼女に見せたら、さすがに半分は納得した」
「それでもまだ半分、ですか」
「うん。俺がまた別の拉致組、かもしれないだろう? だからさすがにあのひとはきっちりいつも逃げる算段を頭に浮かべていたようだね。ドアには絶対鍵も掛けなかったし、荷物や携帯も抱きかかえていたし、一睡もしていないし」
さすがだ、と中里は思った。
「それで今朝、めいかから電話が入ったから、こうやってキミ等と合流した訳だ。それでようやく、本当に納得してくれたようだ」
自信を持って高村は言う。そう言えば。中里は思う。このひとは、岩室と何処か雰囲気が似通っている。
「そう言えば、お二人は…… どうやって、知り合ったんですか?」
「何でそんなこと、知りたいんだ?」
「単なる興味です」
「単なる興味ね。うん、その聞き方は気に入った」
高村はうなづいた。
本当は「彼」のためだった。この人物が「彼」にとっても納得できる相手であればいい、と思ったのだ。自分というフレームの内側で聞いているはずの「彼」は、それを知りたがっているだろう。
―――なあ、そうだろう?
だが「彼」の答えはない。
不公平だな、と中里は思う。自分がフレームの向こうに居る間は、「彼」に話しかけることができる。「彼」も答えられる。
だがその逆はできない。
もしできたら、「彼」にも、何かしら、自分にできることがあるのに。だができないなら――― できるだけ、自分が、それを想像して行動するしかないのだ。
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