感情の名前
六月に入った。
いよいよ東京表参道のアンテナショップで催されるイベントと、奥野山村ホームページリニューアルの第一段リリースが近づいてきて、さくらは毎日忙しそうにしている。
僕も任される仕事量が増えてきたことに加え、さくらんぼの収穫と出荷を控え、残業することが多くなった。さくらんぼの出荷がひと段落すれば、次は桃の出荷だ。
ところで、あらためて驚かされたことがある。
農協へ就職してから、さくらんぼの日別出荷量の数字をはじめて追ってみた。グラフ化をすると、ちょくちょく突出して跳ね上がっている日があったので、要因は何だろうかと考えてみたが、僕はすぐに思い当たる。
さくらのSNSがバズった日だ。
とりわけ、さくらは嫌がったが、僕の願望をそのままやってもらったことがあり、その写真を「食べごろだよ」とコメント付きでアップした翌日は、通常の四倍もオーダーが入っていた。通りで昨年、さくらんぼ農家さんたちが「大変だ、大変だ」と騒いでいたわけだ。
今年もああした起爆剤になるものが必要となる。果たして、何がよいだろうかと一人で妄想しつつ、軽トラで帰宅する。
すると、家にお客さんが来ていた。
おそらく飲んでいるのだろう。玄関先まで賑やかな声が聞こえた。
茶の間をのぞきこむと、見知った長身の男の人が頬を赤くして座っている。僕は慌てて膝をつき、頭を下げた。
「あ、どうも、こんばんは。いつも父がお世話になっております」
「遅くまでお疲れさま。お邪魔してます」
爽やかな笑顔、白い歯が輝く。
風間さんだ。
傍ら、父は酒をのみ、やたらとご機嫌の様子。テーブルの上には徳利が何本も転がり、普段あまり酒を飲まない母まで顔を赤くしている。
「おお耕太、おかえり。遅かったな。実は俺も母さんも酒を飲んでしまったから、お前の帰りを待っていたんだ。この時間にタクシーを呼ぶのも悪いし、風間君を家まで送ってやってくれないか」
「ン、もちろん、いいけど」
「耕太君、お疲れで帰って来たばかりなのに御免ね」
「いえいえ。すぐ近くですし、大丈夫ですよ」
それから僕は、風間さんを軽トラに乗せ、アパートまで送った。道のりは五~六キロ程度だから近い。
「何やら、ウチの父がつき合わせてしまったみたいで、すいません」
「いやいや、結婚式のスピーチをお願いしているので、あらためて僕のほうから挨拶にお邪魔したんだよ」
相変わらず、御曹子であることを感じさせない、柔らかい物腰の返答。いや、本当の御曹子とは、こうしたものなのかも知れない。
「そういえば、披露宴はドッグ・リゾートでやるんですよね。当日は何人が集まるんですか」
「うーん、それね。悩みに悩んでなるべく絞ってはみたけれど、結局三百人ぐらいかな。日をあらためて、東京のホテルで立食パーティもやるんだけどね。色々と面倒だよ」
「ふえぇ、大変ですね。やっぱり政治家の娘さんがお相手となれば、そうなってくるんですね」
「うん、まァ……ねぇ。今どき見合い結婚をさせられるとは、思ってもみなかったけどさ」
さくらから教えてもらった。お相手は、地元を代表する有力国会議員の長女だそうだ。しかもその議員さんの家は、ご子息がなくて三人娘。つまり風間さんは、これからカザマホールディングスの代表となるか、義父の地盤を引き継いで国会議員となるか、二つの選択肢が敷かれたということになる。
村内では、議員さんがカザマの潤沢な資金をあてにしているのだとか、はたまたカザマはいよいよ政界進出を目論んでいるのだとか、真偽不明の噂が其処彼処で飛び交っている。
とはいえ、一般庶民の僕には到底想像も及ばぬ雲上世界の話。
風間さんは、困ったように苦笑いを浮かべ、ため息を漏らした。
「周りが勝手に人の将来を決めるんだから、困ったものだよ。悪い子ではなさそうだけど、結婚相手ぐらい自分で決めたかったなァ」
「そういうものですか」
「そうだよ。考えてもごらん。たとえば進路や就職先、奥さんとなる人を自分の希望とは関係なしに決め付けられて、従うことだけを求められたら耕太君はどう思う」
「確かに……少しどころかすごく嫌ですね」
「でしょ。幼い頃からずっとこうだから、慣れっこではあるけれど」
言われてみて、はじめて気付かされる。風間さんのような境遇を羨むばかりで想像してみたこともなかったが、それは嫌だ。
間違いなく、息苦しくなるだろう。
「――だからね、ドッグ・リゾートへの融資の件は、僕のささやかな抵抗だったんだ」
「ささやかな抵抗、ですか」
「そう。そもそも最上銀行への就職にしても、父が決めたことだった。東京育ちの僕に、田舎という市場の空気感や実態を、肌で勉強させるためにね。それはそれで、悔しいぐらいの正論で理に適っているんだけど、銀行の人たちは腫れ物に触るように接してくるし、無事にカザマへ送り返すのがゴールだから、大きな失敗をさせないよう重要な仕事を任せてもくれない。父も父で、余計なバツがつくようなことだけはしてくれるなと言う。結果、同期たちからどんどん置いて行かれる」
「そういうものなんですね……」
「かといって誰が悪いという訳でもなくて、そもそもそうした約束だから、受け入れてもらえるだけありがたいことでもあるんだよね。――でもさ、せっかく来たんだから、奥野山村のためになることを何かしたいじゃない。自分が居た足跡を残してやりたいと思うのは、罪でもないでしょ。だからあの案件は、自分が置かれた立場や人生に対する、せめてもの反抗だったんだよ」
「だけどそれで出来てしまうのも、凄いことです」
「そうかな。あれは僕なりに必死だったんだよ。最上銀行に居る期間は、今年までの約束だったしね」
人とは、それぞれの立場で思い通りにならないことが、必ずあるのだなと思い知らされる。
屹度、自分自身が就職して働くようになったからだろう。以前はお金持ちの家に生まれて羨ましいなとしか思わなかった風間さんの素顔が垣間見えた。
この人に嫉妬して、眠られず過ごした夜が今はとても恥ずかしい。
「農協のほうはどう。上手くやれているかな」
「はい。皆さんが優しいので、おかげさまで何とか。まだまだ覚えることだらけですけど」
「偉いよ、耕太君は。普通は東京や仙台の大学とか専門へ行って、モラトリアムに遊びたい年頃なのに、地元のために残って働こうとするんだからさ。なかなかできることではないよ」
「いえ、そんな」
「この前SUGOへ行ったとき、朔良君も言っていたよ。耕太君は偉いって。入学者が途絶えそうだった奥野山高校へみんなのために入り、今度は農協へ就職して頑張っている――ってね」
「そ、そそ、そうなんですか」
「うん、ベタ褒め。あの表情……暫く何だろう、どっかで見たことがあるなって考えていたんだけど、最近になってようやくわかったよ」
「何ですか」
「あれはさ、女の子が好きな彼氏を自慢する時の顔、そのまんまだなぁって思った」
「えッ……」
吃驚している僕の顔を、風間さんがチラリと見て、悪戯っぽく笑う。
「この前さ、見ちゃったよ。アレ」
「な、何をですか」
「キス――したでしょ、朔良君のおでこに。プロモーション映像にしっかり収まっていた」
「ブッ……あ、あれは演出上、ああしたほうが自然かなと思いまして、アドリブで――」
「あァ、いいよいいよ、無理に否定しなくても。僕もおでこにキスしたくなる男の心情はよくわかるし、朔良君は下手なモデルよりも可愛いからやむなしでしょ」
「…………」
風間さんは何のこだわりもなく朗らかに笑い、愉快げに僕の肩を叩いた。
「でもさ、朔良君を目の前にしていると不思議な気持ちになるよね。見た目と現実のギャップで、認識と価値観が揺さぶられるというか。あれは心のなかで自分に言い聞かせないとヤバイよ。これは男、これは男だって」
ということは、風間さんもさくらに対して何らかを考えなかったこともない、ということになるが、どうなんだろう。
「――そうそう、あとはこうも言っていたね。高校時代から耕太君が毎日可愛い可愛いって褒めてくれたから、ついつい頑張ってしまうことがあった。そして結果、あそこまで突き詰めてしまった部分があるってさ。耕太君の存在なくして、今の朔良君は無かったんだろうね」
「そう、なんですか……」
正直、さくらがそう言ってくれていたのなら、とても嬉しい。
風間さんが続けた。
「よくさ、男と女の間に友情は成立するかって言うじゃない」
「はい、聞きますね」
「生物学的に雄と雌である限り、間違いが起こりうる可能性がどこかにあるわけだから、絶対に無理だと僕は思っているほうなんだけれど、ならば逆に、同性の間で愛情は成立するのかっていう問いも考えられるよね」
「はァ……確かにそうです」
「では仮に同性の間で愛情がありうるとしたら、友情と愛情が並存する感情の名前は、何て呼ばれるのだろう。またその境界線は、どこにあるのだろう――ね。だから江戸時代まであった衆道の横恋慕は、刃傷沙汰まで発展したのだろうなと思ったよ。一気に友情と愛情を失うのは辛いし、すごく悔しい。女の子と付き合うのと違い、生物学的に満たされる代わりがいない」
そうだ。その通りだ。
僕は、この胸のなかに長らく在る、さくらに対する感情の名を未だ知らない。
どこからどこまでが友情で、何をしたら愛情になるのか、いつも着地点を探しているような気もする。
「僕はいいと思うよ、そういうのも。未だよく知らない女の人との結婚を勝手に決められるより、よっぽど人間的だと思う。陰ながら、二人のことを応援しているから」
「い、いえ……ありがとう、ございます。ハハ」
応援していると言われても、周りに何かを反対されているわけでもなく、さくらとは両想いの恋人というわけでもないから少し困る。
だけどもしも、さくらが女の子であってくれたらなとか、いっそ男の子を好きになってしまう体質であればなとかは、正直なところ内心、思ったことが無いわけでもない――てどうして風間さんとこんな話をしているのだろう。すっかり上手く乗せられてしまった。
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