ダイトーアの歌

ジンボー・キンジ

バンドのためのプレリュード(第一巻収録)1

 マサヒロを乗せたタクシーが、昼のぬるい空気を裂いて走っていく。赤い建物と漢字の看板、白い建物とハングルの看板、黒い建物と平仮名の看板。それらが目では追いきれないほどに、代わる代わる通り過ぎる。

 街中に張り巡らされた二車線道路と、隙間なく建てられた建造物群。都市部にはそんな景色が広がっているとは知っていたマサヒロだったが、実際にそれを見るのは初めてだった。

 そして何より、ダイトーア・東京の街に絶え間なく行き来するのは、政治思想をまとった人間の数々だ。道端には、いかめしい顔で旗を持ち行軍する保守派の人間たち。ビルの窓からは、粗悪な紙に刷ったビラをばらまく革新派の人間たち。さらには、拡声器を載せた車を走らせながら決起を呼びかける中立派の人間たち。彼らはダイトーアで政治の覇権を狙い、競い合うようにプロパガンダを行っていた。

 街中では政治的思想をむき出しにする声が、近くから遠くから押し寄せてくる。

「市民諸君、贅沢をしなくても何かしら大丈夫! 全ては国庫に属するから、強国が成れば我々も安泰だ!」

「ダイトーアの重要案件は、労働者の決起である! ガンバロー精神のもと支配層を打ち倒せば、最終的なウィン・ウィン関係の理想郷だ!」

「要するに、プット・ユア・ハンズ・アップの精神です! 両手を上げることで、偏りのない思想の表現と、中立派への絶対的な忠誠を誓いましょう!」

 彼らの叫ぶ政治的スラングは、かつて戦時中に用いられていたようなプロパガンダだ。それらは時代が進むにつれ、都市部で高度の言語的発展を遂げていた。政治的主張とその程度を示すことにおいて、このスラングが持つ役割は大きい。

 一方で街にいるのは、彼らのような活動家ばかりではない。軍服を基調にしたミリタリー・ゴスファッションで決めた若い女もいれば、忙しそうに歩くサラリーマンのネクタイは、鎌と槌の意匠を凝らしたものだ。活動を行うことだけが、思想を示す方法ではない。

 さらには、政治的モードに何ら興味のない市民も当然のようにまぎれていた。彼らはプロパガンダに一切構うことなく、無関心を貫いている。政治に興味のない者から強く傾倒するものまで、ダイトーアには息づく人間は幅広い。

時折見える街角の巨大ディスプレイでは、日本・中華・朝鮮問わない人種のタレントが次々と映る。その横では企業の看板が「リスク管理のもと行う尊王攘夷」「こわばりが散るお湯と書いて強散湯きょうさんとう」といった宣伝文句を掲げていた。

 ダイトーア・東京は、あらゆる政治思想が形となってひしめく、一大政治都市だ。マサヒロ自身も東京で育った人間ではある。しかしそれは都市部とは天と地ほども違う、ひなびた西部の山あいだ。

 彼は今日、田舎町にある国営の孤児院から、東京都市部へやってきたのだ。

 国民に政治思想が浸透した時代とはいえ、マサヒロが育った土地では大々的に政治活動を行う人間など、そうそういなかった。人口の少ない田舎町では、活動を起こす人間も、それによって感化される人間もいないからだ。

 彼はここに来て初めて、政治思想が激しくぶつかる光景を目にしていた。そして今日から自分は、その真っただ中へ入り込む仕事に就く。

 実感など、まだ沸くはずもない。仕事場へ向かうタクシーに運ばれながら、今はただダイトーアに溢れるプロパガンダに目を移らせていた……。


      ♦♦♦


「これが、入団契約書だ。君の進路が決まる書類だから、よく目を通しておきなさい」

 マサヒロは、シラカバから書類を手渡された。入団契約書は細かい文字がびっしりと書かれていて、全て読むとなるとどれだけ時間がかかるかわからない。それを分かっていてか、すぐにシラカバは説明し始める。

「一つ目に……。君は先日、高卒認定試験に合格したことで、社会において十分な教育を受けたとみなされた。そして社会人の一員として、第〇楽団だいゼロがくだんに入団する。つまり、就職する。これで間違いないね?」

「はい。そうです」

 国営の孤児院は必要最低限の予算で運営されているうえ、中学と比べ高校は何かと金がかかる。中学を卒業した孤児の多くは、通信教育で高卒認定を受けており、マサヒロも同様だ。教師らしい教師にも学ばず、中学を卒業してから五年近くかかっての高卒認定だった。

 マサヒロのような人間も満足な教育が受けられるよう、孤児院を設立してくれたのが目の前にいる年老いた白髪の男――シラカバだという。かつては中立派の大物政治家だったそうだが、すでに政界を引退し孤児院と第〇楽団の理事を務めている。

「楽団の事務方は私で、演奏活動についてはユキが担当している。このあとの練習については、この子の指示を聞いてくれ」

「ツカモト・ユキです。さっそく今日の練習から、よろしくね」

 シラカバの隣には、彼の秘書と楽団の指揮を務める、ユキが同席していた。長い髪を後ろで結った、まっすぐな眉の颯爽とした風貌の女だ。まだ若いが、自分よりは年上だろうと、マサヒロは推測した。さらにユキは、横から書類を取り出す。

「あと、これも渡しておきますね。うちの就業規則はひととおりこれに綴っておいたから……。さすがに全部は読めないと思うけど、一応ね」

 マサヒロの目の前に、分厚いファイルが差し出された。パラパラとめくってみると、いかにも仕事の書類といった、小難しい文字ばかり並んでいる。

「最後の方に、寮での暮らし方が書いてあるから、まずはそこを読んでおいてね」

 オフィススーツを着た、きりっとしたビジネスウーマンといった印象のユキだが、ごく優しい声で物腰も柔らかい。秘書として、形から入る人間なのかもしれない。

 第〇楽団の拠点となるこの建物には、これからマサヒロが暮らす寮もある。前もってシラカバから聞いたところによると、必ずしも寮に入る必要はなく、自分で家賃を支払ってアパートで暮らしていいことになっている。ただ、マサヒロは孤児院の頃からずっと共同生活で生きてきた。そのため、楽団での寮生活も何ら苦にはならない。支障がない限り、ここで生活する気でいる。

「練習時間以外で何か困ったことがあれば、部屋の内線でシラカバさんに連絡してくださいね。ここにはシラカバさんの自宅もあるから……」

「何もないのが一番だが、非常事態には私が警察にもかけあうから、安心してくれ」

 今は半ば隠居生活を送っているシラカバだが、政界人としての影響力が完全に衰えたわけではない。今ではユキが、シラカバの秘蔵っ子となり代議士への道を模索しているのだ。シラカバが話を続ける。

「次に二つ目だが、入団している間は、他の楽団と掛け持ちをしてはいけない。ここのみで活動すること。いいかな?」

「大丈夫です。あてなんかありません」

「よし、そして三つ目。これが一番大事なんだが……。この楽団に入るにあたって、政治的思想は持たないこと」

「思想、ですか?」

「ウン。君もここに入るからにはある程度知っているだろうけど、ここは保守や革新、人種や国に関係なく、様々な所で演奏をする。政治的な場に足を運ぶ機会がかなり多いんだ」

「中華や朝鮮の人もいる、中立的な組織だと聞いています」

「そう。だから、楽団員には保守や革新に傾かないでほしい。組織の運営に関わるからね」

 シラカバの大真面目な言い方が、マサヒロには以外だった。ダイトーアでは、政治的意見を持つことは全く珍しいことではない。さらに孤児院では、大人になれば選挙権や参政権が与えられ、政治に参加できると教えられていた。それが一転、政治について何も思うなと言うのだ。

「でも……選挙には行けって、学校でも孤児院でも教わりました。ここに入るなら行かないほうがいいってことですか?」

「いやいや、そうじゃない。ちょっと言葉が足りなかった。まあ要するに自分の意見を、過激派団体みたいに主張しないということだ。選挙に行く分には構わないよ」

 シラカバのその言葉は、まだマサヒロには難しかった。ただマサヒロは別に過激な思想に染まる気などなかったので、素直に応じることにした。

「分かりました。そうします」

「ありがとう。では、名前を書いて判子を押してくれ」

マサヒロはペンを取り、名前を書こうとする……。しかし、手が動かない。すぐに名前を書けないのだ。

「マサヒロ君、どうした」

「この書類は……日本の名前で書いてもいいんですか」

二人の間に、ほんの少し沈黙が流れる。シラカバも一瞬ばつの悪そうな顔を見せるも、すぐに取り繕う。

「……そうか、そうだったね。いい。物怖じせず、日本名を書きなさい」

それを聞いてマサヒロはすぐに、名前欄に「呉正浩」、そしてフリガナ欄に「クレマサヒロ」と書き込んだ。

「そうすると、これからはこの名前を名乗ればいいですか」

「いや、無理にそうする必要はないよ。うちは中華や朝鮮にも脚を運ぶことがある。むしろ……せっかくそういう名前に生まれたんだから、臨機応変に使い分けるのもいいんじゃないかな」

 マサヒロは生まれて間もなく、孤児院の玄関に捨て置かれていた。そして、彼の名前を表す呉正浩と書かれた紙切れが入っていたと、シラカバや他の職員から聞かされている。しかし問題は、その三文字の漢字の読み方までは書かれていなかったことだ。

 日本の孤児院に引き取られ育ったということで、マサヒロという名前を便宜上用いているが、実際のところは不明だ。日本名として読めば「クレ・マサヒロ」。中華名ならば「ウー・チェンハオ」。朝鮮名ならば「オ・ジョンホ」。呉正浩という名は、どう読んでも不自然でないのだ。

 戸籍がどこにあるか調べようとしても、全国の役所や児童相談所全てにかけあってもらうのは難しい。ダイトーアは戦火によって、国籍や出自も分からない人間が大量発生してしまい、それぞれの自治体の手には負えなかったからだ。

 結局、孤児院側はマサヒロの戸籍を作るため、裁判所へ就籍許可を願い入れた。名前は呉正浩、生年月日は病院が割りだした推定の日付、本籍地は孤児院。極めて暫定的な戸籍だった。

 だがダイトーアでは、こうした暫定的な戸籍を持つ人間は、マサヒロだけに限ったことではない。

 一九四五年の停戦以降しばらく、全ての国民は著しく疲弊し、自治体も満足に機能していなかった。その中、ドサクサで戸籍を登録されることなく生まれた子どももいれば、戦火で書類が失われた人間もいた。そして誰が死んだのか、誰が生きているのかすらもあやふやになってしまった。

 ――かつて日本では、敗戦が濃厚になった時、大陸の植民地を含めて一億総玉砕の機運が高まっていた。ポツダムで終戦を突きつけられても、広島・長崎に原子爆弾が投下されても、なお日本は白旗を振らなかった。男たちは次々と敵国に立ち向かっては、そのことごとくが敗れ去った。

 ある軍は敵艦に突っ込み、ある軍は植民地を防衛し、死んでいく。敵国を目指し船に乗り込むも、資源が枯渇し野垂れ死ぬ軍もいた。女でさえ、敵に掴まるくらいならと集団自決を図りだす。次々と死んだ人間を役所が管理しきれなくなり、さらには役所の人間ですら大日本の名のもとに死ぬという様相を呈していた。

 結果残ったのは、死にきれなかった大人たちと、将来のために死ぬことをまぬがれた子どもだった。戦後に設立された国営の孤児院は、親を亡くしたか出自不明となった孤独な子どもたちのためにあった。マサヒロとともに育った人間の中には、かつて満州と呼ばれていた中華の一地域や、朝鮮の血筋もいる。

 そしてマサヒロの隣には今、中華系の団員が一人呼ばれていた。短髪で背の高い、精悍せいかんな男だ。彼は大陸から渡ってきた、正真正銘の中華系だという。シラカバが、当面の間マサヒロの世話役に任命したのだ。

「分からないことがあれば、この守信に聞きなさい。うちの団じゃ年長だから、頼りになるだろう」

「よろしく。劉守信リュウ・シュシンだ」

「初めまして。ウー……、いや、クレ・マサヒロです」

 マサヒロはつい、中国読みの名前を言ってしまいそうになる。

「名前のことはシラカバさんから聞いたよ。いつか、本当の名前が分かるといい」

 守信の日本語は、中華語特有の独特なリズムが残っているが、それでも問題なく聞き取れる発音だ。マサヒロは、物心ついた時から知らず知らず日本語を話していたが、もしかすると中華の言葉を話してしかるべき人種なのかもしれない。

「それじゃあ守信、私はこれから来客があるから。まずは部屋に案内して、その後で練習室に連れて行ってくれ」

 シラカバはそう言い残して立ち去る。二人も続いて部屋を後にした。今はまだ昼間だ。これからマサヒロは自分の部屋で荷を解き、さっそく練習に参加するのだ。

 第〇楽団は多くが孤児院出身の楽器経験者で構成されている。中には楽団を抜けて、別の仕事に就く者やプロの楽団へと移る者も少なくない。そのため楽団員は常に流動的であり、入団するとすぐ練習に参加して本番に備えなければならなかった。

 マサヒロはこれから自分が生活する部屋に通されると、すぐに荷物を降ろした。部屋は守信との相部屋のようで、ベッドと机が二つずつ対称的に置かれていた。机には、真新しいワイシャツにスラックス、そして名札が置かれている。マサヒロの本番用衣装だ。

 するとマサヒロは、守信のベッドの横にだけ、小さな本棚が据えつけられていることに気がついた。中には、簡体字で書かれた日本語学習の本が並んでいる。

「この本棚は、守信さんが用意したものですか?」

「そう。楽団は仕事だから、給料で買ったんだ」

「孤児院だけじゃなく、自分でも勉強しているんですね」

「俺は孤児院育ちじゃないんだ。日本語は自分で勉強した」

 ついマサヒロは守信も孤児だと思っていたが、違うらしい。確かに同じ孤児院で育った中華系の人間は、幼い頃から日本語で教育を受けていたため、守信のような中華訛りが見られず、発音や語彙力もマサヒロと大差なかった。マサヒロはそれが珍しく、訊き返す。

「じゃあ、中国育ちってことですか」

「そう。俺は雲南の出身だ。十八の時に、一人で日本に来たんだ」

 雲南省。現在「中国」と呼ばれる国家の一部であり、ダイトーアには属していない。大陸の中でも、ダイトーアに加わっている地域は朝鮮半島と、かつての満州国だった中華東北部だ。

「マサヒロは、雲南がどこにあるかわかるか?」

「すみません。実は知らなくて……」

 中国は広大な国だ。日本で生きてきたマサヒロにとって、大陸の広さははかりしれない。雲南という地域のことは何も知らなかった。

「中国の南。ダイトーアより、タイやミャンマーの方が近い所だ」

「へえ……。どうしてそこからここへ? 知り合いがいるんですか?」

「いや、いない」

「エッ。それなのに、わざわざここに? ダイトーアは、日本人以外に食ってかかる奴らもいるのに」

「だけど、反対に中華や朝鮮の人間を受け入れてくれる人もいるじゃないか」

「それはそうですけど……」

 ダイトーアの中でも日本は、保守派と確信派の衝突が起きている。単一民族国家の再興を目指す保守勢力と、逆に多民族国家への変革を目指す革新勢力という図だ。さらにその中でも、主張の強さは人によってまちまちで、保守派と革新派の多くがある程度譲歩しあうことで今の社会が成り立っている。守信が中国出身ながらダイトーアにいられる理由は、そこが大きい。

 一方で、完全な鎖国体制を望む保守団体もいれば、外国勢力による国家転覆をもくろむ革新団体もいる。そういった論者は少数派でこそあるものの、過激派と化しちまたを混乱に陥れている。ダイトーアは様々な思想の人間が、複雑に衝突する。

「この国は、みんな色々な考えを持っている。周りに合わせなくていいから、かえって俺には良いよ」

「……雲南にいる時は、周りに合わせないといけなかったんですか?」

「俺は、そうだった。親が熱心な保守の活動家で、自分も引き込まれるところだったんだ。それで、逃げてきた」

 守信は顔を曇らせた。マサヒロは、触れてはいけないことに触れてしまったと思い、気まずくなる。

「すみません。そうとは知らず」

「いいんだ。ダイトーアじゃ、誰が保守でも革新でもあまり気にされない。さらにここは、そうした考えを持つべきじゃない。そう言われただろう?」

「はい。ということは、守信さんは保守も革新にも傾きたくなくて、入団したってことですね」

「そんなところだ。まあ、そんな難しいことを考えてもしょうがない。まずは練習と演奏活動に参加してみろ。その後で分かることもあるはずだ。……さあ、練習室に行こう。もうすぐ午前の合奏の時間だから、参加してくれ」

 マサヒロは再び守信に連れられていく。夜間と早朝以外は、練習室が開放されている。マサヒロはこれからさっそく練習を積み、すぐさま訪問演奏に加わることになっている。


 (ここまでで約10ページです。続きは本編で!)

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