第7話 足利尊氏伝 3、室町建国記

 足利は新田のことを「新田とんぼ」とバカにして、新田は足利のことを「足利案山子」とバカにしていた。

 藤夜叉の子は不知哉丸(いさやまる)といい、登子と高氏との間には千寿丸という子ができた。

 新田義貞が旗上げしたのはそんな時だった。執権北条氏、鎌倉幕府への反乱である。足利高氏は新田側につき、からめ手の大将となり戦った。

 新田義貞は鎌倉幕府を攻め滅ぼし、足利高氏は京都の六波羅探題を攻め滅ぼした。

 高氏の妻登子はただ待ちつづけた。

「暗君ではないか。儂はなんという暗君なのだ。登子も、藤夜叉も、二人とも幸せにできなかった」

 鎌倉幕府討伐において最も勇猛に戦い、最も多くの死者を出したのは赤松円心の一族だったが、後醍醐天皇からの恩賞は郷一個だった。

 高氏は、尊の字をもらい、以後、足利尊氏と名のった。

 もともと当時は五百個くらいしか郡はなかったので、倒幕に参加した何万騎のうち、恩賞をもらえるのは多くて五百人ということになる。

 幕府が倒れ、建武の親政が始まると、「二条河原の落書」のような乱れた世になった。

 さらに、内裏の禁術、陀茶尼の修法である立川流が流行った。色道三昧である。

 宰相になっていた足利尊氏は後醍醐天皇とうまくいかなくなり、朝敵として王軍新田義貞に攻められた。足利軍は破れ、東に西にと奔走した。

 尊氏は、大覚寺系である後醍醐天皇に対して、持明院系である光明天皇を擁立して戦うと、新田義貞を破り、勝利を収めた。

 後醍醐天皇は敗戦を悟るといった。

「そちは申したな。例え尊氏が破れましても、第二の尊氏、第三の尊氏が現れますぞと。そちもまた肝に銘じておくがよい。よしや儂がここでついえても、儂の意志を継ぐ第二の後醍醐、第三の後醍醐が必ず現れよう。」

 尊氏は後醍醐天皇に武家政権を再び認めさせ、室町幕府が成立した。

 後醍醐天皇の後を継いだ南朝の正統性を訴えるために「神皇正統記」が書かれた。そこには、「日本は神国であるから日嗣の御子は変わることがない。」と書いてある。北朝の子孫である明治天皇も、南朝こそが正統な天皇家であると認めている。

 天知る、地知る、我知る、汝知る。

 赤橋登子は、夫が日ノ本一の権力者となったのを知って、日本でいちばん幸せな女だった。


参考文献。

吉川栄治「私本太平記」全14巻。

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