第九話 死と踊る 後編



『校内の《半死人アンデッド》に登校初日からバレたッスか?』


 屋上の鬼龍院きりゅういんを待たせながら、俺は携帯で七姫ななきに連絡を取る。鬼龍院に正体が割れてしまっているのであれば、今更連絡を渋る意味もない。


『で、どうするつもりッスか』

「呼び出しには応じるつもりだ。野放しにしておくほうが厄介になる。だが、早嶋美奈津との接触はまだだ。守ることもできそうにない。警戒するようにお前の方から伝えて置いてくれ」

『……もしかしなくても、やり合うつもりなんスか?』

「向こうにその気がなければいいな、とは思っている」

『……』

「七姫?」

『……ああ、いえ。わかったッス。仕方ないので、ドジを踏んだ新人の日宮さんの後始末は

すぅぱぁエリートなこの新熊七姫ちゃんにお任せ下さいッスよ!日宮さんはせいぜい死なないように頑張って下さいッス。うっかりしてると24時間以内に二度死ぬという大偉業を達成しちゃうッスよ?』

「それは困るな」

『それじゃ、七姫もすぐ動くんで。お気をつけて』

「ああ」


 携帯のディスプレイから「ニイグマ」の文字が消える。


 さて。

 これで俺は鬼龍院の事だけに集中できる。それにしてもやけにあっけなかったな。命がけの闘いだというのに、七姫の態度は軽いものだった。具体的なアドバイス一つすらありはしない。止められることを期待していたわけではないが、彼女の言う通り俺はノウハウを知らない新人だ。放任がすぎる。

 ……所詮は使い捨ての駒ということだろうか。


『なあ。秀』


 携帯を仕舞うか仕舞わないかというところで、今まで静かにしていたエルマーから声がかかる。


『今更言い出すのも何だけどよ、オレは反対だよ。鬼龍院のあんちゃんの呼び出しに応じるのは。わかるだろ?戦闘は経験値の差があるし、そもそも待ち伏せだ。罠かもしれない。つまりその……坊っちゃんらしくもない。賢くないなって思うんだよ』

「賢くない……?」


 思ってもいない指摘に思わず面食らう。

 俺はいつも、感情よりも理性が勝ることが多い。そう考えれば、成るほど確かに賢くない。今、この瞬間をやり過ごす事は難しくない。加えて今後鬼龍院を回避することだって、簡単ではないが不可能ではないだろう。不必要に危険に立ち向かおうとしている。蛮勇の行為。普段なら、一も二もなく切り捨てた可能性だ。


「……そうかもな」

『だろ。だから聞きたいんだ。教えてくれよ。坊っちゃんはどうして・・・・立ち向かおうと決めたんだ?』


 どうして、か。

 改めて言葉にして問われると困る。リスクヘッジとして鬼龍院を叩いておくためといえば、論理的でわかりやすい。しかし今である必要性はなく、納得出来ない。最適解ではないと理解していながら、俺は逃げるつもりがない。

 何故か。《半死人》として与えられた役割、その使命感からか。一度死んでしまったことによる自分の命への危機感の麻痺か。拾った命によって過去を清算しようというのか。突然嵐のようにやってきて暴れ散らした鬼龍院への嫌悪と反発心か。


 考えれば考えるほどいろいろな理由が湧いてくる。それぞれに大小の多寡こそあれど、絶対に違う、という理由はない。無限に湧き上がる理由をどうにも、俺は言葉にできそうにない。


「わからない」


 ついに俺は、エルマーに形のある答えを返せなかった。質問に対する回答としては最悪だ。これじゃ意見が通らない。反対するエルマーこそが正しくて、俺は駄々をこねる子供と変わらない。

 愛想をつかしたエルマーが猛反対してくることを予期しながら、彼の顔色を伺い見る。

 するとそこにあったのは、呆れたような、脱力した笑顔(らしき犬の顔)だった。


『しょうがねぇな。いっちょやってやるか』

「え……。いや、エルマー。俺は今、お前の主張に負けたんだぞ」

『え、……あー。そういう見方も出来るかもな。でも坊っちゃん、引く気はねえだろ?』

「それはそうだが……」

『それに、さっきの坊っちゃんの答えはオレ的に100点だと思ったからさ』

「100点?どうして……」

『そうだなぁ。もし、さっき坊っちゃんがちゃんとした理由を言葉にしていたら・・・・・・・・・・・・・・・・・、オレは全力で反対してた。んで、多分坊っちゃんは納得して、最終的には引き下がったと思う。でも坊っちゃんは言葉に出来なかった。で、反対しても引き下がらねえんだろうなとも思う。賢くないから、100点』

「……どういうことだ?」

『いんや、わからないならそれでいいんだよ。オレの言葉に食い下がってでも行くって決めたんだろ?ならオレに出来ることは一つ。坊っちゃんの決めたことを全力で手助けする。幸いなことにそれが出来る力もあるわけだからな!』


 一人、いや一匹でしたり顔をするエルマー。俺にはどうにも本気でエルマーの論理がわからない。

 本当に賢くないのはエルマーのほうかもしれない。ともすれば、馬鹿かもしれない。


 まあ鬼龍院と正面衝突する上で、エルマーの助力は必要不可欠だ。協力してくれるというのならそれでいいだろう。


「じゃあ行くか。だいぶ待たせすぎた。逃げられたと判断して暴れまわられたらたまったものじゃない」

『おう!』


 俺は階段を確かめるように一歩ずつ登る。

 紅い目をした、鬼の居場所へと。



 *



―――ギイィィ、バァァァン


 相変わらずうるさい扉だな。待ち伏せを警戒して力強く開け放った鉄扉は、壁にぶつかった後も震えている。

 

 扉の先、飛び込んできた視界の中には鬼龍院の姿はない。ゆっくりと、扉の先へ。


「全く………、待ちくたびれたぜ。ビビってブルっちまってたかぁ、ぁあ!?」


 数歩進んだところで上から降りかかってきた声に目を向けると、影が立っていた。狙ったかのように逆光の中立つ男。ただ、以前見た時と異なるのは、その目が爛々と紅く輝いていること。存在感のある文様と陽光との対比で、影がうろのよう。


「万が一、一般の生徒や先公に見られてちゃぁお互いに困る。鍵を閉めてもらおうか」


 鬼龍院の指示を受けて、わざとらしく鍵をかけてやる。


「ほお。仲間がいるってわけじゃぁなさそうだな」


 何のためらいもなく鍵を閉めたことで、相手は俺が一人だとアタリをつけたらしい。なるほど。その判断をするために自分ではなく俺に鍵を閉めさせたわけか。だが半死人には、鍵くらいどうにでもなるだろう?


「俺の仲間が鉄扉を蹴破って突入してくる可能性は?」

「ないな」


 即答。


「何故?」

「ここが学校だからだ。学校。一見するとどこにでもある普通のただの施設のようだが、他の施設と見比べてみるとこれほど人口が密になる施設は珍しい。それに施設の利用者は未成熟な人間ばかり。俺らみたいな奇怪で異常な出来事が最も騒ぎになりやすい施設。まともな思考力があるやつなら、ここで事を荒立てることは避けてぇはずだ。鉄扉なんか蹴破ってみろよ。先公も生徒もすっ飛んでくるぜ?それに―――」


 影になったままで表情がわからないが、声には侮蔑の感情が滲み出ていた。


「クハハハハ!今!俺はお前に負けることはないと確信した!扉を蹴破る?馬鹿かお前。最初に、この四方を囲むフェンスを飛び越えてA,Sクラスがやってくる可能性を示唆しろよダボがァ!!!」


 鬼龍院は足で淵を蹴る。ドッ、とおおよそ人間の蹴りごときでは出ないような音が屋上に響いた。


「かわいそうだから教えてやんよ。俺は仲間をつれて待ち伏せしてたわけじゃねえ。俺もお前と一緒で独りきりだ。警戒しなくていいぜ?」


 相変わらず表情は見えない。が、乗ってやることにする。俺はゆっくりと息を吐き、緊張を解いた。


「―――ハンッ」


 俺が本当に緊張を解いたのに気がついたのか、面白くなさそうに再び淵を蹴った。


「さっきも言ったが……。ここは学校だ。特異な施設なんだよ。社会的に先公と生徒と呼ばれる奴以外の通常の人間は入れない。なのに何故お前みたいなのアンデッドが今更やってきた?なんの目的で?そこだけが解せねぇんだよ」


 奴は早嶋美奈津を殺しに来たんじゃないのか?今までの口ぶりを聞いていると、どうにも偶然居合わせたように聞こえる。死止め人がこの学校に通っている事を知らないかのようだ。


 なら、馬鹿正直に答えるべきではないな。


「学校に通う理由?何を言っているんだ?そんなこと決まっているだろう?学生だからだ」


 煽り文句に鬼龍院は黙り込む。

 ならばこちらから質問させてもらうか。


「俺にも教えてくれ。どこで気がついた?俺が半死人であると」


 眼を閉じ、大きく見開いて、死印を覚醒させながら問う。

 俺の威嚇には動じず、鬼龍院はなんでもなさそうに答えた。


「転げ落ちただろ、お前。なのに両足でしっかり着地しやがった。たった3メートルの高さしかないんだぜ、ここの高さ。滞空時間はおよそ0.8秒。そんな芸当ができるのは猫か俺らアンデッドくらいのもんだろ」


 つまり、俺とエルが3メートル越えというありえない跳躍高度から鬼龍院を半死人だと断定したのに対し、鬼龍院はたった3メートルという高さから転げ落ちたはずなのに見事着地してみせたことから半死人だと断定したわけか。


「随分と頭が回るんだな。唯の単細胞かと思っていた」

「他はてんで褒められたモンじゃないが……、度胸だけは認めてやんよぉ、ダボ!俺はお前と謎解きがしたくて呼んだわけじゃねぇ。このまま押し問答続けても始まんねぇんだよ!なぁおい………、覚悟はいいか?」


 やはりそうなるか。

 正直に言えば鬼龍院がこの学校にいる理由を問いただしたいところだ。だが、俺が真面目に答えなかった質問に、コイツだけが正直に答えるわけもなし。ならやることは一つだ。

戦闘は、避けられない。


「とっくに出来てる」

「……いい返事だ」


 ズザッ―――と音が聞こえた時には、視界は白一色に染まる。


 そうか、太陽を後ろに話しているのはてっきり表情を悟らせない為だと思い込んでいたが、陽の光を遮る自分が動いた時に、相手の視界を奪うため………。眩む目をこすり強引に視界を確保しようと試みるが、鬼龍院の姿は確認できない。


 本当に頭が回る。何もかもが計算ずくってわけだ。経験の違いとも言える。


 奪われた視界。

 どう対処すべきか。

 相手は緻密に計算された戦いをする。なら、意表をついて崩すべきか?


 半死人の戦いにおいて勝敗を左右するのは何だ。

 経験。技術。それもあるだろう。

 だが、半死人にはもっと重要な特性がある。

 『等級ランク』。『能力アビリティ』。そして『死印』。


 想定される戦いは基本、等級差による力技。この差を補うのが経験と技術。戦況をひっくり返す要素として、能力と死印の二つと考えられる。


 ……駄目だ。相手の強さがわからないのはもとより、俺は俺自身の強さを知らない。今更になって、無責任に俺を放り出した七姫への恨みが湧き上がってきた。


 様子見しかない。


 何が来るかはわからないがこの場に留まるのは危険だ。右足に力を込め、左前方へ跳んで避ける。瞬間、先程まで俺のいた場所を震源に屋上が震えた。

 遅れて轟音が鳴り響く。取り戻した視界は、凹み、割れた屋上の真ん中に佇む一人の男を映した。


大事おおごとにしたくないんじゃなかったか!?」


 俺の泣き言には構わず、鬼龍院は微塵のよどみもない動きで幽鬼のようにゆらりと立ち上がるとそのまま特攻してきた。

 風切り音を纏う拳の連打。見切ることは早々に諦め、後ろに回避する。


 攻撃することに戸惑いがない。様子見をするつもりがない。

 経験ゆえに様子見を必要としないのか?それとも戦術か?後者だとしたら、その目的は俺に余裕を持たせないことになる。俺が奴を観察することを歓迎していないようだ。

 

 姑息とも取れる手練手管の数。発言こそ俺を見下し威圧しているが、異常とも言える緻密な計算は臆病さを内包しているとも取れる。

 奴は言葉ほど驕り高ぶってはいない。あまりにも地盤を磐石にしすぎている。

 ……連打に付け入る隙はないが、俺には覆す手札があるのだ。磐石な地盤ごとひっくり返す一撃。


 その前に、最後の仕上げ。俺と鬼龍院コイツの等級差を確認する。

 胸の前で腕を組み、わざと・・・連打を受け損なった。


「ガ……ッ!」

 

 たった一撃。両腕に叩きつけられた拳は、俺の背中をフェンスに打ち付けた。

 両足を踏ん張り、受け止め切るつもりだったのだが、随分と簡単に吹き飛ばされてしまったな。フェンスに背中を預け、崩れ落ちる。


 始終無言を貫いていた鬼龍院だったが、今の結果に面食らったようで呆然と口を開いた。


「………お前、相当に等級が低いな」


 俺は強打を胸に受け、まともに呼吸できない。平衡感覚も失われている。くらむ視界の中、手探りでフェンスに手をかけ、腕力だけで立ち上がる。


「おいおい、冗談だろ?こんなに弱いのに、バカ正直に一人で来たってのかよ?クフフ、アハハハハハ!引導でも渡してもらいに来たってのかァ?そうでもなきゃ、おろかで、救いようのねえ大馬鹿野郎ってことになっちまうなァ!!」


 顔を覆い笑い転げる鬼龍院。だがいい。もう十分だ。

 俺は最後に確認したかっただけだ。俺のこれ・・が、本当に《能力》であるのか。


 荒い息のまま、俺は一つだけ訂正する。


「一人じゃ……ない。」

「ア?」

「一人と……一匹……だっ!エル!!」

『おう!』


 鬼龍院はさぞ驚いたことだろう。

 見違えるような速度で迫る、俺の姿に。


 背面にめいっぱい伸ばした右腕を大振りで鬼龍院に叩きつける。音もなく吹き飛び、無様に横転する鬼龍院。続く攻撃を警戒してか、すぐさま飛び起きる。

 ただ、俺に連撃は難しい。まだうまく使えないのだ。

 佇む俺を見、次いで自身の身体を確認する。大した傷ではなさそうだが、ブレザーが肩口から裂け、血が流れていた。


「何を………?」


 鬼龍院の顔に浮かぶのは、驚愕、困惑、そして疑念。

 計算が崩された気分はどうだ?


「クッ……はぁ……。……そんなものか?鬼龍院大輔」

「くっ………。舐め……るなぁぁ!!」


 愚直なまでにまっすぐ突っ込んでくる。人間を超えた凄まじい速度だ。明らかに鬼龍院の方が等級が高い。朝の跳躍能力から推測される等級は、一般の3倍以上のC~S。細かく絞るなら、計算の裏に見える臆病さから、最大ランクではないB、Aあたりが妥当だろうか。


 俺の《能力》ならどうにか誤魔化しが効く相手らしい。


「エルマー、行けるか」

『俺は全然問題ないぜ』

「よし……行くぞ」


 叩きつけた反動で霧散していたエルマーは俺の呼び声に反応すると、形を取り戻し、再び俺の右腕へ。


 鬼龍院の速度に俺は回避距離で対応する。


 一回いっかいエルマーが離れてしまうようでは常に攻勢に出ることはできない。だからこそ回避に専念し、確実なタイミングで右腕を振るえばいい。相手は連撃に専念しているので一歩自体の踏切はそう大きく出てこない。一撃に最低限の威力は確保できるように地に足をつけておきたいのだろう。


 奴の立場で考えると、鬼龍院の一撃はその等級差から、どんなに弱くても致命的と思われるためこれは悪手だ。ただ、鬼龍院は俺と自身の等級差を図り兼ねているのだろう。俺にとっては好都合だ。大きなステップで回避を続けていれば、能力を使わずに攻撃を避け続けられる。


 ただ、俺は俺で少し焦っていた。

 フェンス際から鬼龍院へ肉薄した際、俺は低位霊を纏った足で踏み切った。西洋甲冑の膝下装備、すね当てから靴までを模したそれは、踏切と同時にエルマー同様霧散した。ただし、高位霊であるエルマーと違い、元来自身で動くことの出来ない低位霊は、霧散したまま戻らない。声を掛ければ復帰するエルマーとは使い勝手が違ったのだ。

 鬼龍院から距離を離し、ちらりと霧散した霊たちを見やる。


 あれは大丈夫なのだろうか。霧状のままで、狐火にすら戻る気配はない。霊として死んでしまったのか。それとも再び回収可能なのか。


 残る低位霊は3体。すなわち1回纏うのが限界だ。

 誤算だった。エルマーも霧散するとはいえ、数秒経たずに復帰できる為に、インターバルが発生することは了承済みだったが、まさか低位霊は消費型とは。

 こんなことなら、もっと低位霊を宿しておくべきだった。


「なんだぁ!こんっ………どはぁ……!逃げてばっか………かよっっ!」


 連打。その中に鬼龍院は言葉を紡ぐ。


「押し問答は無意味だぞ?鬼龍院」


 攻撃は少しずつ激情を滲ませ始めた。痺れを切らし、相当に冷静さを欠いてきている。

 仕掛けるならそろそろか……。


「ッソ………がぁぁぁあ!!」


 ちょこまかと跳ね回る俺に合わせ、鬼龍院も一歩が大きくなっている。技が精細を欠くに比例して、隙も随分大きく、見えみえだ。咆哮とともに放たれた大味の左ストレートを避けると、俺も一足飛びにバックステップした。


 距離は目算5メートル。

 着地。と同時にエルマーを纏う右手を地にめり込ませる。


「エル!仕掛ける。すぐに右足に追いついてくれ」

「……!わかった!」


両足とエルマーを纏う右手で踏み切って跳躍する。前方倒立回転の要領で空中で身体が回るが、右手一本、肘を曲げた踏切であったためにちょうど両足が鬼龍院へと向く。空中で仰向けの体勢になる。踏切に使わなかった左手で胸元の霊たちを左足まで降ろし、纏う。

 強引に身をひねりながら、絶対の攻撃を見舞うためにそこから大きく両足を開く。右足のつま先と左足のかかとで挟み打つ蹴り。体全体が獣の顎となって鬼龍院に喰いかかる。



「何っ!?」

「…………なめんじゃねぇぞ、ダボが」



 ―――しかし鬼龍院は両肘を立て、俺の二撃の一撃・・・・・を受け止めた。


 受け止め、やがった。


『秀!』


 エルは間に合わなかったか。纏った左足を受け止めた鬼龍院の右腕は確実に骨まで持っていったが、左腕の被害がそこまでじゃない。挟み撃ちとして成立しなかった……!


 鬼龍院は右足を蹴り上げる。全体重を受け止められた状態の俺は避けるすべを持たず、直撃。大型車両に直撃されたかのような衝撃が背中を打ち付ける。


「ごばっ………ッ!」


 体中を走り抜けた衝撃は、口から多量の血液とともに外へ流れゆく。が、俺の体は許されず、紅い残光を散らしながら更に、更に高くへ。


『秀!!』


 かろうじて身体を取り戻していたエルマーは、空中で俺を受け止める。ブレザーの襟首を咥えられたまま、左手で口元を拭った。

 随分高く打ち上げられたようで、鬼龍院は、口元を拭う俺の左手の甲よりも小さく見えた。そのまま鬼龍院を確認すると、肩を荒げ、右腕をだらりと垂れ下げたまま、鋭い眼光でこちらを睨んでいた。

 左右合わせて4つの紅い文様は、未だ爛々と光を放っている。


 ………打てて、一発。なら迎え撃とうじゃないか。


「エル。纏うぞ」

『お、おい、秀!?この高さからじゃ危険だ!それにあいつはまだやる気―――』

「わかってる!!!」


 服を咥えたまま愚図るエルマーに怒鳴り返す。決定事項なんだ。俺はあいつにあえて迎え撃たれようとしている。そうしたいと思っている。


「いいから………行くぞ」

『ああもう!?お前がやると決めたなら、オレは手助けしてやんなきゃだったな!』


 右手に纏う、三度目の獣の顎。俺の体は支えるものがなくなり、落下を始める。真下に待つ―――、紅い目をした鬼のもとへと。


「来いよ、ダボがぁぁぁぁぁあああ!!!」


 俺の言葉が聞こえていたのか、エルマーが形を失うとともに鬼龍院も深く腰を落とした。血を滴らせる利き腕はもう上がらないのだろうが、意志の宿るその紅い眼はいっときも離れることなく俺を掴んでいる。俺が加速するに連れて、深く、深く身を落とす。


 

 俺に鬼の咆哮は届かなかった。そんなものは無いに等しかった。ただただ負けじと俺も紅い眼で睨みつけていた。その身に掛かる圧も、耳に打ち付ける風の音も知覚していなかった。目の前。刻々と近づく鬼。それを捉える視覚の情報だけが俺を支配していた。


 いつしか俺は、空中で抵抗の違いから、地面に水平に、大の字に落ちていた。

 先の一撃で霧散していた低位霊。その最も高い位置にあった集団にたどり着くと、蹴り付け、上下反転する。脚力によって加算された速度。だが、俺と鬼龍院は互いに見失うことなく、相手の体を捕捉しつづけていた。



「はああああああぁぁぁあああぁぁぁぁあああ!」

「うぉおおぉぉぉおおぉおぉぉおおおぉぉおお!」



 気が付けば咆吼していた。あと2秒。それだけあれば決着がついていたことだろう。



―――しかし、いつまでたってもその瞬間が訪れることはなかった。

 俺たちの戦いの場を壊したのは、勢いよく屋上の鉄扉を開け放つ騒音と、場に似合わなく冷静な、凛とした一声だった。



「――やめなさい、大輔」


 鬼は驚いたように飛びのいた。そのまま俺は右腕ごと墜落する。轟音。屋上を盛大に破壊し、砂塵が立ち込める。


「ぐ………」

『大丈夫か秀……って、多分オレのほうがダメージでかいけどな………』


 俺は屋上に右腕を体の下敷きにしうつぶせの状態になったまま、しばらく動けそうになかった。

 かろうじて顔を上げると、そこに映っていたのは薄れゆく砂塵の中、軽くこちらを睨んでいる鬼龍院の姿と……、鬼龍院を背後に控えさせ、黒髪をたなびかせて佇む、端麗な顔の少女の姿だった。



「初めまして、少年君。私が死止め人デスキーパー早嶋はやしま美奈津みなつよ」



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