第6話 魔王の反撃

 シュッ、シュッ


 と、手に持つ得物が刹那に空を切る。

 それは、考えるよりも速く己の脚が大地を蹴り、その反動エネルギーが綺麗に軸線に載せられ、それを伝い右手の先端へと伝わせられた末の動きであった。

 そうすれば、朋子の右手にある聖剣肥後の守は、驚くべき速さと切れ味を持って、奴の身体へと到達したのだ。

 そして一歩一歩、少しずつではあったが、確実に奴へダメージを蓄積して行く動きでもあった。

 朋子の精神はその行為を繰り返すたび、五感が研ぎ澄まされた。

 それは最も勇ましき者にでもなったかのような高揚。

 それは百戦錬磨の戦士にでもなったかのような感覚。

 そして彼女の精神肉体は、今まで経験したことの無い興奮状態となり、不思議と口角が上がっていた。

 ああ! すごい! 私、すごい! もっと速く! もっと深く! …たのしい!

「ハイになってじゃねえよ! 戦闘狂バーサーカーか、お前は!」

「私は、勇者です!」

 恐々とした表情で叫ぶ直人。

 嬉々として表情で答える朋子。

 一見してそれは、少なくともただの日本人であれば、ただの高校生カップルがじゃれ合ってるように見えなくもない光景だった。

 しかし実際、殺し殺されの死闘が繰り拡げられていたのだ。

 何の変哲もない公立高校の体育館裏にて、学校の昼休み中に、男女高校生同士で。

 彼らは前世からの因縁。異世界地球テラの魔王と勇者の転生者だったのだ。

 まだ始まって十数分の死闘だったが、二人とも既に肩で息をしている。

 だが勇者の方は興奮のあまりそれに気付いていない。

 一方で、魔王の転生者は意外に反射神経が良いのか、勇者状態となったの朋子の攻撃にも、寸で反応しギリギリでかわしている。

 だが、じりじりと追い詰められようとしていた。

「ふふふ、もう終わりですの。魔王っ!」

「だからキャラぶれし過ぎだっての!」

 傍目、勇者と言うより狂者の朋子に、虚勢でなんとかツッコむ直人。

 彼は、結局は朋子が素人剣術使いのためなのか、なんとか致命傷は避けられていた。

 だが情勢は芳しくなく、息は既に上がり、学ランの上着のいたるところに斬り傷がつき、深いところ何か所から少し出血もしていた。

 …本当になんだこの状況は? 何でただの一調布市民の俺が殺されなきゃいけない!

 …ここは日本だぞ。調布だぞ。何の変哲もない公立高校の体育館の裏だぞ!

 直人は内心でそう吠え、辛うじて武器として扱えそうな、先ほどすっぽぶつけられた箒をなんとか拾い、反撃を試みようとする。

「お前、調子に乗るのもいい加減にしろよ! 終いにはブチ切れ」

「あはっ」


 スパンッ


 と、箒の柄が、まるで茹でたアスパラを包丁でサクッと行くように、あっさりと聖剣肥後の守に叩き斬られてしまう。

 その見事な聖剣の試し斬りに、青冷めてあっけにとられてしまう魔王の転生者。

 ……それ、実際そこまで切れ味よくないだろ!

 シャレにならない物理的なボケに、内心で全力突っ込みをしながら、また遮二無二に逃げ回る。

 今のこの状況では、この場から走って逃げ去る、という選択肢もなくはなかったが、それはかなり難儀と言わざるえなかった。

 その理由は、この体育館裏がちょうど袋小路なっており、退路は一方向しかないこと。

 そして今の勇者ならぬ狂者状態の朋子に直人が迂闊うかつに背を見せれば、それこそスプラッタばりのめった刺しになりかねないからだった。

 せめて誰かがこの体育館裏に姿を見せれば、本来上がり症の引っ込み思案の朋子が、正気を取り戻す可能性もあったが、何故かその兆しは見えなかった。

 せめて誰か覗きに来いよ! この際、明人でも委員長でも誰でもいいからっ!と他人にでも藁にでも助けを請いたくなる魔王の転生者。

 そしてとうとう、袋小路奥に追い詰められてしまう。完全に退路を断たれて。

「はぁ、はぁ。もう……逃げ場はありません。潔く覚悟してください。魔王ギガソルド」

「だから…はぁ、はぁ、だからいい加減頭冷やせって! 今の俺を、罪もない一般市民を殺してなんになるんだよ。…ただの殺人犯じゃねえか! 刑務所行きだぞ! 家族や学校にも迷惑掛ける気か!? 目を覚ませって!」

「今の私は………異世界地球テラの勇者、エルフィン・エルリードです。はぁ、はぁ、…あなたを殺せば、その勇者の悲願は達成されるんです。…後のことなんてどうでもいいんです」

 ガチで狂っている、と直人は思う。

 …ダメだ。完全に馬の耳に念仏だ! 勇者に魔王の説得だ! 聞く耳もたねぇ! 

 前世で勇者に絶望を与えた魔王の転生者は、現世では皮肉にも、逆に勇者に絶望を与えられてしまっていた。

「どうしたんですか? …まさか走馬灯でも巡り始めたんですか? それ、私も前世の最期に見ましたよ。あれって本当に見るんですね……。そうだ。転生者の見る走馬灯って、前世のなんですかね? それとも現世? もしかして両方? …ふふふ、教えてください。勇者の私に、魔王の最期を聴かせて下さい」

 そう言って、身も凍りそうなほど冷たく微笑む、勇者の転生者こと久住朋子。

「……だから、キャラ変わりすぎだっての!」

 自分のガクガクの精神をなんとか保全するため、意地でもツッコむ直人。

「さっきからごちゃごちゃうるさいです。…キャラってなんですか? キャラメルのことですか? それ美味しいんですか?」

 そう言って、うふふ、と笑う朋子。

「お前、それ分かって言ってるだろ」

 直人は、色んな意味で背筋に悪寒を走らせる。

「…すいません。私、冗談得意じゃないんです。でもそんなことはもういいです。…前世からの繋がり、…輪廻って言うんですかね? それを全て断ち切ります。もう終わりです。…今のあなたはただの人間ですから、もう《転生の秘儀》とか使えませんよね?」

「…………こっちには魔法なんて存在しないからな」

「ですよね。………ああ、相打ち狙おうとか考えないで下さい。無駄ですから。今のあなたに、勝ち目はありませんから」

 そう言って、聖剣肥後の守を横に構える勇者の転生者。

 どうやら直人の首の頸動脈を狙う算段の様であった。

「じゃあ、潔く死んでください」

 淡々と呟き、いよいよ止めを刺そうと大地を踏みしめる。

 いよいよ気が遠くなってくる直人。

 ……ああ、なんでこんなことに。

 そう思った瞬間、朋子がとある言葉を呟いた。

「虫ケラみたいに」

「!? ………昆虫バカにしてんじゃねえぞ! このやろう!」

 勇者の言葉に魔王の転生者は、一転して一帯に響くような渾身の怒号を放った。

 彼女は、目の前の人物をまさに虫ケラの様に追い詰めていた筈であるのに、唐突に怒気を放ったことに目を白黒させた。

 しかしすぐに憤然と眉を結んで魔王に対し警戒を強める。

 魔王ギガソルドの転生者、蘇我直人は血の気が引き切った頭に、再度血を上らせた。

 彼女が言った“虫ケラ”という嘲り。

 これは彼にとって、実は禁句だったのだ。

 前世世界、異世界地球テラにも“虫ケラ”に相当する言葉あり、こちらの地球と同じく嘲りの比喩の代名詞だった。

 魔王ギガソルドの種族である甲虫種も、人間だけではなく他の魔族すらからも“虫ケラ”と蔑まれていたため、それが魔王が世界滅亡を目論むようになった遠因にもあたる。

 そして前世からの名残で、直人自身も虫を馬鹿にすることが許せない、大の昆虫好きであったのだ。

「いいか! 異世界問わずこっちの世界でも、昔から人間は虫に」

「そんな話は、今はどうでもいいんです。ビックリさせないで下さい」

「なんだと?」

「この期に及んでまだ足掻くつもりですか? …黒甲虫くろこうちゅう野郎」

「…くろ?」

 朋子の蔑んだつもりの末語に、一瞬、何のことを言ったのか分からず、眉をひそめる直人。

 が、すぐに思い至る。

 黒甲虫野郎って、…確か地球で言えば………あ。

 何かに気づき、ふと腰ポケットを触る。中には何かもぞもぞする感触があった。

「……」

 あまりにも切羽詰った状況だったため、ずっとの事を失念していた。

 何度かすっころんで尻餅をついてはいたが、この窮地を脱するかも知れない奥の手を、

 いや“転生者の力”を持っていた事を思い出す。

 朋子を見やる直人。

「……」

「……何か、狙っているようですね。無駄ですよ?」

 そう言って彼女は睨視げいしを強め、さらに体勢を低くし、いつでも飛びかかれるようにする。

「……」

 直人は気付く。

 例えキャラが変わり、剣の達人の様に動いても、彼女はとても異世界の勇者には思えない。

 異邦人や宇宙人や超人、ましてや人殺しではなく、

 ただの現代人で、ただの日本人で、ただの高校生でしかない。

 何度見ても、どう考えても、一年一組のクラスメート、久住朋子は普通の女の子ではないか。

 ……この手は効果絶大では?

 そう彼は思い至った。そして吹っ切れた。

 …目に物見せてやる!

 そう唸った直人は、突然邪悪な笑みを湛えだし、腰ポケットの中身を掴んで両腕をクロスさせる。

「…まさか貴様、この程度で我を追い詰めたつもりでおらんだろうな!」

「な、何?」

 突然の直人の変化に戸惑い、怪訝けげんに眉をひそめる勇者の転生者。

「勇者エルフィンよ! 忘れておろう。我が何者であるかを!」

「………まだこの期に及んで戯言か! 魔王よ!」

「我は、………甲虫種の王であるぞ!」

 そう叫んだ魔王ギガソルドは、クロスさせていた左手を天に向け高々と掲げ、邪悪な波動を放ち出した。

 瞬間、その仕草に身震いを感じた勇者の転生者。一体、何をするつもり? と冷や汗を流す。

 魔王ギガソルドは、勇者の動きを封じるため、地獄で響いているような、それっぽい声色で召喚魔法を唱え始めた。

「悠久の時を生けし、矮小なる魂よ」

 ざわりと、嫌な風が勇者の頬を霞める。

「漆黒の肌を持ちし邪悪なる魂よ」

 ぞっくとした、嫌なものが勇者の背筋に走る。

 危険を感じた勇者は、魔王に対して無意識に距離を開く。ただし身構えたまま。

 勇者はお約束の為、呪文詠唱中は攻撃してこない。…………やっぱアホだ、こいつ。

 そう思う魔王ギガソルドではあったが、顔には出さずに詠唱を続ける。

「我が言に従い群れを為せ。我に仇なす怨敵に心胆おののく恐怖を与よ!」

 カサカサという、まさに虫唾の走る音が勇者の脳裏に響き、風がざわついた。

「……貴様、一体何を!?」

 何とも言えない身の毛のよだつ気を感じた勇者。ついで本能が警鐘を鳴らす。

 ここにいては不味い、逃げなければ不味い、と。

 だが引くには引けない。ただ鋭い視線だけを魔王にぶつける。後にこの時に引かなかったことを、後悔する羽目なるとは露知らず。

「くくくくく、恐れ慄け小娘がぁ! 出でよ! 我が眷族、黒甲虫族よ!」

 その時、魔王の左手がついに放たれ、

 人類を恐怖のどん底に陥れる、魔の眷族が召喚された。

「…!?!?!??!?!」

 その瞬間、勇者は、背筋に巨大な怖気おぞけを走らせる。全身全霊もが凍りつき、そして聖剣をするりとその手から落としてしまう。

 その姿を現した魔の眷属とは、

 魔王の手のひらにすっぽり収まるほどの矮小なサイズであり、

 黒光りする体躯に三対の毛の生えた脚を生やし、

 小さい頭部から伸び出た異様に長い二本の触角を持ち、

 全世界で一兆匹を超える数が存在し、日本には二百億を超える数が棲息しているとされ、

 古生代石炭紀から繁栄し生きた化石と呼ばれるほどに、ある種進化の完成型の体躯を持つ。

 そして一部の好事家こうずかを除き、人類が一目見るだけで恐怖に慄くであろう、その不愉快な姿。

 異世界地球では黒甲虫と呼ばれていた生き物。

 学名 Periplaneta fuliginosa Serville

 いわゆる不快害虫の代表格。

 そう、魔王ギガソルドの左手のひらに乗っていたのは、

 魔王に尻餅で潰されかけ、ピクピクと半死半生の状態にある、

 クロゴキブリだった。

「くぁwせdrftgyふじこlp;!?!?!」

 その姿に言葉にならないほど取乱す、勇者こと久住朋子。

 ただの女子高生に過ぎない彼女は、この存在に激しく恐怖する。

「……くっくっく、恐怖のあまり言葉にもならんか」

 そう言ってドヤ顔を決める魔王の転生者。

 魔王ギガソルド自身は、甲虫種とは言ってもカミキリムシに近いものが魔物化したものであった。だが、蟲の王であった彼の王は、異世界地球テラのあらゆる昆虫を使役することが出来たのだ。

 そしてその力、“蟲使い”の力を蘇我直人は受け継いでいた。

「なん、ななん、何を素手で触ってるですか!?!?」

 目に見えて青ざめ、直人がGを平然と素手で触っている事にドン引く朋子。

「何って、見れば分かるだろ。魔の眷族、クロゴキブ」

「ひいい! みなまで言うなっ!?」

 恐慌状態に陥り、魔の眷属を見たくも聞きたくもないため、自ら目を逸らし耳を抑える勇者の転生者。

「どうした勇者よ。かかって来んのか?」

 そう言って、魔王が一歩近づくと、

「……こ、来ないで!」

 と彼女は一歩後ずさる。

 勇者の転生者は、魔王の眷属の出現に、今までの勢いを完全に消失させ、二人の力関係は逆転してしまっていた。

「……くっくっく、怖気づいたか勇者よ。この程度でしり込みするとは」

「く、うるさい! よくもこんな卑怯な、ばっちい手を!」

「刃物で襲ってきたお前が言うんじゃねえよ!」

「……う、あ」

「俺は怒ってんだからな! もう容赦しねえし、それに正当防衛だかんな! 正・当・防・衛だかんな!」

 そう言って魔王は、その左手を勇者に差し向け、そして狙いを定めた。

 その白地あからさまな仕草に、さらに恐慌状態に陥る勇者の転生者。

「ままままま、まさか!?」

「くっくっく、……我の逆鱗に触れたことを悔いるがいい。…食らえ! 地上界の食物という食物を食らいつくした恐怖の嵐を! …我が眷族どもよ、蹂躙せい! ≪飛蝗暴食ロカスタエ・グラ≫!」

 魔王ギガソルトは地上界侵攻の際に、その能力で大量の昆虫をも使役した。

 そして、その中で最も恐れられた使役方法が、飛ぶ虫のおう、と書く昆虫が災“蝗害こうがい”と呼ばれるものである。

 異世界に限らず地球世界にても、古代より恐れられた飛蝗による圧倒的暴食の自然災害。

 空を覆わんばかりの、記録に拠れば数百億匹を超える飛蝗の軍団が全長数キロの群れを為して人間の穀倉地帯を襲い、全てを食らい尽くすのである。

 魔王ギガソルドは、さらに魔力で凶暴化させた飛蝗や他の昆虫も使ったため、異世界地球テラはまさに地獄に見せられたのだった。

 ちなみに飛蝗とはバッタと読む。

 Gではない。臆病なGは、ただ逃げ回るだけである。

「……」

「……」

 体育館裏に特に何も起こらないので、呆然と立ち尽くす魔王と勇者の転生者。

 ただ魔王が叫んだだけで、

 彼の左手の上の、飛蝗ではないGはピクリとも動かなかった。

 ……え? 死んでる?

「……う、うああああー! 覚悟ぉ!?」

「ちょ、ちょい待ちぃ!?」

 恐怖のあまりパニック状態になった朋子は、直人に止めを刺すため、聖剣を落としていることも気付かずに飛びかった。

 が、その瞬間だった、


 バサッ


 バタバタバタバタバタ


 ピトッ


 直人の左手から満身創痍の躯体で、数十㎝ほど飛び上がったそれは、近づいて来た朋子の顔の一番止まり易い部分、つまり彼女の鼻先に止まる。

 そして朋子はその複眼と目を合わせた。

「?!?!???!」

 全身が泡立ち、一斉に血の気が失せる勇者の転生者。恐怖のあまり魂までもが、一瞬硬直すると、

「ひぎゃあああああああああああああああああーーーー!??」

 と、天地を貫かんばかりの大きな悲鳴を上げ、尻尾を巻いて体育館裏を退散していった。

「……」

 一人残された魔王の転生者。

 彼は蟲使いの能力を行使し、とうとう勇者の転生者を撃退することに成功する。

「………悪いのはお前の方だからな」

 そう呟いてパンパンと埃を払う直人。そして地面を見やって、朋子が素手で払っていったそいつを見つける。既に微動だにしていなかった。

「………すまん。成仏せい」と合掌する。

 …直人の“蟲使い”の力。

 ただそれは前世に比べかなり限られていた。

 具体的には、自身の半径30m以内にいる知能レベルが多少高い昆虫を、ある程度自分の思い通りに使役することが可能、とする程度であった。

 例えば蚊や蝿、蟻程度の知能レベルでは全く言うことを聞いてくれず、蝶や蛾など単独性が高い昆虫では、少ししか使役できず、やっと蜂や飛蝗レベルくらいの高知能社会性昆虫で結構使役できたが、いかんせん調布には、深大寺や仙川付近を覗き殆んど森や畑がないため、それらはあまりお目にかかることがなかった。

 したがって、魔王の転生者たる直人が最も使役できたのは、

 街中ということで餌も多く、かなりの数が棲息し、

 知能も昆虫としてはかなり高い、

 Gくらいであった。

 ………我ながら、正直使い道が全くもって分からない能力だ。

 直人は暗にそう思うと、勇者撃退の功労者であるそいつを素手で拾い、無造作に生垣へと放り捨てた。

 それは力を借りておいて無慈悲にも見える行為ではあったが、彼らに弔うという概念はない。そのうち、他の生き物の餌になることで自然に返すだけである。

 ……と、直人は何を思ったか、ついでに落ちていた肥後の守も生垣のさらに奥へ投げ捨てる。

「……」

 取りあえず窮地を脱出した魔王の転生者だったが、午後の授業の事が先に心配になる。上着がボロボロで、見れば所々にスパッと裂け、一部は肌が見えて血が滲んでいる。

 この状態では皆に何があったと、勘ぐられるかも知れない。面倒だな…。

 それに……母さんが、折角アイロン掛けとかで綺麗に仕立ててくれたのにな。

 そう、なんとなく物悲しくなる直人。

 だがふと気づくこともあった。

 あの勇者の転生者の攻撃では、なぜか結局深手を負っていなかったのだ。

 それはこの学ランが意外と頑丈だったせいもあろうが、朋子本人がそこまで踏み込んで斬りつけていなかったように思えたのだ。

 もし本気で自分を殺す気あったのならば、四の五の言わず、露出している肌の部分、首の頸動脈などを狙えばよかった筈。いや、冗談ではないが。

「………」

 直人には、勇者の転生者である朋子が、一体何を考えているのか、さっぱり分からなかった。

 しかし、だがしかし、なぜか今ような仕打ちを受けたのに、彼女を嫌いになれない。嫌いになれなかった。

 なんでか? 

 なんでだ?

 ………………なんか、気にな

「そーいうんじゃ、ねえし!」

 と、そう体育館裏で木霊させ独り頭を抱える直人。

「……いいや、家近いし。上着取りに一旦帰ろう」

 そうひとりごちて、彼は体育館裏を後にした。

 それから直人は裏門をこっそり抜け出して家に帰り、簡単に傷の手当をした後、また新しい上着を羽織りなんでもない風を装って学校に戻ることに成功する。結局、遅刻する羽目になったのではあるが。

 そして、やはり午前中の朋子の思わせぶりな行動のせいで、クラスメートの何人かからは、どうなった、と尋ねられるが、直人はそれを適当にあしらい誤魔かした。余計な面倒事は避けたい、という建前で。

 ただ、一つ直人に気がかりなことが増えていた。

 それは、その日の午後の授業に、結局、朋子が戻って来なかったことであった。

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