燻る煙に手向けの花

天上ひばり

燻る煙に手向けの花

「生きているものはいつか、死ぬ。その事実が僕はとても愛おしいと思う。」

少年は俯いて、摘んだ花の匂いを吸い込んだ。

「暇潰し程度で構わないから、僕の話を聞いてくれないかな。僕がこの場所に閉じ込められている理由について。」

彼は胸の前でくるくると花の茎を回し、次に紡ぐ言葉を考えている。そして彼は何かに思い至り、口を開く。

「かぐや姫って知ってる?君たちの世界で割と有名なお伽噺だと思うんだけれど。……それとも君たちはもう、お伽噺とかそういうの必要としない子供たちなのかな。まあいいや、そのかぐや姫でお姫様は罪を犯して、罰として君たちの住む星に飛ばされてしまうんだ。言うなれば僕は彼女と同じ。僕も罪を犯したんだ。」

彼は手にした花を川の底へ静かに放った。

「彼女の罪状を僕は知らないけれど、違う星に飛ばされちゃうくらいだから結構ひどいことやったんじゃないかな。僕はそう睨んでる。でも、書物に描かれていないことは僕らにはわからないよね。もしかしたら作者にだってわかっていなかったのかもしれない。その、描かれていない部分は、もしかしたら物語だけが知っていて、お姫様だけがわかっていたのかもしれない。でも、それでいいと僕は思う。描かれる物語があるように、光の当たらない、目に見えない物語だって存在する。空白は僕らの永遠の謎で、永遠の自由だ。そう僕は思う。」

そう話す彼はひどく饒舌だった。そこまで話すと彼は我に返り、こちらに尋ねる。

「あれ?なんの話をしてたっけ。…僕は僕の罪と罰の話をしたいんだ。なんで物語観の話になったんだろう。まあいいや。とにかく、僕もまあ昔に神様の怒りを買っちゃって、彼岸と此岸の狭間に閉じ込められちゃったってわけ。」

そこで彼はにやりと笑って見せた。得意げな表情でこちらを覗き込む。

「今、君は疑問に思っていることがある。当ててみせよっか?…一つは、僕が一体どうして神様の怒りを買ったのか。そして、彼岸と此岸の狭間に迷い込んだ君は何者なのか。」

彼は傍らの椅子に座り、足を組んでその疑問を考察した。

「後者に関しては、僕にもよくわからない。稀にここに迷いこむ子たちはいるから、まあその類かなと思って僕は気にしてない。そしてそういう子たちはいつも来るべき時が来たら、あるべき場所に還るから、もうどこにも帰れないかもしれないなんて思わなくていいし、ひょっとしたら僕に魂ぬかれちゃうかもとか気にしなくていいよ。僕にそんな権限はないからね。神様に怒られちゃったからさ。」

神様にね、と彼は楽しそうに復唱した。改まって椅子から立ち上がり、少年は続ける。

「端的に僕の罪状を述べると、僕は神様の大事な大事な黒い山羊を殺してしまったんだ。その山羊の名前はアビって言うんだ。彼はすごくかわいくてね、目はひとつしかないんだけど、それでもくりくりしてて可愛かった。」

彼は両方の手で丸を作り、その山羊がどれくらいの大きさだったか話してくれた。そして彼はその山羊のことを思い出す。

「僕は、彼は僕とおんなじだと思ってたんだ。ふろーふし。絶対死なないと思ってた。だって彼は神様の所有物だったからさ。それくらい万能だって思うじゃんか。」

口をとがらせ、不平を漏らした。しかし彼の表情はくるくると変わって、今度は寂しそうな眼をしていた。

「でも彼は、ある朝目が覚めると冷たくなって動かなくなってた。微かに残る温さが、さっきまでちゃんと生きてたんだなって、思わせた。アビは死んでしまったんだ。」

少年は山羊が息絶えた静かな病室のことを思い出す。白いカーテンが揺れて、新しい朝が来る。でも、山羊は朝を迎えられなかった。

「アビが眠っていた場所には窓から光が射して、黒いふかふかの毛が輝いてた。彼が眠る様子はすごく綺麗だった。…僕は彼が死んだとき、悲しくはなかったよ。なんならちょっと嬉しくて、感動した。アビがちゃんと生きて、ちゃんと死ねるって事実がすっごく美しく思えて、感動した。終わりがあるってのは、愛おしいことだよ。アビが死んで初めて、僕は彼がちゃんと「生きてた」ってことを実感できた。馬鹿みたいな話だけどね。」

そう言って少年は目配せをする。そして微かに俯き、瞳を閉じた。

「だから僕はハルに祝福をあげた。もう少し生きられる時間を用意してあげた。死ななくていいという未来をあげた。アビが座るはずだった命の椅子を、代わりにハルにあげたんだ。多分それが神様的によろしくなかったんだろうね。」

彼は自嘲するように笑う。そして懐かしげな表情で、何かを思い出しているみたいだった。

「ハルが死ぬのは、当然のことだと思ってた。僕は彼女がただ生きて、ただ死ぬという事実が愛しくて堪らない。今も昔も、ずっとね。……でも、アビが死んだ時、よかったって思った。よかった。これで命の空席ができた。ハルは死ななくて済むんだって。」

それから彼は「でも、勘違いしないで。」と笑いながら言葉を紡いだ。

「彼女に死んでほしくないとは別に思わなかったんだ。でも僕は、もう少し彼女に生きていて欲しいと思った。もう少し生きて、その人生を僕に見せて欲しいと思った。…ただ生きて、ただ死ぬことは美しいことだよ。でも彼女の命に、僕は何らかの価値を見出してしまったんだ。彼女がこれから先、死ぬまでの長い長い時間の中で、一体何をして、何を残せるのか、興味があったんだ。「生きたい」と望む彼女が、本当に生きたらどうなるのか見てみたくなった。」

そう話す彼はとても安らかで楽しそうに見える。そして彼は視線を移し、こちらを見た。

「でもここで君に伝えたいのは、焦る必要はなにもないってことだ。何かをしなければならないとか、何かを残さなきゃいけないとか、そういうことに縛られなくていいってことだ。生きているものに、死はいつだって平等にやってくる。生きる条件も環境も違うかもしれないけれど、死ぬってことは普遍的で、みんなに平等に訪れる。」

少年はしゃがみ込んで風に揺れていた一本の薄紫色の花を摘み、その花弁を川に流した。

「ただ生きて、ただ死んでいく。それだけで十分愛おしいことだ。終わりがない僕は君たちに心底そう思う。君たちは生きて、やがて等しくいつか死ぬ。それだけで君の命は十分愛おしい。だから僕は死をもって君の命を肯定する。生きてきたその時間を肯定する。君が君として生きてきたその絶え間ない努力を承認する。」

彼はしばらく花弁が水に乗って流れていく様を眺めていたが、それが見えなくなると静かに立ち上がり、「終わりがないってことはさ、はじまりもよくわかんないんだ。」と呟いた。

切実な瞳で少年はこちらを見つめた。

「ねえ、僕は今生きている?君には僕が生きているように見える?」

彼の目には微かに涙が滲んで、水面が光に反射するように煌めいていた。しばらくすると彼は申し訳そうに眉根を寄せて言う。

「愚門だったね。僕は生きていなくたって、死ななくたっていいんだ。僕は世界にとってそういう装置だから。…ただ僕の頬に触れる温かい手がいつか僕の傍に帰ってくればいい。ただそれだけ願ってる。」

彼は俯く。沈黙。川の流れる音と、風の吹く音だけが聞こえて、彼を包み込んだ沈黙はあたりに咲いていた淡い色の花を撫でていく。やがて、向こう岸で何かがきらきら光って、彼は顔を上げた。

「もうそろそろ時間みたいだ。君は君の在るべき場所に還らなきゃいけない。君に一つだけ、伝言を頼んでもいいかな。もし君があっちで生きてるハルに会えたら…といっても彼女ももうおばあちゃんだから、僕のことなんて忘れちゃったかもしれないけど。でも、もし会えたら、『迷わずに、おいで。』と、そう伝えてくれないかな。迷わずに、魂に導かれるまま歩いておいでと。そうしたらきっと、君は僕のところにちゃんと辿り着けるから。」

花の花弁に触れ、そっとそれを撫でる。花弁はしっとりとしていて、少年はその感触に酔いしれるように独り言つ。

「僕の永遠に彼女が加わるんだ。もしかしたらこの世界でも、彼女の時間は有限かもしれない。でも、それで構わないよ。僕はもう一度彼女に会いたい。彼女に会って、その可愛い口でもう一度君の話を聞かせて欲しい。そうしたらきっと、僕の孤独も少しはましになる気がする。」

そう言って少年は勢いよく立ち上がった。膝の埃を手で払って、あっけらかんとした声で笑う。

「なんて、暇だったから言い訳考えたけど、本当はもう一度僕が彼女に会いたいだけなんだ。さあ、君は還るんだ。迎えが来たらちゃんと手を繋ぐんだよ?離したら今度こそ君は、僕みたいに何者でもなくなってしまうんだから。」

少年の声が、その姿がだんだんと遠くなって、意識は遠のく。彼はこちらに向き直って小さく手を振る。その姿はもうすぐ見えなくなりそうなほど、遠く、霞む。

「じゃあまたいつか、君が死んだときにでも。」

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燻る煙に手向けの花 天上ひばり @tenjyou-hibari

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