第3話

 え………。え?

 アシェル・レイ・ヴァイス……?

 私の推し……?


 呆然と彼の髪を掻き上げたままフリーズする。やばい。脳が働かない。


「……ティナ……?」


 ネージュの怯えた声にはっと我に返った。


「ネ、ネージュ! ど、どうしよう!?」


 色々とやばい。推しに会うとかやばい。傷だらけだけど。


「えぇ!? 私に聞くの!? わ、分かんない! え、死んでないよね?」

「うん。一応息はあるけど……」

「どこかに連れていく……って行っても病院は隣の村にしかないし……」


 浅く息を繰り返す少年をじっと見る。

 生気がなく、パッと見死んでいるようにも見えた。


「……死んじゃうかな……」


 ネージュの暗い声にひゅっと息を飲んだ。

 死ぬ? 彼が?


「死な……ないと思う」


 彼は攻略キャラだから。死ぬなんてことはない。きっと。

 どれだけひどい世界観を持つ漫画でも、アニメでも小説でも主要人物は絶対に死なない。同じように、この世界も乙女ゲームなんだから彼は攻略キャラなんだから、死ぬはずがない。


「でもねぇ、こんなにボロボロだよ? 私の家は無理だけど、ティナの家になら……」


 私の家になら、運べるかもしれない。

 私は唇を噛み締めて首を振る。


「……ダメだよ」


 私は知っている。

 彼が今、身売りの商人達から逃げてきた状態だっていうのは。つまり、これから彼はヴァイス家に保護される。


 これは、決定事項だ。

 この森は隣国と繋がる唯一の場所。ここを抜ければヒロイン達の待つ大国__アルメリア王国がある。こんなちんけな田舎ではない。

 最先端で、この大陸でも中心の、大きな国だ。


 恐らく、今日か明日にはヴァイス家の誰かがここを通るだろう。ゲームで見た。この大きな木も、勿論見た。状況はまさにそのままだ。


 どっからどう見てもゲーム開始前。


 私が邪魔をしていい場面ではない。出しゃばる所じゃない。ゲームを愛する私がシナリオをぶち壊すなど、全国のアイ君クラスタに叩かれる。


「……帰ろう」


 ネージュも苦い顔をして頷いた。


 うちは貴族でも貧乏だ。それをネージュは危惧しているのだろう。人が、それも男の子が増えたら食費はバカにならない。


 母さんにも、父さんにも申し訳ない。

 きっと彼らはアシェルを無下にはしないだろうが、いつも以上に仕事が忙しくなる。

 育ててきてくれた両親の苦労と、目の前にいる推しの運命。現実を見れば、私は天秤に掛けることすら戸惑う。


 彼には運命がある。明確で、確実な運命が。ヴァイスという高貴な貴族の仲間入りを果たし、田舎ではなく輝く学園でヒロインに惹かれてその心の傷を癒していく。


 けれど、私たちには確実な未来も、運命もない。明日、家族でいられるかすら分からない。父さんが町に出稼ぎにいくかもしれない。この前話しているのを聞いた。食事ができても、金が入らない。そう。決定的な打撃はそこだ。ヘーメルには、お金がない。

だから服を買うのも、靴を買うのも難しい。ほぼ自給自足の生活。


 私は憮然と彼を見下ろす。

 ごめんね。君には素敵な未来が待っているんだ。


 前世なら間違いなく拾っていた。

 自分でお金を稼げていたし、貢ぐ相手はゲームだったから。


 私は目を逸らした。


「……ティナのせいじゃない」


 ネージュの声にハッと我に返った。


「……うちも、貧乏だから。ティナのせいじゃないよ」


 だから、そんな苦しそうな顔、しないで。

 ネージュも苦しそうだった。


「大丈夫。彼は助かるよ。……風が言ってる」


 嘘だ。風は私を咎めるようにビュウビュウ唸っている。

 どうして助けないのか、と怒っている。


「そっか、風が……」


 ネージュは覚束ない足でふらふらと私に寄ってた。抱えている籠からは甘いタヤの果実の匂いがする。


「帰ろう」


 私は静かに頷いた。


 ごめんなさい。

 1つの呟いて、踵を返す。


 もうすぐ雨が降りそうだ。





 ◆




 夜、ガタガタと風が窓を揺らす音で目が覚めた。というよりは、風の声が五月蝿すぎて目が覚めた。


 またはっきりと歌っている。


 "どうして助けないの? ねぇ、どうして?"


 咎めるような声は幻聴じゃない。私の罪悪感からでもない。本当に、風が怒ってる。

 ガタガタとより一層激しく窓が揺れた。取っ手が外れて勢いよく雨風が吹き込んでくる。


「仕方ないでしょ! 彼を養うお金も度胸もないんだから!」


 風が室内に入ってきたのに腹が立って思わず叫んだ。

 にしても珍しい。気まぐれな風が彼のことをしつこく私に言ってくる。これは相当お気に召したようだ。


 むっと口を尖らせていれば、クスクスと嘲笑うような鈴の声が聞こえた。


 "ふふ、あはは、変なの。ムキになっちゃって変なの。でも、早く。早く助けて。彼、還っちゃう"


 今度はザッと血の気が引いた。風の言う、還るとは、自然に還る。つまり、死んでしまうということ。


 どういうこと? 彼が死んでしまうって?


 布団を投げ捨てて薄い靴を履く。一応傘を手に持って差さずに夜の森に駆け出した。




 ◆




 風の声を頼りに奥へ進む。雨も降ってて地面がぬかるんでる。滑りそうになるのを何度も堪えて、濡れた髪を掻き上げた。


 思ったよりも深いところに彼はいたようだ。夜だから尚更遠く感じるのかもしれないけど、これは隣国に近い。


 やっぱり来ない方が良かったんじゃないかと一瞬思うが、彼が死にそうという風の言葉を思い出して首を振った。


 暫くして、夜でも存在感のある木の近くにたどり着いた。昼少年がいた場所に近寄る。

 あいにくランプがない。電気なんてものも存在しないし、雨だから火も炊けない。


 手探りで少年の居場所を探すと、こつんと何かに当たった。足? 違う。鉄?

 そこでハッとする。足枷だ。


 足枷から足を辿って、体を触る。ひんやりと冷たくて、思わず手を引っ込めた。


「まさか……」


 "大丈夫。大丈夫だから早く。早くしないと"


 風の声に背中を押され、彼の体をまさぐって上半身を起こす。少年の肩を自分の肩に掛けてぐっと踏ん張った。


「おも……!?」


 水を含んだ自分の服、少年の来ているボロ着、さらに彼は意識を失っている。重い。


 ぐぐっとなんとか立ち上がることはできた。良かった。農作業を手伝っていて。


 この年にしては力がある方だと思う。

 風の声援を受けながら一歩一歩と足を前に出した。木々もざわざわと道を開けて、雨から私たちを守るように囲ってくれる。

 歩きやすいように地面には草が生えた。


 すごいな、この森は。やはりヘーメル家の結界なだけある。この森自体が生きているようだ。


 "こっち、こっち。早く、早く"


「分かってるって!」


 応援しつつも急かす風に怒鳴りながらも足は休めない。雨が邪魔だ。前髪が引っ付いて気持ち悪い。お風呂に入りたい。


 顔を振って水しぶきを飛ばすが、また雨のせいでへばりつく。


 アシェルが起きる様子は全くない。まぁ、今目が覚めて抵抗されたら困るけど。


 私に担がれたアシェルから爽やかな香りはしない。ただ、汗臭さと泥臭さだけ。自慢の黒髪は水でびっしょり濡れてるし、綺麗な金色の瞳に関しては見てすらない。


 彼の腕は細かった。

 私が肩で担げるくらいなのだ。相当軽いだろう。


 想像したような華やかな出会いでは無かったが、嫌な感じはしなかった。爽やかな香水の香りよりもずっと人間臭さがあっていいじゃないか。

 今日の昼、家に帰ってもやもやした時よりもずっと気分がいい。助けて正解だった。


 思わず笑みを浮かべれば、風もクスクス笑う。まるで私の心中を知っていたかのように。


 やっと家に着いたのは雨も上がった朝だった。


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