虫取りの思い出

小林 梟鸚

一話完結

 吉田拓郎の『夏休み』も井上陽水の『少年時代』も、今は昔となりにけりだな。2020年の8月、冷房の効いた自室でゲームをしながら、俺はそんな事をふと考えた。今年の1月ごろに精神の不調をきたした俺は、2月に仕事を辞め、そのまま俺は実家に帰ると6ヶ月もの間求職活動もせずにゲーム三昧の日々を過ごしていた。外出機会はどうしても少なくなり、特にやりたい事も無いのであてがわれた実家の二階の部屋で一日ゲームをして過ごす事が多くなった。そうしているうちに桜は散り菜の花も枯れ、梅雨も終わり台風も家でやり過ごし、気付けば外は殺人的な猛暑の季節だった。日本に住んでいる人なら、この『殺人的』という表現もあながち誇張とは言えないという事はご存じだろう。昔はどうだったかもはや覚えてもいないが、とにかく最近の日本の夏は、あまりの暑さに命を落とす人も少なくない。こんな季節に外出するのは自殺行為だ、俺が部屋で一日中ゲームをしているのも、そう言う理由だ。いや、そういう事にしておいた方が都合が良い。

 しかし最近のゲームは良く出来ている。ゲームの中の日付と現実の日付が連動していて、ゲームの中で季節も変わる。家にいながらにして四季を感じる事が出来るのは、俺のような出無精にはありがたい事だ。ゲームの中の夏は、日本人の夏休みの原風景に忠実に再現されていた。青い空には入道雲が立ち上り、青々と茂った木の幹ではセミがけたたましい鳴き声を上げ、アサガオやヒマワリの花が咲き誇っていた。ゲームの中で俺は、麦わら帽子に白いシャツの格好で、麦茶を飲みスイカを割り花火を楽しみ虫を取った。不思議な事にゲームの中の俺は、日焼けもせず熱中症になる事も無く一日中外で遊べるのだ。

「ハジメーっ」階下から母親が叫ぶ声が聞こえた。「母さんちょっと買い物行って来るからね、留守番頼むよーっ」

「はいよーっ」俺は適当に返事をした。こういう時にちゃんと返事をしないと母親は機嫌を悪くする。聞こえてるなら返事をしなさい、と。だから俺は面倒くさくてもちゃんと返事をする。この家では俺の立場は弱いのだから。それにしてもこんな炎天下、買い物に行かなきゃいけないなんて主婦も楽じゃ無いな。何があっても人間飯を食わずには生きては行けない。我が家は男が働き女が家事をするという古式ゆかしいしきたりを今でも忠実に守っており、食事の準備は全て母親の務めだ。だから俺の母親は、毎日買い物に出かけるのだ。家族を飢え死にさせないために。

 そんな事を思いながら、俺はふと、立ち上がって窓の外を見てみた。白い軽自動車が家の前の道路を走っていくのが見えた。母親は車に乗って買い出しに出かける様だ。この猛暑の中、賢明な選択だと思った。もっとも、人間がこうして車を走らせるから温室効果ガスが排出され地球温暖化が進むのだ。長い目で見れば俺達は自分で自分の首を絞めている。それを言うなら俺の部屋の冷房だって同じだ。だがそれでも外がここまで暑くなってしまった以上、自分の命を護るために文明の力を利用するのは仕方が無い。みんなが一斉にエアコンも車も捨ててしまえばよいのかもしれないが、それは囚人のジレンマというやつだ。わかってはいても止められない愚かさが、人間の限界なのだろうか。

 窓の近くにいるだけで、直射日光が当たって肌が痛い。俺はカーテンを閉め、ゲームに戻った。ゲーム内で俺は、虫取り網を持って虫を捕まえる。捕まえた虫はゲーム内の商店で売る事が出来る。夏の間は、それが主な収入源なのだ。全く、リアルの世界でもこんな風に金を稼げれば良いのに。ゲーム内ではカブトムシやアゲハチョウやオニヤンマをどんなに沢山捕まえても絶滅する事も無い。基本的に捕れば捕るだけ得をするシステム。そして俺は虫を売ったお金で、キャラクターの服や家や道具を買う。このサイクルがゲームの基本だ。もちろんゲーム内では食費も光熱費も考える必要は無いので、稼いだ分は丸儲け。働けど働けど尚我が暮らし楽にならざり、なんて事は無い。俺はコントローラーを操作する自分の手をジッと見た。

 もちろん、ゲームの世界も現実の完璧な上位互換では無い。ゲーム内では、お金も所持品もどこかで『カンスト』となる。造られた世界では、どこかで限界にぶち当たるのだ。お金をカンストまで集め、全てのアイテムを集め終わり、出来る事を全てやり尽くしたら、今やっているゲームはそれで終わりだ。しかも……俺はスマホでゲームの攻略情報を見ながら考えた。今の時代、ゲームで何が出来るか、逆に言えば何が出来ないのかは、ネットをちょちょいと調べればすぐにわかってしまう。例えば、夏に虫取りで捕まえられる虫の種類は攻略サイトによれば150種類。そのうち俺はまだ41種類しか捕まえていないので、この先俺は109種類のまだ見ぬ虫との出会いが待っている訳だ。しかし、150種を捕まえ終えてしまえば、もうそれ以上の発見は絶対に無い。ゲーム内のデータに存在しない151種類目を発見する事は不可能なのだ。

 そう言えば、俺がまだ子供だった頃、家のそばでゲームでは無く本当の虫取りをやった事があったな。虫取りってけっこう難しいんだ。捕まえようと思っても逃げられる事もたくさんあった。でも、そうやって必死に捕まえた虫を観察する時、子供心にこの虫がまだ誰も見つけた事の無い新種だったらどうしよう、みたいな他愛の無い妄想に心を躍らせたものだ。新種とまではいかなくても、ちょっと珍しい種類の虫を捕まえた時は嬉しかった。最近の子供は虫取りをするのだろうか?それとも俺みたいに、ゲームの中でしか虫取りをせずに夏を過ごすのだろうか?気温が40℃を超える日すらあるのに、外で虫取りをしろと言うのも酷な話か。

 そう考えると、俺の少年時代は幸せだったのかもしれない。そして俺と同じ様に幸せな夏休みを知っているクリエイターは、今の子供たちにせめてゲームの中では夏休みのワクワクを体験して欲しいとこんなゲームを創ったのだろうか?そのゲームに俺の様な中年ニートが夢中になっているのは、皮肉な話じゃないか。俺はプラトンの『洞窟の比喩』を連想した。プラトンによれば俺達人間は洞窟に繋がれた囚人であり、この世の真の姿をその目で直接見る事は出来ない。ただ、光によって洞窟の壁に映し出される影の姿を眺める事によって、真の姿を間接的に知る事が出来るのみである。ゲームクリエイター達は、真の日本の夏休みを知らない子供達にゲームという影を通じてその一端を示したかったんじゃないだろうか?それなのに俺の様ないい年をした大人が、現実から逃げるようにその影を追ってる訳だ。

 いやいや、こんなのは全て妄想だ。失業してネガティブになってる俺の妄想だ。妄想と言っても半分くらいは当たってるかもしれないが、このストレス社会、時には現実から離れ美しい思い出と空想の世界に入り浸るのも悪い事じゃ無いはずだ。そもそも凡そこの世の芸術とかエンターテインメントとか呼ばれる物は程度の差はあれそう言った性質を有しているはず。現実がどんなに辛くても、芸術に感動しているその瞬間だけは、人間は確実に幸福なのだ。仏教でこんな説話があった気がする。ある男が虎に追われ、切り立った崖に垂れ下がった蔦に飛びついた。しかしその蔦は鼠に齧られ、今にも切れそう。絶体絶命のその時、男は目の前に野イチゴが生っているのに気付く。男はその野イチゴを食べ、その美味しさに感動する……。人間の人生にとって、芸術・エンタメは野イチゴの様なものだ。

 しかし人生、いつまでも野イチゴを食べてる訳にもいかないのだ。いつまでも部屋でゲームばかりやってると母親の起源が悪くなる。この年になって親の顔色を伺わなければならないなんて情けない限りだが、残念ながらそれが現実なのだ。具体的には、母親が買い物から帰ってくる頃には一旦ゲームを止めなければダメだな。車で出かけてたから、近くのスーパーで買い物を済ませるのであればすぐに帰って来るだろう。俺はもう一度、窓の外を見た。

「おっ」俺は思わず声が出た。母親の車が見えたからでは無い。窓の外には、ゲームの中の俺と同じ格好の少年がいた。彼は、麦わら帽子に白いシャツの格好で、虫取り網と虫かごを持っていた。見たところ小学3、4年生くらいだろうか。肌は日焼けして真っ黒で、そこだけがゲーム内の俺とは異なっていた。こんな灼熱地獄の中、虫取りをする子がいるとは思わなかった。正直俺の中に、最近の子供に対する偏見があったのかもしれないな。最近の子供は家でゲームばかりやって外で遊びもしないという。いや、偏見を抱いていたのは自分自身に対してなのかもしれない。もう6ヶ月もこんな生活を送っていて、俺は自分で自分をダメでどうしようもない奴と決めつけてたんじゃないか?そう考えると、その事に気付かせてくれたあの虫取り少年は、俺にとっては仏様、まさに地獄で仏じゃないか?

 いや流石にそれは言い過ぎか。ちょっと思わぬものを見たからって興奮しすぎた。どうも俺は思考がすぐ飛躍する癖がある。人間そんな簡単に変われれば苦労は無い。しかし、それにしても……俺はやっぱり、ちょっとだけ童心を思い出した気がした。虫取りか、最後にやったのはいつだろう?もう記憶にも残って無い。でも、悪く無いんじゃないか?もちろん熱中症対策は万全にしなければ危険だが、一番熱い時間を避けて、水分と塩分をしっかりとれば大丈夫だろう。考え出すと、俺は居ても立っても居られなくなった。俺はスマホで通販サイトを開くと、虫取り網を検索した。形も値段も色々あるな……まぁ、安いのにしとくか。俺はあまり高くない虫取り網を買い物かごに入れ、注文ボタンをクリックした。

 虫取り網が届くのは2日後の予定だった。その日までに今日の俺のささやかな感動が持続してると良いが。

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