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 おれはずっと同じ姿勢で椅子に腰かけている。耳からは周囲のあらゆる音がごちゃっとした状態でのたくり込んでくる。それをおれの脳みそがミックスしながら受け取るわけだ。ミックスはこちらの意のまま。やれあれを前景に出そうだとかそれは下げようだとかこの辺が迫ってきた離れてったといったことが自由自在だ。逆に全部を入ってくるまま塊として聴くことは難しい。どれかひとつに惹かれれば他のものがサポートに回ったかのように一歩下がる。おれのちょっとした意識ひとつでどの音でもソリストになるしバッキングにもなる。ピアニッシモしか奏でないパートでも一番前へ出すことができるし、デカい音をまき散らすやつを無視することもできる。


 ひとしきり雨で耳を癒してからヘッドホンに手を伸ばす。ヘッドホンはおれを雨音のコンサートから別の空間へと運び去る。仕事だ。コンピュータを操作すると耳元で丹という音が響く。丹をひとつ聞いてまたコンピュータを操作する。このスネアドラムの丹がなかなか決まらない。おれはモニタを見ながらEQイコライザーを操作したり残響リバーブを調整したりして音を作っていく。ドラムセットの他の部分、バスドラム、ハイハットシンバル、トップシンバルやエフェクトシンバル類などもオンにしてまとめて再生する。どくつちたくつどどくつちたくつちとそれぞれの楽器がひとまとまりになって流れる。スネアドラムの丹は流れの中で汰のように聞こえるけれど後ろはなくなったわけではなく別の新たに発せられた音が前に出て隠されてしまっただけだ。ドラムセットはそれぞれが次々に前へ出ることで音の連なりを生み出している。それでいて個々の音の尻尾はどうでもいいわけではなく、その余韻をどう処理するかが全体を大きく左右する。おれはひとつひとつを調整しては全体を聴き、聴いてはまた個別に調整するということを延々と繰り返す。


 ドラムが決まってきたらそこにベースを足す。演奏はすでに全部録音されていて、その中から特定のトラックだけを選んで再生することができる。ドラムとベースを鳴らした状態で聴き、ベースだけにして調整しては合わせて聴き、聴いてはまたベースだけを調整する。演奏が良ければこの調整次第でバスドラムとベースはまるで一つの楽器のように溶け合う。


 おれが作る音楽はだいたいドラムとベースとギターがナマで、それ以外は全部シンセサイザーだ。ここでいう生というのは演奏家が演奏するというような意味だ。コンピュータに演奏させると生じゃなくて人間が演奏すると生。よく考えるとわからなくなる話だ。こういうことはよく考えるものではない。慣例だから乗っかっておけばいい。とはいえ例えば生ギターといった使い方をするとそれはアコースティック、つまり電気を使わないギターのことを指したりもするからややこしい。ピアノの場合はピアノが生という言い方をするとほぼ間違いなくアコースティックのピアノを使うという意味になる。演奏家が電子ピアノやシンセサイザーみたいなもので演奏すると、演奏は生だが楽器が生ではない。不思議なことにベースが生という場合は電気ベースでも生と呼ぶのに、ピアノが生だと電子ピアノは含まれない。そういえば電化されたピアノは電子ピアノというのに電化されたギターやベースは電気ギターや電気ベースで、決して電子ギターとは呼ばれない。こういう言葉の定義は曖昧で、曖昧なまま使われている。


 最近はドラムやベースはコンピュータでやってしまうことが増えているけれど、おれは自分がもともとベーシストなのでベースもドラムもそれぞれの楽器を使って録音するということにこだわっている。ベースはおれが演奏し、ドラムとギターと鍵盤は普段からよくつるんでいる仲間に演奏してもらう。ピアノなどの鍵盤楽器のパートは全部鍵盤のやつに弾いてもらい、それ以外の弦楽器だ管楽器だといったものはおれがコンピュータを使って作る。そういう楽器だって生で録音できるものならしたい。しかし演奏家のギャラだ、録音スタジオの使用料金だといった話になるから予算次第ということになる。結果、録音に手間や金のかかる楽器ほどコンピュータに置き換えられることになり、予算の少ない現場でのそうした楽器の仕事は激減する。するとそういう層で仕事をしていた中堅以下の演奏家は店をたたむことになり、一流だけが生き残る。一流の価値はどんどん上がり、より高い予算のあるプロジェクトでしか使えなくなる。


 少ない予算の中で自分の安いギャラの中から友人たちにバンメシをおごるとかそういうほとんど手弁当状態で演奏してもらい、それを夜な夜なコンピュータでこうして調整する。これがおれの仕事だ。

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