第37話『別れ』
海から強い風が吹きつけてきた。少し離れた岩場からカモメに似た白い水鳥が飛び立った。岩場に打ち付ける波音が聞こえて来る。祈りを捧げ終わりティコは立ち上がった。その髪が風になびいた。
「さあ、にーちゃん。あたいはここまでだよ」
寂しげな声でティコは告げた――。
「なあ、ティコ」
「何だい、にーちゃん」
「俺に付いて来ないか」
「……」
通信では稲田姫は〝許可できない〟と言った。これはもし許可さえ取れればこの世界から人間を連れて帰ることができる意味だと俺は捉えた。まあ、最初から聖女を連れて帰る手段があるので当然だ。俺はもし、ティコを連れて帰る許可をもらえるならどんな条件でも飲むつもりでいる。
「あたいは……。あたいは、ついていかないよ……」
絞り出す様な声でティコは答える。
「どうして! 街に戻るのは危険だぞ!」
「うん、わかってる……。でも、あたい一人なら大丈夫。いくらでも隠れる場所を知っているから……。うまくやれるさ」
「それでも、そんな危険なところに戻るより、俺と一緒に来ないか。付いて来さえすれば後は俺が何とかするぞ!」
「へへへ、そう言ってくれるのはうれしいけど、あたいにも事情があるんだ……」
少し照れ臭そうにティコは答える。
「その事情って何だよ。生きるのより大切な事なのか」
「あたいにとっては一番大切な事なんだ」
「それは何だよ」
「それは……」
ティコは俯き、少し間をおいて話し始めた。
「あたいは本当は予備兵なんだよ。成人してないから兵役は無いけど、兵士として国のために命をささげると誓ってるんだ」
「国も無くなっちまうんだ、そんなこと関係ないだろ!」
「わかってないな、もう……」
「何が?」
「あたいは最初からにーちゃんの〝監視〟をしてたんだよ」
「なっ……」
ああ、そうか……。最初にティコが現れたのは中央広場だった。でも、その前に日の入り門で聖紋入りの通行証を警備の兵士に見せたのだった。きっとその時から俺には監視が付けられていたのだ。そして、その役に選ばれたのがティコだった……そういう事か……。
「この街に来た目的は? この街で何をするつもりなのか? それを探るのが仕事だったんだよ」
「そ、それでも……」
「駄目だよ、にーちゃん。あたいにはまだ報告しないといけない義務があるし、次の仕事もあるんだ」
「あんな状態の街に何があるんだよ!」
「あるよ。にーちゃんには教えられなかったけど、波止場の地下に秘密の集合場所があるんだ。城に行かなかった兵士たちは今そこへ集まってる」
「どうしても戻るのか」
「うん」
「そうか……」
「うん……」
「……」
沈黙が流れる。打ち寄せる波の音だけが聞こえて来る。
別に騙されていたと言う気はしない。こんな世界なのだ、仕方ない。ティコにはティコの事情があってそれに従い生きている。多分、俺が無理やり連れて帰るのは間違いなのだ。
「だからさ、にーちゃん。いや、ミソライレツにーちゃん。さよならなっ!」
「うん、そうか……。さようなら、ティコ」
俺はそう言って小さなティコの体を抱きしめた。彼女の温かい体温が伝わってくる。
俺たちは俺たちの居るべき場所に帰る。ただ、それだけの事だ……。
頭ではわかっている。それでも、この五日間の行動を共にしてきたこいつと別れるのがつらい……。
出来る事ならこのまま連れて帰りたい。いや、俺の方がここに残る方が良いかもしれない。
しかし、ティコは俯いたまま後ろに下がり俺の
「あたいはここまでにーちゃんと一緒に居れてよかったと思ってるよ」
「ああ、俺もだ」
「そんじゃなっ、元気でな! にししし」
その笑顔は太陽と呼ぶには余りにも寂しい笑顔だった。
ティコの顔が、周りの景色が、全てが滲んで見える。
俺の脳裏にこの五日間の記憶が鮮明によみがえってきた。
さようなら……。
寂しい笑顔を残しティコは岩場を下っていった。いつの間にか日は随分と高くなっていた。吹き付ける風が心地よい。
俺は岬に立ち小舟に乗って岸から離れていくティコの姿を見届けた。
「これで良いんだ。これが正解なんだ……」
誰も聞く事の無いその言い訳は、打ち寄せる波の音にかき消されてしまった。
いつも通り……、いつもの通りの一人ぼっちに戻っただけだ……。俺は寂しさなんて感じない。
ティコの姿も小さくなり小舟も岩陰に入って見えなくなってから、俺は一人、岩壁を登り始めた。
一見するとただの岩場に見えるが、確かにそこには道があった。大きな岩には足場が設けられ、急な斜面には楔が打ち込まれている。俺は這うようにして崖を登った。およそ三十分かけて崖の上に到着した。
岸壁の上はちょっとした広場になっていた。無残に破壊された丸太小屋。打ち捨てられた朽ちた材木。クレーンでも設置されていたのだろうか? 大きな滑車らしき金属も落ちていた。雑草の生え具合から見てここが放置されたのは少なくとも三年くらい前だろう。
「!」
太い丸太が何かに踏みつけられてへし折られている……。一体何の襲撃を受ければこんな事になるのだろう? 俺は辺りを見回した。生き物の気配はない。ウエストバッグに手を突っ込み呟いた。
「エクスカリバー……」
久しぶりに取り出したそれは相も変わらず新聞紙を丸めたものだった。どうせならもう少し威嚇効果のある木刀などにしてほしいところだが、重さも新聞紙程度なのでこれはこれで有りかもしれないと思い始めている。
俺はその新聞紙を両手で構え慎重に草地を進んだのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます