5
週末、土曜の三限授業の後、あたえがウチに来ることになった。いつも電車の中で別れてしまうが、同じ駅で一緒に降りる、たったそれだけのことが嬉しかった。
友だちを家に泊めたいと母に告げたとき、ひどく喜んでいた。ようやくぼくが家に泊めるくらいの友人ができたことを素直に嬉しかったのだろう。
「一軒屋なんだ」
ぼくの家を見て、あたえが感心したように言った。
「そうだよ。あたえはマンションなの?」
「いや、一軒家だけど。こんないい家じゃない。古い。嫌いじゃないけどね」
ドアノブを捻り、玄関に入るとあたえが「おじゃまします」とはっきりとした声で言った。
はい、と母が返事をしてリビングから出てきた。
「いらっしゃい」
母は表情を照れでいっぱいにした。
「はじめまして。羽野亜多英です」
あたえはとてもきれいな角度で礼をした。
「はじめまして。宝良の母です」
顔をあげると、模範的な笑顔をつくった。あたえは、無愛想なぼくと違って笑うのがうまい。だけどいつも感情の光は行方不明な気がした。
「夕飯まで宝良の部屋で休んでいてね」
「はい。ありがとうございます」
ぼくはよそいきの顔をした母に何も言わず、あたえに「行こう」とだけ告げ、二階にあがった。
ドアを開けるとぼくの部屋の隅に折りたたんだ布団がふたつならんでいた。
「ベッドないんだ?」
あたえが珍しそうに言った。
「ああ、ベッドを置くと部屋がベッドのものになるだろ」
「確かに狭くなるけどな」
とりあえず、ぼくは間隔をあけて布団を敷いた。
「もう寝るのか?」
あたえがぼくを嘲笑した。
「ちょっと横になりたい」
ブレザーだけハンガーにかけるとあたえも同じようにブレザーを脱いだ。ぼくが寝転んだ隣の布団にあたえも寝転ぶ。
「いい匂いだ。きみの匂いはこの柔軟剤の匂いだったのか」
あたえが布団に鼻を埋めながら言う。あたえの匂いの正体も同じなんだろうか。
ぼくはいつも通り天井を見つめた。あたえもぼくの真似をした。
「お母さん、似てないな」
「あぁ。どちらにも似てない。というか足して二で割った顔かな」
「そうか。でもいいひとそうだな」
母親に対し、“いいひとそう”と評されるのはなんだかむず痒かった。
「あんまり厳しい母親ではない」
「だろうな」
もう寝るのか? と言ったのはあたえのほうなのに、目を閉じてすぐに寝息を立て始めた。
起き上がって、あたえの顔を間近で見る。いつもよりもずっと近い位置。欲望は心の中で暴れまわった。触れたい気持ちを制御し、立ち上がって、学習机に座った。そこに伏して、目を閉じる。なぜ、泊まりに来ないかなんて言ってしまったんだろう。何度も何度も息をして、欲望が落ち着くのを待った。気分をそらすために、鞄から問題集とノートを取り出し、数学の課題をはじめた。集中すると、やがて後ろであたえが眠っていることなど気にならなくなった。
六時を過ぎ、母がドアをノックして「夕飯よ」と告げに来た。
「はい」
数学を終え、読書をしていたが、椅子からおりてまだ眠っているあたえを起こした。
「おい、あたえ起きろ」
あたえはゆっくり目を開け「あー寝てた」とぼんやりした表情で言う。いままでそんな姿は見たことがなくてすごく可愛らしいと思った。しばらく休んでいた欲望がまたうごめきだした。
夕飯はすき焼きだった。食卓には父もいて、あたえは母にしたのと同じように自己紹介をした。父は母以上に目じりを下げ、あたえを歓迎した。
いつも空席のぼくの隣の席にあたえが腰をおろした。
「嫌いなものきいてなかったけど、すき焼きでよかったかしら?」
「はい。すき焼き、あまり家ではやらないので嬉しいです」
訊いて気まずい空気になったら困るので、あらかじめ両親にはあたえは祖父母と暮らしていることを伝えていた。
「そう、ならよかったわ。さあどうぞ」
「いただきます」
ぼくが先にそう言い、あたえも「いただきます」と続いた。わりばしを逆さにし、あたえに肉と野菜を取ってやった。
「ありがと」
「遠慮なく取っていいから」
「うん。ありがとう」
その様子を見ていた母が小さく笑った。
「なんだかあたえくんってはじめて会った気がしないわ」
父もそうだなと頷いた。
あたえが思い出したように「似てませんか? ぼくと宝良くん」と言った。あたえがぼくをそんな風に感じていたなんてはじめて知った。ぼくがそう思っていたようにやはり、あたえもそう思っていたんだ。
両親はあぁと声を合わせ、母が
「でもあたえくんのほうがずっといいわよ」
と言った。
「そんなことないですよ。はじめて会ったときからなんか似てるって思ったんです」
ぼくも、と言い出せないまま、黙々と肉を食べ続けた。
「宝良はあんまり笑わないし」
「ほっとけ」
「あたえくんがはじめてきた友だちなのよ」
「そうなんですか。嬉しいです」
「仲良くしてくれると嬉しいわ」
母がそう言うとあたえは「ぼくもです」と笑った。
なんだかぼくの知っているあたえではない気がした。
食事を終え、あたえを先に風呂に入れ、ぼくも後に入った。あたえを部屋にひとり残すことにあまりためらいはなかった。あたえを待っている間、早く出てきてほしいような、しばらく出てきてほしくないような気持ちでいっぱいだった。あたえはだいたい十五分ほどで出てきてちゃんと髪を乾かして出てきた。
家に来る前に頼まれたように少し数学をあたえに教え、いつも通り十一時には眠くなったので、寝ようと告げた。
枕と掛布団を用意し、電気を消して布団の中に入った。
窓の外から虫の声がする。あたえが横にいると思うと普段は気持ちが落ち着くのに、きょうは興奮と戸惑いと気持ちを抑止させようとして逆にまた興奮していた。
「ぼくは、夜が嫌いだな」
あたえがそう言う。
「どうして」
「じぶんが欠けていくような気がするんだ」
あたえはこちらを見て笑った。さっき母にしていたのと違う顔だ。
「でも、きょうは宝良の顔がここにあって、安心する」
「ウチでよければ毎週でもきなよ」
「それは悪いよ」
「いいよ」
「宝良」
「何」
あたえは口を歪めて笑った。
「ぼくのこと好きだろ」
唐突な質問に頭の中が真っ白になった。
「何言ってんだよ。そんなわけないだろ」
「好きだろ」
あたえはもうわかっているのに敢えて確認しているような、いじわるさを表情に混ぜていた。
「きみもさっき言ってたけど、ぼくも、きみはぼくに似ていると思っていた」
ぼくがそう言うと相槌を打つことなくまっすぐぼくを見ていた。
「逆に訊くけど、あたえはぼくのことどう思ってる?」
「好きだよ」
恐ろしいほどの即答だった。
「だけど、ぼくに似ているからじゃない。最初に見たときから気に入っていた。宝良は?」
同性愛とか、異性愛とかそういうことを考えたことはない。ぼくは世界にどんなひとがいるか知らない。だけど、いま目の前にいるあたえがとんでもなく好きだ。
「好き、だよ」
もう明白だったのに改めて口にすると少し恐かった。だけど、あたえは嬉しそうな顔をした。だんだんと、あがっていた口角はさがり、不安な色に変わっていった。
「どのくらい、好き?」
「どのくらい……」
「キスしたい? セックスしたい?」
「せっ……」
そんなことを考えていると思いもしないのに、あたえの唇から、その声でその単語が出て少しショックだった。
あたえは布団と布団の間にある境界線を越えてぼくの布団の中に入ってきた。
ぼくの体を跨り、頬にキスをされた。口にされたわけではないのに頭の中に火花が散った。
ぼくの胸を両手で触ながら、唇にキスをされた。感触はわからない。呼吸ができなかった。唇を塞がれて呼吸を止めたのかもしれない。もう戻れない。友情の一線を越えるつもりはなかった。――ほんとうか?
あたえはぼくの股間に手を当てた。
「やめろ」
ぼくが手を退けようとしたが、あたえはやめなかった。
そのまま、懸命に擦りながら、何度も何度もキスしてきた。抵抗するのもどうでもよくなり、あたえに身を委ね、不器用に舌と舌を交わらせていると、頭から湯気が出ているような気になった。
「ズボン汚れる……」
ぼくがそう言うとあたえが離れ、枕元にあったティッシュを持ってきて、ズボンと下着を脱がされた。ぼくのものをティッシュで包みながらあたえは擦り続けた。
「大丈夫。汚れないよ」
脱力するとずっととどまっていたものは一気に放出された。
ティッシュに付着したものを見てあたえは声をあげて笑った。
「おもしろい」
ぼくには屈辱と絶望に似た感じしか体になかった。
彼に対する想いはあくまで綺麗な友情に酷似した愛情であればよかった。それなのにぼくは完全に性欲を持っていた。
あたえはぼくが見ている前で、ズボンと下着をおろし、自慰してみせた。
目を閉じながら、ぼくの名前を呼び、体をくねらせ性器を擦る姿にばからしいほど、愛しさしか感じなかった。
あたえは少量の体液をぼくが出したものの上に出した。
「混ざったよ」
愛しさの中に恐ろしさが足され、少し怯えた。あたえはぼくよりも少し壊れている。
あたえはティッシュを丸めてゴミ箱に捨て、手を別のティッシュで拭いた。
「はじめてだった?」
彼はもうじぶんに与えられた布団に寝転ぶ気などなく、ぼくに体を密着させた。
「どれが」
「ぜんぶ」
「ああ、ぜんぶ初めてだった」
頷くと、あたえは唇の端をあげた。
「じゃあ、忘れないでね」
そういってもう一回ぼくの唇にキスをした。
「忘れたときにもっかいしよう」
こんなことをされて忘れられるわけがない。
あたえはきっと、はじめてじゃない気がした。だけど、はじめてであってほしいとどこかで願った。
「よかった。もし嫌いって言われたらどうしようかと思った」
あたえは優しくぼくの股を手で触った。気味が悪くて怖い。だけど心地よくて気持ちいい。悪いことをしてしまった気がするけどこの定義づけは難しい。ただひとつわかるのは、ぼくらは、ふつうの友だちではいられなくなってしまったこと。
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