オタク高校教師との会話 萌えと学問
本日は文芸部顧問の現文ゲームオタク先生との会話紹介の最終回です。
私 「最近は、萌えと学問の関係性のこれからの変化が気になるところです」
先生 「例えば?」
私 「そうですね、今のところ2つあります。まず、ライトノベルと文学という対立です。特にWeb小説上で発展するライトノベルっていうのは、その、深みっていうものがないような気がするんです」
先生 「それはわかるよ。多くのものは似たような展開になってしまっている。それゆえに作品自体のオリジナリティ部分は少なくなっていしまっている」
私 「それはどうしてなのでしょうか」
先生 「それは歌舞伎と似たものだと思うよ」
私 「歌舞伎ですか?」
先生 「そう。歌舞伎を楽しむ人々は、形を変えながらも受け継がれてきた演目が見たいのであって、新しい演目を見たくて劇場に足を運ぶわけではない(存在しないということを言いたいのではないですよ)。そうであったとしたら、何度も同じ演目を見に行く理由にはなならない。これは変化ではなく、平穏を求める国民性の表れではないだろうか。そして、それはライトノベルにおいても同じということではないだろうか」
(ここの話に関しては、色々疑問を持ちやすいところではあると思いますが、重要なのは国民性の表れがラノベの作品の類似性の高さの一因だろう、ということです)
私 「なるほど。それで2つ目なんですが、美術部の後輩はあるアニメキャラクターを切り絵にしていいたことです。でもそれは美術と言うのは難しく、表現の手段を変えただけではないかと思うんです」
先生 「確かにそういったことはあるかもしれないが、それは単純に切り絵にしたかったというだけだろうか。そのキャラクターが持つ背景に彼は何か思いがあったのではないだろうか。それをその切り絵に表現したいという気持ちもあっただろう。
今、多くの二次元のキャラクターたちはオタク集団のなかで共通の意味を持つ『記号』となった。それを引用することで、その記号が持つ特有の意味を簡単に引き出すことができる」
私 「確かに、それによって自分の表現したいものを他人と共有することがしやすくなりますね」
先生 「まあただ、作品っていうのはオリジナリティが求められるものでもあるから、そこは難しいところだろうね」
でもまあ、そのオタクに共有された記号を用いた作品って、オタクという世界を離れると通用しなくなってしまうものですけどね。それを美術と言うのかは、難しいかもしれません。
ああでも、私はピカソのキュビズムの作品たちを価値のあるように見えるかと、初見で聞かれても「はい」と答えたりはしないでしょう。そういう風に、美術と言うものには美術と言う世界にのみ通用する価値観があるのです。
数学に関して深い造詣のない人に数式を見せて、これは素晴らしいものなんだと、その数式だけで思わせることが難しいのと同じようなものです。
だから、このオタクによる記号を用いた美術もある美術集団の中では一般的なものになることはあるかもしれません。
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