第8話
きっかけは些細なことだった。小川が三連単で二〇万円馬券を取り、それをさんざん自慢した。その当時、僕はまるで覇権が取れず、いらだっていて、彼のふるまいが癇に触った。やめてくれと言っても、小川が馬券について語りつづけたのも、怒りを煽った。
「それで、どうにも自分が抑えられなくなって、SNSで悪口を書きまくったんです。あれこれ話を盛って。そうしたら思いのほか広まってしまって、正直、驚きました」
小川は元々、口が悪く、学内での評判がよくなかった。顔も見たくないと言っている者もおり、悪意のある噂は広がりやすかった。
「それが教職員にも伝わって。そのうちの一人があいつの内定先と知り合いで、会社の偉い人にも伝わってしまったんですよ。馬券ジャンキーだとか、そういう話も。それでいろいろとこじれて、最終的には内定取り消しになりました」
「それは、間の悪い」
「そうとばかりも言えないんです。僕も悪口のメールを出したんですよ。内定先に。影響していたと思いますよ、間違いなく」
噂に、僕のメールが加われば、破壊力は絶大だったであろう。何を言ってもいいわけにしかならない。
「内定が取り消されて、小川は自棄になって。あとは落ちる一方でした。彼女にも振られて、憂さ晴らしに馬券を買いまくって。大きな借金を作って、今では家で引きこもりですよ」
「額はどれぐらいですか」
「300万です」
「さすがに大きいですね」
「全部、僕が悪いんです」
今でもおぼえている。悪評が広まった当時、落ち込む彼を見て、内心、ほくそ笑んでいた。ザマを見ろ。さんざん馬券自慢をした罰だと信じて疑わず、なおもネットで悪口を書きつづけた。それだけでなく、彼を馬券に誘い、さらに大金を投じるように仕向けた。
小川が大負けして荒れ狂う様子を見るのは、気持ちよかった。
罪悪感がこみあげてきたのは、家で引きこもってうつむいている姿を見てからだった。自信を失い、呆然としている様子は強い衝撃だった。
何とかフォローしようとしたが、もうその時には何をやっても届かず、僕にできたのは転げ落ちる小川を見ることだけだった。
大きな息を吸うと、僕は両手で顔を煽った。苦味の果実が心に広がる。
どうにも苦しい。
「それで、三好さんが小川さんの借金を何とかしてやろうと思ったのですか」
やわらかい声がする。口調が変わらないのか、ぼくにとっては救いだった。
「放っておいてもいいのに」
「別に、あいつを助けてやりたいとか考えているわけじゃないんですよ。これは、純粋に、僕自身の問題です」
顔をあげると、珍しく剣崎さんはこちらを見ていた。瞳はやわらかな輝きを放っており、それに引っぱられるようにして、話をつづけた。
「この後ろめたさを抱えていては、僕が先に進めないんです。いつまでも、あの時のあいつの顔を引きずって生きていくことになる。それぐらいならば、すべてを清算して、前へ出て行きたい。自分がこの先、少しでも気楽に生きることができるように、やるべきことをやる。それだけです」
「借金の支払いがその一つだと。きっかけを作ったから」
「そういうことです」
何もしなければ、この心のモヤモヤはいつまでも消えない。
ならば、せめて金を払う。そうすれば、罪滅ぼしをしたような気分になって、楽になる。完全に自己満足であるが、今の僕にはそれが最大の望みだった。
「でも、三好さんが欲しいのは一五〇万ですよね。残りのは半分は……」
そこで剣崎さんは言葉を切った。じっとこちらを見てから、先をつづける。
「ああ、残りは借金をするつもりだったんですね。罪滅ぼしも兼ねて」
「それぐらいならば、何とかなりますから」
親や友人からかき集めて、一五〇万はどうにかなった。後の半分を手にするために、今日、ここまで来た。
「小川は無理して金を借りていて、返さないととんでもないことになります。期日が迫っているので、もう後はギャンブルでどうにかするしかなかったんです」
「競馬で背負った借金を競馬で返すというわけですね。いいですね、その考え方」
剣崎さんが立ちあがったので、僕ははじめて彼女から見おろされることになった。
「事情はわかりました。三好さんの口から聞けてよかったです」
「すみません。嘘をついて」
「いいんです。私のところに来る人は、いろいろな事情を抱えています。もっとすごい嘘をつかれたこともあります。だから、こうして裏を取ったりするのですが……」
剣崎さんは書類を振った。
「やっぱり依頼人が本音を話してくれるのはありがたいものです。心が震えました」
剣崎さんは胸に手を当てて、芝コースを見た。
その口元がほんの少しだけゆるんでいる。
笑った?
そう思った時には、剣崎さんは背を向けて芝生の上から離れていた。
「行きましょう。三好さんの願い、きっちり叶えてさし上げます」
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