第3話
券売機の近くまで来ると、僕はマークシートを取りだして、ゆっくり記入していく。
中山5レース。単勝、7番、1万円。
すべてはここからはじまる。何としても150万まで増やす。
身震いを抑えると書き終えると、不意に剣崎さんが声をかけてきた。
「そこ、間違っていますよ」
「え、どこですか?」
「馬番のところです。6になっていませんか」
あわてて確認すると、7のところが塗りつぶしてあるのがわかった。
「あっていますよ」
「え、そうですか」
いきなり剣崎さんが身体を寄せてきて、その胸が腕に触れた。懸命によけるも、なおも近づいてくる。
「確かに正しいですね。光の加減で、ずれて見えたようです。すみません」
「い、いえ」
僕は懸命に呼吸を整えている間に、剣崎さんは僕の手からマークシートを取って、自動券売機に向かった。
「おわびに、これは私が買ってきます。そこで待っていてください」
「あ、待ってください。お金」
一万円札を差し出すと、剣崎さんは少し首をかしげながら受け取った。
何なんだ、この人は。お金もなしにどうやって馬券を買うつもりだったんだ。
人混みを抜けながら剣崎さんは券売機で馬券を買うと、また人に埋もれそうになりながら戻ってきた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
馬券を確認すると、まず金額に目がいく。
ついで馬名。馬券の種類だ。
あまりのことに身体が震える。こればかりはどうにもならない。
「では行きましょうか」
僕らはスタンドを出て、ゴール前に赴いた。
まだ発走まで間があるので、人影はまばらだった。
冷たい風が吹いて、沈黙が包みこむ。
剣崎さんはじっとコースを見ていた。スマホを見るわけでもなければ、新聞をチェックするわけでもない。はじめて会った時と変わらぬ表情で、緑の芝生に視線を向けている。
そもそも、会ってからここまでの間、この人は競馬関係の資料をまったく見ていない。
馬を見て馬券を買う。それだけだ。
何か変だ。本当にこれでいいのか。
いらだちを感じて、僕は思わず口を開いた。
「でもすごいですね。そんなにお若いのにプロの馬券師なんて。馬券で儲けるなんてすごく大変なのに」
多少、嫌味の分子を混ぜ込んだが、剣崎さんの表情は変わらなかった。視線をあわせることなく静かに応じる。
「そうでもありません。コツさえつかめば、どうてとでもなります。それに私は馬券で儲けているわけではありませんから」
「指南ですか」
「そうです。自分の予想を教えて、報酬をもらう。あくまで馬券を買うのは、教えた人で、私は基本的には関わりません」
剣崎さんの説明を聞くかぎり、指南料で生活する馬券師は結構いるらしい。
生徒というか、教えてもらう人はそれなりに身分のある人たちで、彼らの予想を聞いて、20万、30万と突っ込む。大きなレースだと、一回の馬券が100万を超えることもあるようで、的中すればそれこそ数千万単位の配当となる。
「予想が当たるのなら、自分で買った方が儲かるんじゃないんですか」
「駄目です。私は貧乏なので。人に買い目を教えて、報酬をいただくやり方があっているんです」
「だとしたら、申し訳ないですね。僕の指南料は少なくて」
「かまいません。話しあって決めたことなので、大丈夫です」
あいかわらず突き放すような言い回しだ。視線もあわせようとしない。
何を考えているのか、さっぱりわからない。わずかに感情が見えたのは競馬場について語った時だけで、それ以外の時には、簡単な喜怒哀楽すら読み取ることができない。ひどくつっけんどんである。
それでいて、冷たさを感じないのはどういうわけなのだろう。無関心にとも違う何かがある。
気になって剣崎さんを見ると、やわらかい声が響いてきた。
「おもしろい人ですね、三好さんは」
「え?」
そこでようやく剣崎さんは、僕に視線を向けた。
「少し時間があるので、話をしたいと思います。よろしいですか」
「あ、はい。もちろん。どうぞ」
「なぜ、私に馬券指南を求めてきたのですか。いちおうサイトはありますが、まともな検索ではまず引っかかりません。文面も挑発的にして、わざと儲からないように仕向けています。接触するまで手間がかかる上に、うまくいくかどうかわからない。それを押してまで、会おうとした理由が知りたいのです」
「それは、メールで説明したとおりで……」
「直に、依頼人の口から聞きたいのです。私はいつもそうしています」
口調は変わっていないのに、これまでにない迫力がある。僕は気圧されながらも、口を開いた。
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